三十九 貧民街半壊戦闘(前)
レカは救貧院の前に立っていた。破れたスーツは脱ぎ、タンクトップのみの格好。右肩から肘まで、リリアが布を巻いてくれた。滲んだ血が痛々しいが、ジャドワとの戦闘で受けた傷は浅い。シャルトリューズの粘液のおかげで、脱臼して入れ直した肩の炎症すらかなり軽くなった。暗殺者の体は不眠と連戦に耐え、まだ動く。まだ動ける。だが……
「ったく、この街はどーこまで燃えちまってるんだ?」
避難民の誘導は、暗殺ギルドの護衛たちが引き継いでいた。レカはその護衛と連携して救貧院の周囲に防衛線を敷いた。市街地での監視と待ち伏せで暗殺者の右に出るものはいない。ジャドワの本隊は中央へと退き、貧民街であばれてるのは末端の傭兵だ。止めるのは造作もない。
冒険者たちの活躍だろうか。中央街の火災は収まりつつあったが、貧民街の火はまだだ。救貧院に近い木造家屋の火勢は衰えない。ガズボに火が燃え移りそうな建物を壊させたから、なんとか救貧院は燃えずに済みそうだが……。
「くっそ、これじゃあこの区画は元のようには戻れねえな」
レカはため息をついた。目の前には自分たちが崩したガレキと燃え尽きた残骸が山になっていた。もともと廃墟の建物が多かったとはいえ、貧民や日雇い労働者の中には、この区画を雑魚寝が基本の安宿すらも取れない時の簡易宿泊所に利用していた者もいる。その影響がどこまで及ぶか、未知数だった。
ガズボとシャルトリューズが、近くにいた。
ジャドワの襲撃の最中に逃げ出し、タティオンに叩きのめされて送り返された二人。しかし今は……気まずさを見せるでもなく、平然とレカの傍にいる。ガズボは崩れた壁の残骸に腰を下ろし、シャルトリューズはその隣で触手をだらりと垂らしている。反省の欠片もない。それが愚連隊だった。
レカは二人に何も言わなかった。何も言わず、救貧院の方角に目を向けた。リリアが避難民に食糧を配っている気配がする。石壁に守られた救貧院は、まだ無事だった。
(とりあえず、ここを守る)
それだけが、今のレカに残された行動指針だった。父のことは考えない。エリオンのことは考えない。世界が滅びるという告白は考えない。今この瞬間、守るべきものがここにある。それだけでいい。
レカがピクッと反応する。
(なんだ?)
それは赤い瞳に強化された感覚を総動員した洞察力と言うべきもの。本来なら気づくはずのない「なにか」に気づいた瞬間。
(何か……来る)
その時……空気が変わった。
暗殺者の感覚が、思考よりも先に反応した。ゾッ。レカの生涯で一番と言ってもいいくらい、怖気がさし、顔や頭皮のあたりの血流がゾクっと増す感覚があった。皮膚が粟立つ。首筋の毛が逆立つ。殺気ではない。殺気よりも原始的な何か。獣が、より大きな獣の気配を嗅ぎ取った時の……本能的な恐怖。
「ふー、ふー」
自然とレカの呼吸が荒くなる。タティオンの言葉がふいに再生された。訓練の時の言葉だ。
(暗殺者にとって戦闘は本業ではない。暗殺者の仕事は殺し……殺せると見れば全力で攻め、殺せないと見れば全力で引く。それでいい。それが我々だ。レカ。おまえは少しムキになりすぎるきらいがあるな……。相手が強い時、いや、警戒している時でさえも、撤退の選択肢が一番上に登ってくるのだぞ?)
(考えるなっ!!)
