第三十四話 娼館の触手族
レカはダンダンとわざと大きな音を立てて階段を上がる。部屋から顔を出していた色々な種族の娼婦たちがさっと顔を引っ込める。シャルトリューズはいっそふてぶてしく、階下を見下ろす手すりにもたれかかっていた。シーツで裸体を隠しているのが艶かしい。
何本かの触手が不規則に宙を漂い、残りはだらりと手すりから垂れ下がっている。その先端からは淡い紫色の粘液が滴り、床に小さな水溜りを作っていた。彼女の表情には一片の反省も見られず、むしろ得意げですらある。レカが近づくと、シャルトリューズの桃色の皮膚がうっすらと光を放ち、独特の甘い香りが漂ってきた。
「やーった! やった! 勘違いした貴族の坊やを退治してくれて、あんがとー♡レカちゃん♡」
シャルトリューズは身をくねらせながら両手を合わせる。触手が興奮したように空中で舞い、その先端からより多くの粘液が床に落ちた。彼女の軽薄な態度は、まるで重大な事態を引き起こしたことなど何も気にしていないかのようだった。レカは無言で触手の一本を引っ掴んだ。
「いだだだっ! なんなのよ、もーう、殺さなかったんだからいいでしょーっ!?」
そしてシャルトリューズの言葉を無視し、彼女の仕事部屋に引き摺り込んでドアを壊れそうなほどの強さで閉めた。バタンという音とともにシャルトリューズの悪態も聞こえなくなる。階下にいた店主はふーっとため息をつき、割れたガラスが散乱した床や、弾痕の残る壁や天井を見上げ、カウンターに肘をついて頭を抱えた。
娼婦の仕事部屋の中は、粘液の飛び散った跡が壁中に付着し、煙たいくらいに濃厚な匂いが漂っていた。天井から吊るされた布の間には、うっすらと紫の霧がかかったように浮かんでいる。ここが亜人種専用娼館となる前、人間の寝室だったこの部屋は、シャルトリューズの仕事場となってからは異界の洞窟のような雰囲気に変わり果てていた。
「シャル……っ! オメーなあっ」
レカが右手をピッと空気を切り裂く音を立てて振り抜く。革のグローブについた粘液が完全に吹き飛び、部屋の中に散った。
「この前客を発狂させたと思ったら、今度はこれか!?」
シャルトリューズはレカが乱暴に引っ張った触手を体に巻き付けた白いシーツで拭う。しかしそれでいて、誘惑するように、あるいは小さな女の子が甘えるように、クネクネと艶かしく体を動かした。
「えー? だって……かわいかったんだもん、あの若い子……」
レカはもうお手上げだとばかりに呆れた顔をする。粘液の匂いはますます濃くなり、天井の隅には凝縮して液滴となったものが光を受けて宝石のように輝いている。部屋の隅には使い古された枕や毛布が山と積まれ、その表面には皮膚に触れると神経に直接働きかける成分を含んだ粘液の痕跡が光を放っていた。レカはシャルトリューズを睨んだ。
「……今回は、感度何千倍なんだ?」
触手族の女は、ヌラヌラと粘液に塗れたタコのような体をくねらせながら、なんとか誤魔化そうとする。部屋の奥からは透き通った触手が伸び、壁に掛けられた鏡を掴んでシャルトリューズの方へ引き寄せる。彼女は己の姿を愛でるように鏡を覗き込みながら答えた。
「えー? ……わっかんなーい」
そのあまりに不真面目な態度にレカはついカッとなって、本気の殺気を発しながら怒鳴りつける。
「正直に答えろ!!」
その声で天井から粘液の滴りが数滴落ちてきた。シャルトリューズは笑みを崩さない。ぷっくらした唇からふふっとイタズラっぽい笑い声を漏らした。彼女の周りの空気がさらに色濃くなり、部屋の隅々まで充満する粘液の霧は、魔法的な光を放って渦を巻いていた。
「えっとねえ、今回はねえ……感度三京倍! ふふっ、楽しんでもらえたよね?」
そういって、媚びて頭をかしげて見せた。彼女の顔が映る鏡には、その背後に無数の触手が密集して蠢く姿も映り込んでいた。レカがどすの利いた声を出す。
