第三十二話 冒険者の夢(後)
夜という闇に、冷たい雨の闇が重なり、貧民街はかつてないほどの暗さに沈んでいた。魔光灯の青白い光もまるで水に溶けるように薄れ、その光は雨に打たれた石畳に歪んだ影を落としている。レカはフードを深く被り、水を跳ねさせながら路地を進んでいった。革のブーツが水溜まりを踏むたび、黒いインクが広がるように波紋が走る。
レカは濡れた革のグローブを顔に当て、頬に伝う雨水を拭う。赤い瞳だけが闇の中で微かに光を帯び、街の影を見通していた。夜の闇と雨の幕に閉ざされた貧民街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。路地の角を曲がると、わずかに残った軒先の下に身を寄せ合う子供たちの影が浮かんでいた。三人のエルフの子と、一人の猫族の子。彼らの姿はほとんど闇に溶け込んでいたが、レカの鋭い目には逃れられなかった。寒さに震える小さな体が、互いの体温を分け合うように密着している。
「見ねえ顔も多いな……」
思わず呟いた声は、夜の雨音に飲み込まれた。月もない夜空の下、知らない子供たちの数が増えていることをレカは感じていた。リリアの救貧院の灯りすら、この深い夜には届かず、収容しきれない子供たちが影のように街に溢れ出ていた。
エルフの子のひとりが咳き込む音だけが、雨音の間を縫って届いた。右耳の先は欠け、その輪郭がわずかな光に浮かび上がる。猫族の子の毛皮は闇に同化し、栄養失調で薄くなった部分だけがより深い影として浮かんでいた。
雨がさらに強まる夜の底で、レカのポニーテールから水が伝い、顔を濡らした。彼女は雨に濡れた革のグローブで顔を拭うと、すでに闇と一体となった影のように消えていった。明日の夜には、さらに多くの見知らぬ影が増えているだろう。この街はそういうものだ。そして彼女は、それをできるだけ頭に留めておく。それこそがこの貧民街の表の顔として、やらなければならない仕事だった。
レカは身を縮め、壁の張り出した部分に溶け込むように立った。目的の場所だった。ここは廃墟ばかりで、目撃者も最小限にとどめられる。誰が灯してそのままになっているかわからない魔光灯の青白い光があたりを照らしている。それが目印だった。
レカは垂れ下がった黒いフード付きコートの下で、雨を弾く革のグローブに包まれた指先を軽く動かした。動きの鈍くなった指先を確かめているのだ。やがて雨音に埋もれた足音が、石畳の上を水しぶきを上げながら近づいてくる。レカはさらに深く影に身を寄せた。やがて、ずぶ濡れになった中年の男が現れた。40代半ばといったところ。胸に鉄錠級のバッジをつけた男。彼は警戒心をあらわにして辺りを見回し、壁の陰に立つレカの気配を察すると体を強張らせた。普通なら雨を避けるためにさっさとレカのいるひさしの下に入りたいはずのところ、雨の下で警戒心も露わに立ち止まった。暗殺対象が用心深いことは間違いなかった。
「羽ばたく鳥も」
男が言葉を途切れさせる。合言葉だった。
「影は地に繋がれる」
レカが影から一歩踏み出して応じた。彼女の目が魔光灯の僅かな明かりを反射して獣のように光る。マゾンの体からわずかに緊張が解けた。油断ではなく、レカが味方だと確認できた安堵だった。
「マゾンか?」
レカはフードを取ると、声を殺して確認した。マゾンは固い表情のままひさしの下に入った。
「ああ。タティオンからの使いか。顔は初めて見るな」
マゾンはレカを値踏みするように観察した。若く小柄な女だが、その立ち姿には微塵の隙もない。闇に紛れた動きには、暗殺ギルドの精鋭としての技量が溢れていた。レカもまた見るともなくマゾンの全身を確認し、指示書に定められた通りのセリフを口にする。
