第三十話 リミナルダンジョンの冒険者
底の抜けたポリバケツ、朽ちた手紙、 羽のもげた鳥の巣、錆びついた記憶装置、 アナトリア半島の世界樹のかけら、黄ばんだ子供の靴、 イブリース級恒星間宇宙船のワープドライブ手順書、壊れた時計。 ――全て、リミナルダンジョンで見つかったものだ。空間がねじれ、時間が歪み、法則が破綻する。 異世界の全ての欠片が、ここに流れ着く。 言語を失った書物、鈍く光る金属の破片、 語り継がれなかった祈りの言葉、見捨てられた神々の遺骸。不明な材質で出来た壁は触れると指先が痺れ、ホコリの積もった床は足跡を残さない。 天井から逆さに生えた椅子は重力を無視して揺れ続け、明かりのない部屋でも影は濃く落ちる。 部屋から部屋へ、永遠に続く廊下は迷宮を形作り、地図を描こうとすれば線はうねり、紙は黒く染まる。世界のバグが貯まる場所、解き放たれた狂気の檻、現実の継ぎ目——それがリミナルダンジョン。青白い光を放つ階段の上から、六面のサイコロが一つ、ゆっくりと転がり落ちる。 カラカラと不規則な音を立て、途中の七段目で不自然に止まると、紅茶に溶ける角砂糖のように、 あるいは日光に晒された霧のように、透明になって消えた。
「危険か?」
緑の髪を持つ青年、エリオンが囁くように問いかける。その声は低く、廊下の闇に吸い込まれた。 見た目は二十歳ほどのスラリとした若い男性だが、その赤い瞳には、何十年もの年月で磨かれたようなベテランの趣があった。白銀の装飾が施された長剣を背負い、胸元には虹色に輝く大時計塔のエンブレムを誇らしげに掲げている。 それは白金剣級冒険者——この街で最も高位の冒険者の証だった。
「かなりの高リスク。反応は不安定で予測不能。ここで引き返すか?」
返答したのは、手首から肩、そして首筋にかけて赤銅色の歯車が体に埋め込まれたガッチリした体格の女性、サラだ。 鋭い耳がわずかに動き、周囲の気配を探る。黄金の瞳は階段の先を見据え、その声は淡々としていた。 背中には複雑な機構の弓が背負われ、腰には無数の小瓶が詰められたポーチが揺れる。エリオンは首を横に振った。僅かな動きだったが、意志は固かった。
「いや、この階段しか下層に通じていない。今回のダイブではまだ成果を入手していない。いくら掘り出せるアーティファクトが枯渇していても、可能性がある限り、進むしかない」
サラの表情が微妙に変化し、歯車の埋め込まれた右手を階段に向ける。指先から紫がかった魔力が漏れ、無数の小さなサイコロが生まれては階段に落ちていく。それらは階段の各段で止まり、様々な目を表示した後、消えていった。
「見えたか?」
「絶望、虚無、飢餓、悲嘆、憎悪、嫉妬——」
サラは冷たく分析的に言葉を紡ぐ。
「下層からの魔力の波動は不吉な感情で満ちている。生還率は三十パーセント未満」
エリオンは小さく笑った。その表情には諦めと共に、何かを探し求める執着が混じっていた。
「そうか。それでも降りよう。私たちにはまだ果たすべき使命がある」
エリオンが階段に両手を伸ばし、空間が歪むのが見えた。魔力が指先から溢れ、透明な結晶のようになって固まる。
「アーティファクト、『重力法則』起動」
空気が震え、光の粒子が指から階段へと流れていく。それは蜘蛛の糸のように細く、しかし強固な網目を形成した。
「収縮内破」
重低音が響き渡り、階段全体が一瞬青白く輝いた。危険な気配が押し潰され、闇の底へと消えていく。周囲の空気が清められたように軽くなり、魔力の霧が晴れた。
「はあ、これで危険な方へ行くしかなくなったね」
サラは皮肉めいた言葉を吐いたが、その表情は無感情のままだった。歯車が軋むように動き、彼女の体内に何かが同調する音が聞こえる。エリオンはそれを一顧だにせず、静かに階段を下り始めた。長剣の柄に手を添え、常に戦闘態勢を崩さない。
「油断するな、サラ。ここはリミナルダンジョンの深層だ。魔力の波動が不安定で、空間の歪みも激しい。いつ何が起きてもおかしくない」
「……」
サラは瞳孔が縦に細くなり、闇夜よりも暗い通路を睨む。長いエルフ族の血由来の耳がぴくぴく震え、鋭く辺りを警戒する。
「……敵性体はいない。しかしエリオン、これほど危険を冒してまで得るものがあるのか? リミナルダンジョンはもう枯渇しているというのに」
エリオンは答えなかった。階段を七段、十段、二十段と降りていくうち、空間の感覚が狂い始める。壁が遠ざかり、天井が消え、足元の階段だけが確かな実体として残された。周囲は濃密な闇が支配し、時折魔力の閃光が遠くで瞬く。まるで宇宙空間に浮かぶ孤独な階段のようだった。エリオンはふと立ち止まり、背後の虚空を見上げた。 何も見えない闇。言葉を飲み込む沈黙。しかし、彼は静かに問いかけた。
