第三十一話 冒険者の夢(前)
「だー、おい、また空っぽだぞ」
ガラスの杯を傾け、入っていた赤褐色の液体を一気に流し込んだマゾンは、空になった杯をカウンターに叩きつけるように置いた。マホガニー色の木製カウンターに響く音に、何人かの客が振り返る。しかし彼らはすぐに、自分たちの会話に戻っていった。
「空っぽってのは、杯のことか? それとも話の中身か?」
カウンターの向こう側からそう問いかけたのは、冒険者ギルドの元銀盾級冒険者だったカーティスだ。右目の上から頬にかけて走る傷跡が、彼の過去の冒険を物語っている。今は「翡翠の庭」の主人として、多くの冒険者たちの憩いの場を提供していた。
「どっちもさ」
マゾンは笑った。
「おい、もう一杯」
カーティスは無言で赤褐色の液体を注ぎ足す。それは「人魚の涙」と呼ばれる、ダンジョン深部で採取された水から作られた酒だった。かつては珍しい高級品だったが、最近ではその供給も細り、味も薄くなったと言われている。マゾンはそれを二口飲み、ため息と共に言った。
「聞いたか? 白金剣級のエリオンとサラがこの前、特別探索に出立したらしい。まだ帰ってないとよ」
無関心を装いながらも、マゾンの言葉は聞こえよがしだった。彼はかつてはリミナルダンジョンに潜る第一線の冒険者だったが、いつしかその座を追われた身。今ではその資格を奪還すべく、街の治安維持を担う鉄錠級冒険者として活動すること七年の古参。カーティスも似たような経歴だ。彼もまたため息をつく。
「そりゃあ知ってる。大勢で見送ったよ。でも、あんな妙な出立は初めて見た」
カウンター越しの会話は、徐々に周囲のテーブルにも広がっていく。「翡翠の庭」は午後の柔らかな光に包まれ、壁を覆う常緑植物が淡い緑色の光を放っていた。空気中に漂うのは、植物の香りと冒険の名残、そして束の間の安らぎ。この冒険者ギルドの建物には、かつて見ていた夢を、単なる思い出にする何かがあった。
「妙ですって?」
隣のテーブルから声が上がった。振り返ると、魔法科学ギルドの記章をつけた若い学者が好奇心に満ちた表情でこちらを見ていた。魔力すら視覚化するメガネを興味深そうに掛け直した
「そうさ」
マゾンは「人魚の涙」を口に含み、答える。
「ずいぶん大勢集まってたよ。貴族の、そのまたお偉いさん、評議会の連中もいたんじゃないかな。妙な話さ。白金剣級にそんな見送りがいるなんて。本来その情報を知る人間はギルド外にはいないはずだ。新人の出立式のお祭りじゃあるまいし……。何かのショーみたいでね」
マゾンは苦い顔をして杯を傾けた。
「最近はめぼしいアーティファクトも出てこないしな。『黄金の時代は終わった』なんて噂も耳にする機会が増えた。冒険者ギルドの存在意義を示すには、こういう見せ場が必要なんだろう」
部屋の奥では、数人の市民が冒険者たちの話に聞き入っていた。彼らは冒険談を聞くために、この場所を訪れる常連だ。しかし最近は新しい発見の話も少なく、同じ話の繰り返しになりがちだった。
部屋の中央付近では、大きなテーブルを囲んで数人の冒険者たちが、何やら熱心に議論していた。テーブルの上には、リミナルダンジョンの地図らしきものが広げられている。だが入るたびに姿を変える不安定なダンジョンのこと、それは地図というよりも、概念図か回路図、あるいはマインドマップのようだった。
「こっちのルートは完全に枯渇している。先月、ヴァンスの隊が探索したが、何も見つからなかったって」
「でもこの方面ならまだ可能性があるんじゃないか? 三年前に発見された『鏡の回廊』の先は、まだ十分に調査されていない」
「そこは不安定すぎる。前回の探索では二人が帰ってこなかっただろう」
「でも、他に選択肢があるのか?」