「冒険者ギルドの情報を。いつも通りに」
レカの声は感情を一切含まない、澄み切った冷たさを帯びていた。マゾンは頷き、濡れた前髪から雨粒を払いながら言った。
「リミナルダンジョンからのアーティファクト採掘はほぼ停止状態だ」
「停止……」
レカは無表情で繰り返した。マゾンは頷き、吐息を白く残しながら言葉を継いだ。雨音の中でも聞き取れる、熱を帯びた声だった。
「ああ、全くひどいもんさ。ダンジョンからの収穫の枯渇が現実のものになり始めてる。冒険者ギルドの存在意義自体が揺らいでいるんだ。評議会では、今後十年で冒険者ギルドを解体して治安維持部門としてどこかのギルドに編入するための争奪戦になることが予測されているとか……」
レカは水滴の伝う顔を僅かも動かさず、静かに聞き続けた。情報としての価値を計りながら。マゾンはさらに続ける。
「暗殺ギルドにとっては千載一遇のチャンスだよな? 傭兵ギルドは反乱後に獣人部隊を失って弱体化し、魔法科学ギルドの貴族どもは、街の実働部隊である俺たち鉄錠旧冒険者を傘下に組み込むことを嫌がるだろう。タティオン様なら今こそ、この状況を利用して実権を握れるだろう」
「それはただの情報屋のお前が考えることじゃない」
マゾンの熱に浮かされたような語り口が途端に閉ざされた。レカは静かに一歩踏み出した。彼女の革のブーツが水溜りを踏むが、波紋は最小限で音も立たない。マゾンは目の前の美しい娘が、戦闘能力という点において自分を遥かに上回っていることを悟った。
「マゾン」
その一言に刃物のような冷気が込められていた。
「聞いたところによると、お前は傭兵ギルドにも同様の情報を流していたらしいな」
マゾンの顔から血の気が一気に引いた。その表情の変化を見逃さなかったレカは、さらに言葉を重ねる。
「……あの反乱があった時点で、街を離れるべきだったな」
「何を……言っている?」
マゾンの喉が鳴った。顔は蒼白になり、彼の手が小刻みに震え始めた。
「俺は……俺はタティオン様の命令で……冒険者ギルドの内部情報を……」
「それはわかっている」
レカは雨の中、もう一歩近づいた。対するマゾンは一歩下がる。もう二人はひさしから出ていて、雨粒が二人のの輪郭を冷ややかに浮かび上がらせる。
「なあ、マゾン。お前、頭が回りすぎたよなあ? ボスは、お前が三つのギルドすべてに情報を売り渡していると掴んでいる。魔法科学ギルドの貴族たち、冒険者ギルド、傭兵ギルド……そして我々。どれが本当の雇い主かもわからないほどにな。それでも使えるのなら、というのがボスのお考えだったが、今回の傭兵ギルドの混乱の遠因はお前だと判断された。……秩序を乱すことを、ボスは最も憎む」
マゾンの顔が恐怖と憤怒で歪んだ。彼は小さく後ずさった。水溜りを踏み、水しぶきが上がる。
「違う! 誤解だ! 俺は……均衡を保つために……」
レカの赤い瞳が燃え上がるように光を放った。
「それが頭回りすぎだって言ってんだよ勝手なことしやがって!」
レカの腕が雨を引き裂くように伸びた。マゾンの瞳がその閃光を捉える前に、彼女の太い釘のような指が、彼の心臓へと滑り込んでいた。それは彼の胸の内部に確かな死の痕跡を刻む。
「っ……!」
マゾンの口から漏れた悲鳴は、降り注ぐ雨音に掻き消された。誰の耳にも届かない最期の声。彼の脚から力が抜け、膝から崩れ落ちる。
レカは男の体を抱え、壁に寄りかからせるように支えながら、冷静に言い放った。
「ギルド間の均衡を保つなら、なぜこんな時期に情報を流した? 獣人反乱の前から、お前は情報を操作していた。三つのギルドを争わせ、街の秩序を混乱させるために」
