第二十九話 新たなる夜明け
「これが、本当に空を飛んでいるのか……」
レカと一緒に縄梯子を登り、甲板に立った時、テルは素直にそう口にした。屋敷の大きさにも匹敵する、帆船のような形の……。しかし、ずっと滑らかな流線型、白銀色に輝く金属の塊。彼はその上に立っていた。
「ハハ、すごいや」
テルがいつもアトリエで読んでいる、空想魔法科学小説。そこに登場するそのままの姿で、それは彼を乗せて闇夜に浮かんでいた。
「すげえもんだな」
レカが言った。テルを引き上げた後、疲れた様子で甲板の縁に寄りかかって、眼下の闘技場を見つめていた。
「下を見てみろよ、テル」
テルが飛空挺から覗くと、はるか下方に円形のアリーナが見えた。獣人傭兵が蠢いているのがかろうじてわかるほどに遠い。それだけ、今のこの飛空挺は高い場所を飛んでいるのだ。彼らはアリーナに集まり、周りの黒い集団と戦っているように見える。あれは……。
「冒険者ギルドだ!」
テルがその正体に気づいて声を上げた。この街の治安維持機関がついに重い腰を上げたのだ。
「傭兵ギルドとの衝突を避けていた彼らが……」
レカは皮肉った調子で言う。
「っへ、来ると思っていたさ。冒険者ギルドの治安維持専門部隊、鉄錠級冒険者……。本来あいつらの装備では、獣人傭兵団には敵わねえが……ジャドワなしなら互角に戦える。そして敵はあらかた闘技場の中。あいつらもこの機会を逃しはしないさ」
制圧用の魔法弾がチラチラする閃光となってアリーナを彩る。一人、また一人と、獣人が拘束されていった。その時、二人の後ろから威厳のあるしわがれた声がした。
「場外で反乱軍に加わった獣人も、大半は投降した」
レカとテルが驚いて振り向くと、タティオンが立っていた。いつのまに甲板に来たのか、テルには一切気づくことができなかった。タティオンは黒い羽に覆われたコートを風に靡かせながら二人に歩み寄る。
「残る者たちも、包囲の輪の中へと追い込まれていくだろう。事態は収束しつつある」
テルは心配そうに、
「ジャドワは……」
と首謀者の名を口にしたが、タティオンは口髭のある頬を緩ませた。
「心配するな。彼のような者には、相応の最期が用意されていたということだ」
テルは顔を眼下の闘技場へと戻す。先ほどの赤い閃光……稲妻が天に向けて放出されるような光景は今や収まっていた。ほとんどの傭兵たちは無傷で捕えられたにせよ、アリーナの砂はところどころが赤く染まっている。麦の粒ほどに小さく見える人影はいくつも倒れており、その中には全く動いていない者も見え、魔光灯の明かりの下、砂地で小さく黒く目立っていた。
(どれくらいの人が犠牲に……)
死にそうな目にあったというのに、テルは冷静に俯瞰したものの見方ができる自分に、内心驚いていた。飛空挺の縁の手すりを握っている手に、黒っぽいグローブの手が重なる。テルは隣にいる人を見た。その瞳には赤い輝きがあった。ふきっさらしの後部甲板の上。夜の闇、風が強く吹いていた。
(美しい)
テルはつい、そう思った。髪留めを外したホワイトゴールドの金髪が、風になびいて、金色の稲穂のようだった。暗い中で、探照用の魔光灯の灯りに照らされて輝いている。見惚れていると、肩に毛布がかけられた。振り返ると、タティオンだった。テルは礼を言ったが、その時初めてこの老暗殺者の手をまじまじと見た。その指には、長年の暗殺者人生が刻んだ無数の傷跡が刻まれていた。
「船内の準備は整っている。お前たちの休息のための部屋も用意させた」