彼らの会話は、熱を帯びながらも、どこか虚しさを含んでいた。かつてリミナルダンジョンは、無限の可能性と富をもたらす場所だった。しかし今、その夢は徐々に色褪せつつある。
「おい、カーティス」
マゾンは空になった杯を指さした。
「最近のアーティファクトの相場はどうなんだ?」
「上がってる」
カーティスは「人魚の涙」を注ぎつつ、淡々と答えた。
「特に実用性の高いものはな。『燃焼石』なんて、一年前の三倍の値がついてる」
「そりゃそうですよ」
若い学者が話に入ってきた。
「新しく掘り出されるものが減っていますからな。価値のあるアーティファクトは、もう輸出品の目録にも載りません。『燃焼石』の高騰なんて可愛いものですよ。まだ港から出る船に乗せる分は採掘される」
マゾンはやりきれない様子で、
「俺はもう一生地上勤務を覚悟した方がいいのかもしれないな」
と言った。少しの間沈黙があった。
「遅かれ早かれ……」
カーティスが眉を寄せた。
「いつか決断しなきゃなんねえ。冒険者ギルドも余裕がない。半端な人間を送り込んで採掘できるものなんか、もうない。そう考えるべきだろう」
「っへ、まだ早いって」
マゾンは苦笑いを浮かべた。しかし、その目は笑っていない。
「なあ、カーティス。でも、考えることはある。この先、リミナルダンジョンから何も出てこなくなったら、冒険者ギルドは何になるんだ? いよいよ街の警備員か?」
その言葉に、周囲が少し静かになった。
「少なくとも、今日のところは心配しなくていい」
カーティスは新しい客に挨拶しながら言った。
「エリオンが何か大発見をしてくれるかもしれないじゃないか」
「そうだな」
マゾンはため息をついた。
「そうあってほしいよ」
カーティスが新しい客のオーダーを取りに行く間、マゾンは最後の一滴まで人魚の涙を飲み干した。カウンターに貼られた新しい告知を眺めると、そこには冒険者ギルドの新入団員募集の案内があった。マゾンはぼうっとそれを眺めた。かつては若者たちの憧れだったこの職業も、今では志願者が減っているという。ひと財産を築蹴るほどの夢のある仕事、冒険者。しかし今やそのために要求される魔術に才能や技能は高止まりし、リミナルダンジョンの魅力すらも薄れつつある。今や、冒険者たち全員の未来も不透明だった。
「カーティス、会計だ」
マゾンはコインを数枚カウンターに置いた。銀貨の上には、大時計塔の紋章が刻まれている。この街の象徴であり、リミナルダンジョンの入り口でもあるあの塔だ。
「もう帰るのか?」
カーティスが戻ってきて尋ねた。マゾンはコートと帽子を手にしつつ、
「ああ、明日は早い。橋の付近の警備を任されている。獣人傭兵どもがあんなことをして以来、鉄錠級の上層部はイケイケさ。傭兵ギルドを叩くタイミングだからな」
若い学者がメガネを外して拭き、会釈をする。
「マゾンさんでしたか。また、話を聞かせてくださいよ。魔法科学ギルドで貴族にこき使われているだけでは、なかなか聞けない話が聞けますから……」
マゾンは会釈を返し、階段を上がった。彼がドアに向かう途中、入り口から新しい客が入ってきた。若い冒険者の卵たちだ。彼らの目はまだ輝いていて、夢と希望に満ちていた。
(夢見るのは自由だからな)
そう心の中で皮肉った彼が店を出ると、結構激しい降りだった。近くに見えるはずの大時計塔の姿も、今は雨にけぶってはっきり見えない。しかしむしろその巨大な影はぼうっと広がって、街全体を覆っているかのようだった。
灰色の空から降り注ぐ冷たい雨音が、朽ちかけた板壁を叩く音と混ざり合う。その建物は貧民街の奥、雑多な廃墟と、都市の区画とは無関係に勝手に増築された木造家屋が入り混じる一角にあった。外観は貧民街によくあるあばら屋だが、その実、内部は鉄骨で補強されていた。「龍の爪」と呼ばれるこの酒場は、パラクロノス貧民街の細い路地の奥、大時計塔の影がちょうど夕刻に差し込む場所に建っていた。街の地図には載っておらず、たどり着くには地元の者の案内か、よほどの土地勘が必要だった。