「京ってなんの単位だボケえええええ!!」
ビリビリと部屋の壁が震えるようだった。流石のシャルトリューズも触手で耳を塞ぐ。大きく呼吸したせいで、レカは部屋の空気を無用に吸い込んでしまう。
「うっ……ゲホゲホ!」
慣れていてもきつい。たまらず咳き込んだ。これが、シャルトリューズが持て余される理由である。彼女の吐息にも微量ではあるが媚薬成分が混じっている。粘液の濃厚な匂いは、部屋中に張り巡らされた触手の分泌物だけでなく、シャルトリューズの全身から発せられる微粒子にも含まれているのだ。それゆえ、客からの評判はすこぶるいい。しかしたまに行きすぎると、こうなるのだ……。レカは目を細め、自分の頬を叩き、ゆっくりと呼吸を整える。粘液の充満した空気に慣れてきたのか、落ち着きを取り戻す。シャルトリューズに向けて顎をクイッとやってみせる。
「ホレ、服着ろ。謝りに行くぞ」
シャルトリューズは、レカを無視したかのように触手を天井に伸ばし、そこからぶら下がっていた半透明の布を引き寄せる。そしてカーテンがわりにベッドを隠し、横になった。
「えー、めんどくさーい」
極めて気だるそうに言って、うつ伏せになってくつろぎ始めた。少女のように足をパタパタさせて。
「もう、あの金髪のかわいー子が看病してるんならよくなーい?」
彼女の言葉に含まれる意地悪さに、レカの眉間にシワが寄る。テルがハーマンの看病をしている姿を想像し、さすがに連れ出したのは悪いだろうかと、罪悪感を覚えた。あの闘技場の一見以来、レカの中にテルを頼ってもいいんだという気持ちが生まれていた。しかしまだ人に頼ることに慣れていない彼女である。いきなり朝に部屋から連れ出してしまうのは、やりすぎだったような気もする。だがそれも一瞬のことで、雑念をふりはらって厳しい口調で言い返す。
「自分で自分のケツを拭くことから全ては始まるんだよ」
レカは散らかった部屋を片付け始める。そしてその場にあった比較的綺麗な衣服を拾い上げ、シャルトリューズに投げつける。それを器用に触手で受け止めると、シャルトリューズは渋々身につけ始める。
「はぁーったく。自分で自分の手についた血を……贖えもしないくせに、この子はさぁ」
シャルトリューズの言葉が突然、レカの胸に刺さる。言葉の選び方が絶妙すぎる。この触手族の女は、相手の弱みを嗅ぎ分けるのが得意だった。レカは殺気を放ちながら振り返る。氷のように冷たい赤い瞳。さすがにシャルトリューズもヘラヘラした笑みが消える。部屋に充満していた粘液の匂いすら凍りつくような沈黙が訪れる。彼女の触手が無意識に身体の近くに寄り集まり、防御姿勢を取った。
「え、えへへ……レカちゃん? 冗談、冗談だってば……」
その声にはおおげさなまでに恐怖が混じっていた。彼女はレカの内に秘められた闇の深さを垣間見て、それがどれほど危険なものか理解したのだろう。それを見てレカはゆっくりと息を吐き出す。なんだか疲れた。赤い瞳から殺気が引いていく。
「さ、それ着たら階下に行くぞ」
シャルトリューズは素直に頷き、慌てて触手と衣服をまとめ始めた。触手は折り畳まれると、急激にほどけてただの長いピンクの髪の毛になっていく。粘液はねっとりした水分を失ってシルクのような輝きに変わる。
彼女が身支度を整える間、レカは窓を開け放つ。部屋の中の甘ったるい空気が風で洗われていく。レカは朝の空を見つめていた。遠くに見える大時計塔の影が、まるで街全体に覆いかぶさるように伸びている。
彼女は自分の手を見た。グローブに覆われたそれは、鍛え上げられた、確かな暗殺者の手。それは指一本で人の命を奪うことができる手であると同時に、救うこともできる手だった。レカは静かに拳を握り締め、振り返った。
「いくぞ、シャル」
シャルトリューズは普段の態度に戻り、厚手のワンピースを整えながら戸口へと向かう。