風が甲板を吹き抜けるが、寒さはもう感じない。テルとレカは一緒の毛布に包まれていたからだ。タティオンは一歩引いて、二人をじっと見つめた。「今はまず二人だけで話し合うのがよいだろう。下でスタヴロたちが後処理に当たっている。彼らに任せて、今は安め、若き英雄たちよ」
それだけ言うと、老暗殺者は音もなく踵を返した。その背中は、幾多の戦場を潜り抜けてきた者特有の威厳に満ちている。甲板の扉に向かう彼の足音は、まるで幽霊のように静かだった。
重い扉が閉まる音と共に、レカとテルの周りに静寂が落ちた。風の音と、はるか下に聞こえる戦いの残響だけが、二人を包み込む。突然訪れた孤独の中で、彼らは一枚の毛布の中で暖かさを共有した。そして互いの存在をより強く意識した。共に生き延びた、この長い一日の終わりに。
テルは、ザワザワするのを感じた。レカの赤い目が、光を放っているように見えた。……あのジャドワが最後に放ったオーラのように。そんな怖い感覚も、レカがニカっと笑うと、消え去る。
「テル。もうそんな不安な顔をする必要なんかねーって」
そして、夜風に吹かれる髪をかき上げながら、目線を逸らす。毛布をギュッと握りしめる。誰にともなく話しかけるように、
「終わったんだ、少なくとも今日は、もう……」
そう言って、レカの手袋越しの手が、テルの手の甲を握る。少年は黙って幼馴染みの横顔を見つめた。血と砂で汚れた頬に、魔光灯の光が柔らかく反射している。何を言えばいいのか分からなかったが、言葉は必要ないような気もした。
「あーし、今日、死ぬかと思った。いや、そのつもりで戦ってた気がする」
レカはぼうっと上の空のように言った。
「でも、テルが来てくれたとき……なんか、ほっとしたんだ。悪い夢から覚めたみたいだった」
その言葉には、レカが普段見せない弱さが垣間見えていた。
「ねえ、レカ。怪我した手、大丈夫?」
レカはなんでもなさそうに、
「さっきまで痺れがあったけど、今まで以上に軽く感じるくれーだ。今夜休めばもうへーきへーき」
「……そっか」
テルは静かに微笑む。今は、この瞬間を大切にしたかった。
「それにしてもよぉ」
レカの声がいつもの明るい調子を取り戻す。
「でっけえなあ、この街は。こんなにデカかったんだな。絶景だぜ」
言われて、テルは再び街の景色に目を戻した。この眼下の光景は、吹き荒ぶ甲板の寒風を我慢してでも見る価値がある。大時計塔を中心に、我が街はなんと美しい姿をしていることか。地上に降りれば悪臭と喧騒、あるいは、高慢と不平等しか感じないというのに。あらゆる場所、建物が、魔光灯で輝いている。父ロドヴィコがそれを発明するまで、この街で夜も輝くものなど、大時計塔の文字盤しかなかったのだ。そして今空を飛んでいるのも、父親の発明のおかげ。
「はあ……」
テルは毛布を頭まで被って、手すりに寄りかかった。力なく息を吐くしかない。敵うはずもないのだ。偉大なる父に。
「なあ、テル」
レカは遥か下の街を見ていた。目に焼きつけようと努力しているのだ。自分が獣人の反乱から守った街。おそらくこれからも守っていくだろう街。「あーしからは、血の匂いがするだろう?」
テルは唐突な問いかけに、面食らってしまう。レカと目が合う。そこには戦いのあとの、誰のものともわからない血がついていた。しかし、そういうことを聞きたいのではないのだろう。レカは無表情だったが、少しの衝撃で割れて涙が溢れてしまう、ガラスの瓶にも見えた。
テルは少しだけ返答に窮したが、すぐに否定する。
「まさか!」
慌てて首をブンブンと横に振った。
「しない。しないよ」
それを見て、フフッ、と、レカの吐息が吐き出された。
「鼻が効かないんだな」