扉を開くと、煙草と酒と汗の匂いが一気に押し寄せる。天井から垂れ下がった魔光灯は意図的に暗く調整され、客の顔を曖昧にぼかしていた。カウンターでは禿げ上がった老人が黙々と酒を注ぎ、その手の甲には暗殺ギルドの刻印が薄く浮かんでいる。引退した殺し屋が多くの秘密と共に第二の人生を生きている姿だった。
「龍の爪」を知る者は、この店が単なる酒場ではなく、情報と依頼が交換される場所であることを理解している。壁には耳があり、天井には目がある。そしてカウンターの下には、いつでも使えるよう準備された短剣が何本も隠されている。
角のテーブルでは、革のボディスーツを着込んだ金髪の若い女性が気付けの辛いドリンクを飲んでいた。レカだった。赤い瞳はリラックスした雰囲気を讃え、綺麗とは到底言えないベタついたテーブルの右兵衛と投げかけられている。向かいに座って木の椅子を壊れそうなくらい軋ませている大男は、獣人ガズボ。混血獣人としての彼の巨体が、「龍の爪」の酒場の一角を占拠するように鎮座している。多数の種族が混じったその毛皮の少ない半裸の体は、威圧感のある面々のそろうこの酒場でも、l一際目立っていた。彼の前には、鮮血の滴る生肉の山が積まれた木の皿が置かれている。鮮やかな赤色と脂の白さが不気味に対比し、テーブルの上には既に小さな血だまりができ始めていた。
「がはっ、うめぇなぁ」
彼の巨大な顎が開く度に、のこぎりのような牙が姿を現す。まるで肉食恐竜のような歯並びは、パラクロノスの街でも彼特有のものだった。太い指で肉片を掴むと、ためらいもなく口に放り込む。噛み砕くというよりは、引き裂くように食らい、赤い汁が彼の毛むくじゃらの顎髭を伝い落ちた。
「ガズボ、これ以上汚すなよ」
レカはそんな効き目のないセリフを投げかけつつ、暗い店内の動きを察知する。待ち人が来たことを悟った。自然な足取りで、ある男がレカのテーブルに近づき、小さな封筒を滑らせる。レカはそれを一瞥すると、何事もなかったように飲み物を飲み干した。交わされる言葉はなく、交わされる視線もまたない。それがこの店のルールだった。
「龍の爪」は、パラクロノスの表と裏を繋ぐ結節点として機能していた。そして暗殺ギルドの意思は、この場所から静かに、しかし確実に街全体へと広がっていくのだ。
レカはさっきの男が店から出たのを確認すると、封筒を開く。灰色の特殊な紙片を広げる。
「我らの情報を敵に流したギルドの裏切り者、マゾンを始末せよ」
その文言が書かれた紙と、いくつかのぎっしりと情報が書き込まれた書類。それが中身だった。グローブに包まれた指で指令書をめくりながら、レカは窓の外の見た。酒場の汚れた窓ガラスの外は、闇夜に滴る雨で曇り、一切見通せない。ガラスに映るのは彼女の瞳ばかりだ。それは血のように赤く、彼女の運命そのものを示しているようだった。読み終えた書類をテーブルの上に放ると、それは魔法の力でちりちりと焦げ、虚空へと掻き消えた。
「やべえ一件か?」
目の前で生肉を頬張るガズボが、汚らしい咀嚼音を立てながら言った。その獣じみた顔に、いつもの邪悪な笑みが浮かんでいる。
「あーし一人でできる仕事だ。首を突っ込むなよ」
レカは適当に返したが、ガズボはレカを見て、にいっと口を歪ませた。血に染まった牙が暗い魔光灯に浮かんだ。
「ククク、そういう仕事が一番姐御を苦しめるんだよなあ」
レカはため息をついて立ち上がった。
「オメーに手伝ってもらったって楽になりゃしねえよ。気苦労が増えるだけだ」
レカはいつものように店主にコインを投げ、店を後にした。