レカは必死で思考を追い出そうとする。逃げたい。要はそれだけのために記憶の中からリクツを引っ張り出そうとしているのだった。レカにとって初めての経験だった。
(だが……)
レカは強く思った。
(あーしが逃げれば……愚連隊の二人はともかくリリアたちが危険だ)
音が聞こえた。遠く……しかし急速に近づいてくる音。建物の壁が砕ける音。屋根瓦が弾け飛ぶ音。大砲の砲弾が建造物の中を跳ね回るような、規則性のない連続的な破壊音。
「ふー、ふー」
レカの呼吸がさらに制御できなくなってくる。ガズボが立ち上がった。獣人の嗅覚が何かを捉えていたようだ。ヒクヒクとしきりに空気を嗅いでいる。
「姐御、こいつはいったい……」
鼻腔が広がり、黄色い獣の目が南西の方角を凝視する。
「何か……来る」
その声に、いつもの粗暴さがなかった。レカの赤い瞳が北東を見た。大時計塔の方角だ。煙の向こう、三区画先……建物の上層部が砕けた。ガレキが空中に舞い上がり、煙と粉塵の中に影が走った。
「あ……」
レカの体が跳ねる。レカの視覚が遠方に捉えたのは、小さな影だった。普通の人間よりもずっと小さい。まるで子供のような……だが頭から多数の何かが伸びており、それは体よりもずっと大きい。しかしついうっかり瞬きしてしまった瞬間、その姿が消える。
「う!?」
速い。
レカの赤い瞳をもってしても、軌道を追うのがやっとだった。影は建物の壁を蹴り、屋根を踏み、煙突を足場にして跳躍し、次の建物へ……大砲の砲弾のように。
二区画先。一区画先。
……来る。
「散開しろッ!」
レカが必死の形相で叫んだ瞬間……救貧院の前の広場に、それが降ってきた。
*
レカは咄嗟に身を翻す。
「うっ!」
凄まじい音と共に石畳が砕けた。着地の衝撃で広場の石畳が放射状にひび割れ、破片が四方に飛散した。護衛の暗殺者が一人、その破片に打たれて吹き飛んだ。粉塵が巻き上がり、視界が白く塗りつぶされる。レカは一瞬そちらに気を取られたが、警戒を崩せばやられると思った。
最大の脅威は、粉塵の中に……立っていた。
レカの目が赤い光を漏らし、瞬時の相手の姿を見てとる。小さかった。百四十五センチ。レカよりも二十五センチ低い。痩せこけた体に包帯が巻かれている。長い緑の髪が背中を覆い、その毛先が蠢いていた。浅黒い肌。体を覆う包帯は一部解けていく。顔のそれもはらりと落ちる。その下……閉じた瞼が一瞬だけ開かれ、輝く赤い目がチラッと見えた。瞳はなく、純粋に赤いオーラの塊のような目。見えているには思えなかった。
「ぐう!?」
それを見た瞬間、レカの頭が割れた。いや、割れるような頭痛だった。後頭部と目を結んだ線のどこかで、赤い閃光が炸裂するような激痛。
(な、なんだ、この感覚……っ!? ぐううう!?)
最初は疲労だと思った。しかしレカはすぐに違うと気づいた。これは……記憶? 記憶という単語が思い浮かんだ。そしてその記憶という言葉は刃となって意識を切り裂いた。
……暗い部屋。小さな手。泣き声。
「レカ、わぁの妹……」
(なんだっていうんだよ)
知っている。この存在を、知っている。レカはそう思った。だが名前が出てこない。記憶が封印の底で暴れている。しかしその封印を突き破るよりも先に……体が動いた。
ゼゴが跳んだのだ。
ここまでの時間、ゼゴが着地してから数秒もおかなかった。凝縮された時間の中で、レカは目の前数メートル先にいる百四十五センチの小さな体が……大砲の砲弾のように射出されたのを見た。
何か判断できたわけではない。レカは反射的に横に跳んだ。暗殺者の本能としての回避だった。超人的な反応速度で体を捻り、紙一重で突進をかわす。ウニの棘のように広げられた触手がレカの右肩を擦り、炎症痕の激痛で彼女はうめく。ゼゴの体が数秒前までレカの立っていた場所を通過し、その背後の壁に激突した。
ドン!