「朝日楼」は、暗殺ギルドが経営する、珍しい亜人種専門の娼館だ。店で娼婦として客をとっているのは、人間以外の種族のみだった。狼や猫の獣人の女、小柄なドワーフの女性、混血で出自もよくわからない人々……。パラクロノスでは、誰にも話せないような話題を話せるような場所が必要とされることも多い。単なる生理的な欲望の捌け口としてだけでなく、ギルドの垣根を超えて談笑できる場所として、娼館は機能していた。ロビーでは時に娼婦そっちのけで客同士の会話がなされることもあった。貴族も、商人も、傭兵隊長も。それからいずれかのギルドのスパイや、あるいは街の外の勢力のスパイも。本当の目的を隠して、娼婦と遊ぶフリをするだけでいいのだから。
『朝日楼』は中流の娼館ながら、亜人種であることで退けられた職業娼婦が集まり、互いを支え合うコミュニティのようになっていた。店主や娼婦を引退した女性たちも、単に暗殺ギルドのために金を稼ぐ商売人という側面だけでなく、彼女たちの保護者としての役割も担っていた。
そんな『朝日楼』の名物が、レアな触手族としてお客にサービスを提供する桃色肌のシャルトリューズだった。彼女の特殊なサービスは高値で取引され、店の収益の大部分を担っていた。彼女が自身の体から提供する媚薬効果のある薬液は、触手族が死滅した今となっては、唯一の惚れ薬である。ただし、事故もよくあった。今回のハーマンのように、彼女の接触によって一時的に錯乱状態になる客もいたのだ。あるいは、もっとひどい場合には、暗殺ギルドがもみ消すことも……。
レカはシャルトリューズを連れて階段を下りると、支配人にぺこりと頭を下げた。
「すまねえな、いつもいつも……」
店主は苦笑しながら、手招きした。
「いやあ、稼いでもらってるからこことしては構わないんですがねぇ……魔力ストーブのある待合室で貴族のお客様に休んでいただいております」
三人は狭い廊下を通り、店の奥へと進んだ。木の床は長年の使用でところどころ削れているが、日々丁寧に磨かれているのがわかる。廊下の壁には各種亜人種の美しい姿を描いた絵が飾られていた。差別の多いパラクロノスで、亜人種の美しさを理解する数少ない場所のひとつだった。
待合室のドアを開けると、ハーマンが毛布をかぶって、魔力の青い炎にあたっていた。テルが側に座り、低い声で何か話している。ハーマンの顔色はまだ優れないが、少なくとも正気は取り戻しているようだった。
「ハァ……」
支配人は、ため息をつくしかない。感度増幅薬。もちろん、そのような類は、特殊なプレイの道具として、娼館には用意がある。触手系モンスターはいくらでも郊外で獲れ、傭兵ギルドが持ち帰ってきて、港から輸出する分すら確保される。……しかし、シャルトリューズの体が分泌するそれは、質が大きく違っていた。
支配人はハーマンに声をかけた。
「お客様、大丈夫ですか? 中和用の薬湯が効いてよかったです」
ハーマンは支配人の方を振り向いたが、直後にレカとシャルトリューズの姿を認めると、一瞬だけ恐怖に瞳を見開き、毛布に隠れるような仕草をした。しかし、軽く咳払いをすると、すぐに貴族としての威厳を取り戻し、顎を上げる。
「ふん、無礼者どもが。貴族に対してこのような真似をするとは……」
テルが少しだけ視線をハーマンに送ると、彼は言葉を飲み込んだ。レカはシャルトリューズの背中をポンと叩く。今はもう触手族には見えない、人間と同じ姿のシャルトリューズは、不満そうな顔をしながらも、形式的に頭を下げた。
「すみませーん。ちょっと、盛り上がりすぎちゃって」
へらへら笑って口にされたその言葉には、真摯さのかけらもなく、むしろ嘲るような調子さえ感じられた。レカはシャルトリューズの背中で彼女の髪ををきつく掴んだ。普通の毛髪に見えても、それは触手として神経が通っている。シャルトリューズは小さく悲鳴を上げ、今度はもう少し誠実に謝罪した。