マゾンの顔に苦い笑みが浮かんだ。彼の声は既に遠い世界からの響きを含んでいた。
「魔王存在、だ」
彼の目が恐怖に見開かれ、荒い息の下で言葉を継ぐ。
「魔王存在、そんなものに願いをかけるほどに、この街は……お、お前、タティオンのジジイが思っているより、マヌケな評議会が、考えているより、この街は……」
レカの瞳が不安そうに揺れた。マゾンの心臓はどんどん痙攣を強め、自然死と区別がつかない死へと落ちていく。彼の口が弱弱しく動く。
「家族、家族は……家族は関係ない……」
レカはハッとしてつい口走る。
「わかった、わかった。遺族は厚遇されるように、あーしからボスにいうから……」
マゾンの言葉が途切れた。彼の体から最後の生命の炎が消え、瞳が雨に向けられたまま光を失う。レカは男の体を壁際にもたれかけるように置いた。傷口はない。彼の体から垂れた雨粒が、透明な血のように筋を作り、石畳の上を流れていく。
彼女は短い瞬間、動きを止めた。
(魔王存在……)
一瞬、心に芽生えた疑問の種。だがそれすらも、暗殺者としての任務感覚がすぐさま押し流した。任務は完了した。それだけが重要なのだ。何も起きなかったかのように路地の奥へと姿を消した。雨が止む。しかしマゾンの冷たくなった体は、翌朝になっても濡れたままだろう。
夜はふけ、雨は完全に上がった。汚れた空気に嫌な湿度を加え、水分は朝の霧になるのを待ち構えている。レカはさっきのマゾンの言葉を反芻しつつ、帰路についている。夜風が彼女の頬を撫でた。冷たく、心地よい風。それは彼女の内側の混乱とは対照的だった。
(家族……)
レカは足を早めた。考えてはいけない。感じてはいけない。ただ命令に従い、使命を果たす。それが彼女の存在理由だった。
『龍の爪』亭では、ガズボが不機嫌そうに酒を飲んでいた。シャルトリューズもいつの間に来たのかそこにいて、触手をくねらせながら薄笑いを浮かべている。この大柄な二人だけで、この酒場の一角を完全に埋めてしまっている。
「終わったの? 予定より早かったわねぇ」
シャルトリューズの声は、いつものように甘ったるかった。レカは肩をすくめただけだった。ガズボはコートを脱ぐレカをチラッと見て、
「相変わらずシケたツラしやがって」
と、揶揄するように言う。レカが椅子にどっかりと座る。
「気のせいだろ。何も感じることなんかねえよ。あーしの仕事は」
レカは淡々と言った。ガズボの小さな目が、不気味な光を宿す。
「ククク、さすがだぜ。誇り高き暗殺者様よ」
その皮肉に、レカは答えなかった。シャルトリューズがクスクス笑う。
「まあまあ、レカちゃんは真面目だからね。責任感があるのよ」
責任感。その言葉が胸に刺さった。マゾン。彼もそういうものに突き動かされていたのだろうか。レカはドリンクを一杯注文した。仕事の前にも後にも、同じモノを頼むのが癖だった。レカはまだ雨に濡れていた顔を拭い、シャルトリューズから受け取った手拭いで髪を拭いた。
「完了すれば、それでいいんだよ」
ガズボが獣のような笑い声を上げた。
「よう言うぜ、姐御。そのためにこそ、俺たちゃいるってことだ。街の汚れ仕事の専門家」
レカは無言で、鼻がつんとするほど辛い液体の入った杯を一気に喉に流し込んだ。街から遠く離れた亜人種の森で採れる香草入りの蒸留酒は、彼女の普段の好みではなかったが、任務の後に必ず口にするルーティンになっていた。喉を焼くような味わいが、心の奥に芽生えた疑問も罪悪感も一時的に消し去ってくれる。
「ふぅ……」
彼女は息を吐き、湿った髪を手ぐしで直した。漆黒の革のスーツは雨に濡れてところどころ張り付き、肌に不快な感触をもたらしていた。シャルトリューズが立ち上がった。