ふと、レカはつらい気持ちになって、笑顔が曇った。自分の今までの人生を思い返し、流してきた血の数を思うと、いたたまれなくなる。罰して欲しい。そう思った。変な気持ちだった。……父であるタティオンには、あれほど褒めて欲しかったのに。手すりに上にあったテルの手が、今度はレカの手の上に重ねられる。その温かさは、グローブの上からでもわかるような気がした。
レカが呟いた。
「あーしには、血のにおいなんかいくらでも染み付いてるんだ、いくらでも……。今まで殺した相手の」
テルはその言葉に対し、強くこう言い返す。
「タティオンさんが悪いんだよ。君にこんな人生を味合わせて……」
レカはテルの方を見た。毛布の中は暖かくて、ぬくい空気を逃すまいと、自然と二人の距離は近づいていく。息がかかるくらいに。テルはレカの声の震えまではっきりわかった。
「あの人を悪く言わないでくれ、お願いだから……あの人は、悪くない……この街を……守って……」
テルはそれ以上何も言えなかった。レカはうなだれている。信じられるわけがないのだ。尊敬する偉大なる暗殺ギルドの頭目と、ずっと弟だと思っていた少年の言葉が、同じ価値だとは。
テルは唇を噛む。そのことが彼にも伝わり、悔しい思いになる。
「ねえ、レカ。本当に、ごめん。気づいてあげられなくて」
「なにを?」
わかりきったことを、テルの方を見ずに言う。テルは勇気を出して、こう言った。
「君が、つらい思いをしていたこと」
レカはホワイトゴールドの髪をなびかせるまま、テルを決して見なかった。
「僕は……気づいていたよ」
テルは心底言いにくそうに、言ってのけた。剃刀の刃でも吐き出すように苦しげな顔で。
「ごめん、本当にごめん……気づいていたのに気づかないふりしてたんだ。ごめん」
と、歯を食いしばった。レカは、たまらない気持ちを感じた。だが、同じ毛布にくるまって、これ以上に甘えるような様子を見せてしまったら、この幼馴染み関係は決定的に変わってしまうだろう。
……まだ、強がっていたかった。お互いを慰め合う関係を、まだ拒んでいたかった。だが、それとは別に、二人は、二人の間の壁を取り払う努力を、怠っていたのだ。いや、その言い方は流石に少し不公平で……。怖かったのだ、二人とも。お互いが。あるいは、お互いの隠していることが。子供の頃からの、擬似的な姉弟関係……。その崩壊を恐れたのだ。レカは、できるだけ泣くのを我慢しているのを悟られないように、そっぽを向いたまま、叫ぶように言葉を吐き出す。
「そうさ。人殺しが、あーしの本当の仕事さ。ごめんね、テル。軽蔑しただろ」
嫌われてもかまわない。だけど嫌わないでくれ。そんな矛盾を感じさせる物言いがテルに刺さる。だが動じない。許せないのは、愛する人の秘密に、踏み込めなかった自分自身だった。レカの話声は、どんどん震えを増していく。
「隠しておきたかった」
テルはレカの肩を掴む。毛布が少しはだけ、寒風が二人を襲う。レカの顔は……すでに涙で濡れていた。
「レカ! 本当は、気づいて欲しかったんだろ? 本気で隠したいなら、僕の部屋に入り浸ったりしないじゃないか……!?」
沈黙。また沈黙が来た。レカはテルにがっしり掴まれながら、涙の流れた筋を隠すこともできず、目だけを、テルから逃がしていた。赤い瞳は、天空の闇を見ていた。だが、少しだけ、白い光があることに気づく。朝日だった。もう、日の出なのだ。まだ、街のはるか向こう、地平線の向こうの遠い朝日は、この飛行船を照らし出すまでには至らず、レカとテルは暗がりの中にいる。だが、確実に白い光がやってきつつあった。しばらく二人でそれがだんだん強まるのを見ていた。テルは毛布をもう一度羽織り直して、レカと自分自身を包んだ。二人はさっきよりも近く、肩と背中が触れ合った。