「も、申し訳ありませんでしたぁーっ」
ハーマンは鼻で笑うと、テルの方を向いた。
「まったく、今日はお前の意外な一面を知ったよ。闘技場の時といい、お前も人を驚かせる面の多い男だな」
ハーマンはキッと強い視線を向けて、テルを指差した。テルは少し顔を引きらせmびっくりした様子だった。
「だが勘違いするなよ、将来の評議会でイニシアチブを取るのは、工業を完全に押さえている俺の家系なんだからな。ちょっとそこにアイディアを追加できる程度で、あまり調子に乗るなよ、テル・アルエイシス」
テルは苦笑した。今まで彼は、兄貴分として自分を保護したがるハーマンに気後れを感じていた。しかし兄貴ヅラも、あらゆるマウントも、ハーマン・ローデシアにとっては、強大な父を持つテルに対する精一杯の強がりだったのかもしれない。この街では、各家系の貴族は、助け合うべき仲間であり、マウント合戦を取るべき競争相手でもある。ハーマンからすれば、この前闘技場にテルを連れて行ったのも、競争相手として張り合いがないことへの叱咤激励だったのだろう。そんなことを、今しがたスッと理解できて、嬉しかった。
(ハーマンは骨の髄までこのパラクロノスの貴族なんだな)
テルは優しい目でハーマンに笑いかける。
「うん。ハーマン。大変だったね。でも無事でよかった。僕を弟みたいに思ってくれてる君を失いたくはないから……」
「あっはっはっは!」
ハーマンは心底嬉しそうに笑ってみせた。支配人とレカは顔を見合わせる。
「テル、お前のそういうところが可愛くてたまらんよ……」
ハーマンはテルの華奢な肩を引き寄せて言った。その表情は今までのものとは違い、本当にシリアスだった。
「……これからお前が何をしようとするか知らんが、気をつけろ。この街の陰謀は底なしに深い。俺たちの世代もまた、前の世代が経験したのと同じくらいの試練を経験することになるだろう。テル、拝魔王教に気をつけろ」
「えっ?」
テルの目が大きく開いた。急にそんな脈絡のないことを言われて、驚くしかない。恐怖すら覚える。そして思うのだ。この街の闇について。彼はレカの方に視線を移した。彼女の赤い瞳はいつものように、テルを見守っている。二人の視線が絡み合う瞬間、言葉なくして何かが通じ合った気がした。
支配人は気まずい空気を打ち破ろうと咳払いをした。
「あの……お客様の衣服は洗濯して乾かしておりますので、もう少々お待ちください」
ハーマンは優雅な仕草で頷き、再び毛布に身を包んだ。テルは立ち上がってレカに近づくと、小声で尋ねた。
「シャルトリューズさん、どうするの?」
レカはちらりと触手族の女を見た。もう飽きたのか、髪の毛を弄んでいる。
「まあ、今日のところはあーしが連れて行くさ。ボスにも報告しなきゃならんしな」
「そう……」
テルの視線には、もっと言いたいことがあるような色が宿っていた。レカはテルの肩に手を置き、小さく頷いた。
「ありがとう」
テルの顔が固まり、赤くなった。その「ありがとう」は幼馴染みの気の知れた仲でのちょっとした挨拶ではなく、仕事仲間として本気の感謝を示す色彩があった。テルは初めてレカに対して感じる照れくささに、うつむいた。
シャルトリューズは二人のやり取りを興味深そうに見ていたが、レカに促されて部屋を出た。廊下に出ると、彼女は意地悪そうに笑った。
「あの子、レカちゃんのこと好きなんだ〜。見てて痛いくらいわかるよー」
髪がするりと何本かまとまって、触手で口を隠してクックックと笑って見せる。レカは無視して黙ったまま先を歩き続けた。シャルトリューズはとたたっと廊下を小走りに進み、彼女の表情を窺おうと身を屈める。異様に背の高い彼女が触手を広げて覗き込むと、誰もがびっくりした顔をするが、レカは平気だ。
「レカちゃんはどう思ってるのさ?」
「もう少し反省の態度を見せろよ……」
レカは呆れてぼそっとそう言った。