「じゃ、疲れたところを少しほぐしてあげるわ」
その顔には普段のふざけた様子ではなく、珍しく真剣な表情が浮かんでいた。触手族特有の柔らかな動きで、レカの背後に回る。
「えぇ……? いいよ……そんなことしなくても……」
レカは拒絶するように肩をすくめたが、シャルトリューズの触手がすでに彼女の肩に巻きついていた。
「いいから、素直にしてなさい。警戒心の強い子ね」
シャルトリューズの触手が、レカの湿った髪を優しく持ち上げ、革のスーツのベルトを外す。首筋から肩にかけて、柔らかな圧を加えていく。それはマッサージというよりも、触診のようにレカの筋肉の緊張を探っていた。
「んっ……」
レカはわずかに抵抗するように身をよじったが、シャルトリューズの触手は彼女の体を逃さなかった。触手の先から微かな香りがする。それは甘く、意識をぼんやりとさせるような匂いだった。
「お、おい……っ! 変なもん塗り込むなよ」
「うふふ、暴れないの。こうしてあげれば、疲れも吹き飛ぶわ」
シャルトリューズの触手がレカの襟元に潜り込み、冷たく湿った革スーツと肌の間を滑らかに這っていく。その触感に、レカは身震いした。
「やめろって……」
だが、その言葉には力がなかった。シャルトリューズの触手から分泌される液体が、疲労困憊のレカの抵抗力を溶かし始めていた。触手が彼女の全身を優しく絡め取り、まるで大きな手のひらで包み込むように抱き締める。
「レカちゃんはいつも無理するのよね。そのうち壊れちゃうわ」
シャルトリューズの声が、まるで子守唄のように柔らかく響く。触手からジワジワと染み出す催眠液が、レカの緊張した筋肉を解きほぐしていく。部屋の隅に座っていたガズボが、酒瓶を手に持ちながら、ゲラゲラと笑った。やがてシャルトリューズの触手はレカの上半身を完全に包み込み、まるで蚕の繭のようにしっかりと抱き留めていた。シャルトリューズの顔には妖しい笑みが浮かび、触手が波のように揺れる。
「ところで、レカちゃん、心配しなくていいのよ」
シャルトリューズは急に話題を変え、甘い声で囁いた。
「標的の妻子はウチらが始末しておくわ。タティオン様が別個に指令を出したのよ……」
その言葉にレカの体が硬直した。彼女の赤い瞳が驚愕に見開かれる。
「なっ……何を……っ!?」
ガズボが大笑いしながら割って入った。
「ぎゃははははは!それ言っちまうのかよぉ! ったくお前は俺より残酷だなあ!」
彼は腹を抱えて笑い転げるように、椅子の背もたれに背を預けた。ミシミシと椅子が悲鳴を上げる。抵抗する気力を萎えさせるように。シャルトリューズの触手がレカの顔を優しく撫でる。まるで母親がぐずる子供を抱きとめてあやすように。
「眠りなさい、レカちゃん。可哀想な子」
レカの思考は沸騰しそうなほどに走り回った。マゾンが最後に言った言葉、魔王存在のことが頭の中で渦を巻く。彼女は抗おうとしたが、シャルトリューズの催眠液はすでに効果を発揮していた。目が重く、思考が緩やかに解けていく感覚。レカの意識は次第に朦朧としていった。触手の中で眠りに落ちる直前、彼女はテルの顔を思い浮かべた。それは助けを求めたのだろうか? それとも、再び人生をやっていく時の、新たな指針? いつもなら、父であるタティオンの顔が思い浮かんでいたのではないだろうか。
(クソ、もうわけわかんねえ……)
だが今は、ただ深い闇の中へと沈んでいくしかなかった。
「良い子ね」
窓の外では、遠くの空が白み始めていた。新しい夜明けが近づいている気配が、湿った空気の中にかすかに混じっていた。