レカは毛布にくるまりながら、じっと眼下の闘技場を見つめていた。吹きつける風が彼女の頬を冷たく撫で、その表情は硬く張りつめていた。ふと彼女は唇を噛み締め、小さく震える手をギュッと握り込んだ。テルが優しく隣から覗き込むが、彼女は目を合わせず、髪が風になびくままに顔を逸らした。隠してきた何かがその視線の先にあるかのように、必死に遠くを見ようとしている。
「ねえ、レカ。怪我した手、大丈夫?」
テルの問いかけに、彼女は一瞬だけ眉を寄せ、傷ついた手を無意識に隠すように毛布の中へとしまった。目線はさらに下を向き、唇を噛む力が増した。
「いいんだよ。怪我くらい……どうせあーしには、血のにおいなんかいくらでも染み付いてるんだ……罪のある人の血も、ない人の血も」
言葉を吐き出すと同時に、彼女の顔がわずかに歪んだ。自分で言ったことに戸惑ったのか、小さく肩を震わせている。テルの声を聞いても、レカは何も言い返さなかった。ただ静かに、テルの胸元で嗚咽をこらえるように震え続けていた。
「あーし、殺したんだ。子供を」
ぼそりとした言い方だった。
「そっか」
テルは、つとめて平常心を装う。声も、いつも通りを装う。レカの肩に回していた手に、ぎゅっと優しく力を込める。レカの髪の匂い。幼い頃から嗅ぎ慣れた、匂い。
「あのさ、あーし……殺すつもりはなかったんだ、でも、高いところから落ちて……それで……血を吐いてて、助からなくて……獣人の子が……何年も前にそういうことがあって、それからこの前だって、橋の上で……」
声は震え、途切れ途切れにこぼれ落ちる。彼女は言葉を繋ごうと必死に息を吸い込むが、肩は激しく上下し、涙が目尻に溜まっているのが分かった。懸命に抑えようと目を強く閉じるが、その努力はあまりにも無力だった。テルが優しく肩を抱き寄せた時、彼女はわずかに体を硬直させたが、やがて緊張を解いて、無意識のうちにテルの胸に額を預けていた。肩が小さく、しかし明らかに震えている。
「レカ姉、大丈夫だよ」
レカの頭が動く。テルを見ようとしたのだ。でももう、すっかり二人はくっついていて、毛布の中で暖かい空気を共有している。寒風も平気なくらい……。
「レカの罪を背負うのは、肩代わりするのは、僕ら為政者の役割だ」
レカの頭が小刻みに揺れる。笑っているのだ。レカが体を離し、テルを向いた。
「っへへ。あーしに殴られて泣いてたガキが、一丁前になったなあ」
(そうだ)
テルは思った。
(この人はこんなふうに美しく無邪気に笑える人なんだ)
だからこそ、愛しい姉のような存在を苦しめた運命が憎かった。
(大好きなレカ姉ちゃんを、なんで、なんでこんなに苦しめちゃったんだ)
レカは居住いを正し、真剣な表情で言った。
「テル坊、いや、大貴族アルエイシス家の息子テル・アルエイシス。あーしはあんたのスティレットでいい。ぜひとも、この街の権力の頂点に上り詰めて欲しい。そのためなら、あーしは暗殺短剣として、いくらでも血を流そう。だから、オメーも、他の人間を人形として利用してでも、この街に平和をもたらしてくれ、頼む」
テルの汚れて破れたシャツを掴むレカの手は、すがるようだった。しかし、テルは思った。……違う、と。誰もみな、マリオネットでもなければ、スティレットでもないのだ。
(レカ、それは、悲しい勘違いだよ……)
それを、伝えたかった。でも、できない。まだテルには、王の資質が足りないから。まだテルには、レカを、この街を愛する勇気が足りないから。
フーッともハァーッともつかない音で、レカの口から息が吐き出された。限界らしかった。
「テル」