「なあ、ヨトゴォル。いるんだろう? そこに」
空気が震え、時間が一瞬止まったように感じられた。闇の中から何かが彼らを注視している気配。返事はなかった。ただ闇が、わずかに深くなり、重くなったように感じられただけだった。
「無駄だろ」
サラが冷ややかに言った。
「魔王存在はこちらの言葉を理解できても、応答する必要を感じていないから」
やがて、階段を降り切った。そこはなんの変哲もないオフィスの一室。デスクの上にはパソコンのモニターとキーボード。無論、エリオンとサラにその物品の用途がわかるわけもない。異質なオブジェクトが新規の階に「生成」されることはよくあることだ。彼ら冒険者はそのことには慣れっこだったから、特に気にすることもなかった。
エリオンは剣を背中から下ろすと、部屋の石膏ボードの壁に力なく背を預け、今しがた降ってきた階段の上の方を見つめた。もう前の階は消滅しているのだろう。上階へは繋がらない、空虚に広がる無限の暗がりには、あまりにもお馴染みの絶望感が漂っていた。サラが休もう、と言った。二人は壁に背を預けて座る。座っても、サラの方がまだ背が高い。彼女はエリオンを抱きしめた。装備した硬い肩当て同士がぶつかる音がした。サラの赤いウェーブした髪がエリオンの顔にかかり、彼が息をするたび、初夏のレースカーテンのようにふわふわ膨らむ。
「ねえ、エリオン?」
優しい声だった。
「今回のダイブで何も見つからなかったら、今度こそ評議会にその旨報告するからね」
サラの声は柔らかかったが、ほんの少しだけ刺々しさを含んでいた。エルフの血を持つもの特有の耳が心配そうに前に傾き、首に埋め込まれた歯車が微かに音を立てる。彼女の黄金の瞳がエリオンの投げ出された足先をぼうっと見つめていた。
エリオンは苦々しい笑みを浮かべ、白銀の顔を力無く傾ける。
「いや、それはダメだ。今そんなことをしたら、冒険者ギルドは今度こそ他のギルドに吸収されるだろう。治安維持は……最近貧民街で力を増しつつある暗殺ギルドの専売特許になるかもしれん。タティオンは野心家だ。今は善人ぶっているが、街にとってあまりよくないことになるだろうな……」
彼は力無く虚空に向かって手を伸ばす。その仕草には、何かを必死に掴もうとする哀れさがあった。
「リミナルダンジョンからアーティファクトを掘り出せる、ただそれだけで我がギルドは優位性を保っているんだ」
サラは深いため息をつき、エリオンのだらりと力の抜けた体を、愛おしそうにぎゅっと抱きしめる。歯車が埋め込まれた腕が、感情を表すように小刻みに震えている。
「ルゥリィを殺され、獣人たちに軽んじられ、反乱を諦めてすることが、元のように従順に振る舞うことだと?」
その言葉はダンジョンの闇の中で、刃のような鋭さを帯びていた。サラの瞳孔が細くなり、そこには同情と苛立ちが混在していた。エリオンは大きく息を吸った後、フーッと吐き出して肩を落とし、顔を手で覆う。緑の髪が、そして疲れが。無造作に指の間からはみ出していた。しばらくの沈黙の後、顔を覆ったまま、彼はかすれた声で言った。
「サラ。よしてくれ。俺にはこれしかないんだ」
その声は、白金剣級冒険者の誇りも自信も失われていた。魔力の光が彼の周りで弱々しく明滅する。サラは静かに最愛の人を抱きしめた。彼女の顔には珍しく、柔らかな表情が浮かんでいた。
「この街を守るという責任。それは、エリオン」
彼女は一つ一つの言葉に重みを持たせるように、ゆっくりと話し始めた。
「あなたに何もプラスのものをもたらさなかった。そろそろ自由になるべきだ」
蛍光灯の白い灯の下で、会話は続いた。どうしようもないことをどうしようもないまま受け渡し続けるような、穏やかで絶望的なやりとりだった。もうすでにどこにもつながらなくなってしまった階段の奥から冷たい風が吹き下され、エリオンの緑の髪と、サラの赤錆色の髪を揺らした。
やがて体力の回復を感じると、エリオンは立ち上がり、僅かに肩を震わせ、再び前へ踏み出した。 靴底がカーペットを踏みしめる音だけが、無機質なオフィスに響く。
無限の平行世界の狭間に浮かぶ異空間。 異世界の欠片が流れつく場所、リミナルダンジョン。その奥へ。さらに暗く、さらに深く、二人の冒険者は歩みを進めた。 彼らが求めるものは、魔法の物品アーティファクトか、これから従うべき世界の真理か、それとも……。