まさしく大砲さながらだった壁が砕ける。煉瓦と漆喰の破片が散り、壁の向こう側の建物が傾ぐ。
「なんつー速度と威力だよ……」
……速い。
ジャドワよりも速い。ジャドワのロングソードの突きは、レカの赤い瞳ならどこに来るかまでは予測できた。しかしこの存在の動きは……予測そのものが成立しない。予測を超えた方向へ、予測を超えた速度に一瞬で到達する。
「厄介だぜ」
レカは短刀を抜いた。
壁の残骸からゼゴが這い出てきた。激突した衝撃で……全身の骨が折れているはずだった。
バキバキ! メキメキョ……。
「う!?」
レカは見た。土煙とホコリの向こうで、それが体から飛び出た骨を新たな皮膚と頭部の触手で覆い、新たに形成した皮膚で包み込むのを。
「あいつ、着地……いや、着弾するたびにあんな……」
ゼゴは立ち上がった。折れた体が、目の前で繋がっていく。骨が接合され、筋が再生し、数秒もかからずに元通りになる。
再生。
致命傷が即座に回復する。
ドン!
ゼゴが再び大砲発射のような音を立てて跳んだ。今度はレカではなく……ガズボに向かって。
「なっ……!?」
レカの声が、驚愕に裂けた。触手の塊になったそれは、レカのすぐ横2メートルのところを突風のように過ぎ去る。ゼゴはレカを無視した。最初の突進がレカに向かったのは、レカがゼゴの進路上にいたからにすぎない。排除すべき障害物として認識すらしていなかった。ゼゴの真の標的は……最初から、ガズボだった。
*
ガズボが両腕を交差させて突進を受けた。音がした。骨が軋む音ではなかった。もっと鈍い……肉と骨が同時に潰れるような音だった。二百五十センチ、三百キロの巨体が防御の姿勢のまま、後方へ吹き飛んだ。石畳の上を跳ね、転がり、崩れた長屋の壁に激突して止まった。壁が砕けた。瓦礫がガズボの体に降り注ぐ。
動かなかった。
百四十五センチの少女の体当たりが、獣人の巨体を……一撃で沈めた。
「ガズボッ!」
レカが飛んで近づきながら叫んだ。返事はない。瓦礫の下で、ガズボの巨体が横倒しになっている。シャルトリューズも飛び出す。
「あー、まっずいわねえ、あれ……」
交差させた両腕が不自然な角度に曲がっていた。胸が微かに動いている。息はある。だが意識はない。赤い瞳の力さえ除けば、このパラクロノスで並ぶ者のない膂力の持ち主が……防御の上から、一撃で昏倒させられた。
触手の塊がガズボが埋まった場所の近くにぼとんと落ちた。シャルトリューズがビクッと驚き跳ねてガズボに近づくのをやめる。震える声を上げつつ
「あ……あ、あんた……その触手……」
地上に降りたゼゴはガズボの方へ歩き出した。数メートル横のシャルトリューズはまるで存在していないかのように無視して。仕留め損ねた獲物に近づく捕食者の足取りだった。
緑の長髪がうねり、集成し、無数の触手となって広がっていく。逆さにたちのぼる緑の滝が、樹木の枝へと凝り固まっていくようなありさま。その長さはゆうに持ち主の身長を超え、質量すらも大きく上回っているだろう。やがて無数のツタとなったそれは、赤い花を咲かせる。ぱあっと音すら聞こえるくらいに、勢いよく。
「あぁ……」
シャルトリューズはそれに目を奪われていた。尻餅をついて。紫のワンピースの尻が汚れるのも構わずに。じっさい、赤い花々の美しさは目を見張るほどだった。たとえ戦闘中であっても、このカーネーションとツタの織りなす光景は……誰しもみじろぎすら止めてしまう美しさだろう。
だが、それは致命的な罠でもある。咲いた真っ赤な花や、ツタとなって硬化した触手の先端から紫色の液体が滲み出す。毒だ。動けないガズボに、それが毒霧になって向かっていく。
シャルトリューズはその光景を見て、ガズボを助けるのも忘れて、こう呟いた。
「私の……ニオイ? え? そんなわけない。あなた、誰?」