とレカは体を離し、涙の跡を夜風に晒した。金色の髪と頬を撫でる風が、彼女の弱さの痕跡を優しく拭い去る。レカは疲れた肩を落とし、自分の弱さを見せてしまった恥ずかしさに顔を背けた。
「こんな弱音、吐くつもりなんてなかったんだ。あーしらしくねーよ……」
そう言いながらも、彼女の声には不思議な解放感が混じっていた。重い鎖から解き放たれたような、そんな軽やかさ。グローブの手で目元を拭う仕草には、レカらしからぬか弱さがあったが、それがかえって彼女の人間らしさを際立たせていた。「ったく、ガズボもシャルトリューズも……仕事終わりの解散、言ってねえんだけどな……追いかけて叱らねえと……」
横にいたテルは、もう糸の切れた人形マリオネットのようになってしまったレカを、愛おしそうに抱き抱えた。毛布がしっかりと二人を包むように。
「もう仕事なんてやめろよ……」
テルはレカの体を支えながら、しっかりと抱きとめた。幼馴染みの女の子の、命そのものをしっかりとつかまえるように。
レカの返答はなく、疲労の色濃いゆっくりとした寝息だけが聞こえてきた。
船体はさらに浮き上がる。翌日はきっとこの白い巨大な鯨のようなものの噂で街はもちきりだろう。もちろん、賢いものはそれが街頭で配られる新聞に記載されていないことで察する。この町で秘密にされることが決定したものを暴くことは、どこかのギルドからの敵意を受けることを意味する。それだけはするべきではないと、流れ者以外の全員が理解していた。
飛空挺が上空から音もなく去った後、闘技場の内部で赤い雷のようなものが光り、雷鳴か大砲のような音がとどろいた。それは遮るもののない闘技場上空の夜空へ向けて放出された。ジャドワの遺体は発見されなかった。
外には、たくさんの人がいた。脱出した獣人傭兵たちは、起きたことがあまりに理解を超えすぎていて、呆然とするものが多かった。逃げ出す者もいたが、ほとんどが鉄錠級冒険者に捕えられたらしい。
レカとテルが甲板から街の景色を眺めている頃、操舵室ではタティオンとロドヴィコが向かい合っていた。操艦をエルフたちに任せたロドヴィコは、窓越しに見える二人の姿を横目に、眉間に皺を寄せた。
「なまじっか、テルの奴も情愛があるから不幸だ」
タティオンは室内の手すりに手を添え寄りかかりながら、淡々と答える。
「お前の計画通りなら、情愛を捨てなければならないからか?」
ロドヴィコは冷笑を浮かべた。
「フン。その程度の理解だから、お前は所詮あのギルドの長止まりなのだ。反社会勢力め。情愛があるからこそ、無慈悲な決断を下すことが辛いのだ。情が深ければ深いほど、苦しみは大きい」
タティオンは肩をすくめた。
「まあ、息子を持つ父親としての苦悩は理解しないでもないがね」
二人の視線が絡み合い、静かな緊張が走る。老人の暗殺者の笑顔と、精悍な貴族の錬金術師の鋭い目つき。
「それより先日の申し出だが……重要性は認めるが断るよ。強者同士の連携は余計な恐怖を呼ぶからな」
ロドヴィコは残念そうにため息を漏らした。
「それがお前の限界だ、タティオン。やはり野心に欠ける」
タティオンは穏やかな笑みを返すだけだった。
「挑発には乗らん。私の関心はあくまでこの街のパワーバランスだ」
「どうだか」
「本心だよ。ロドヴィコくん。それじゃあな。レカを頼むよ」
ロドヴィコは渋い顔をする。
「いつか、お前の本当の野心に火をつけてやろう」
去っていくタティオンはどこ吹く風だ。
「ハハッ。ワシはもう歳だ。未来の話がしたいなら、スタヴロに言ってくれ」
「タティオン! その時はテルも同席だ!」
タティオンは軽く手を振りながら操舵室を後にし、階段を降りて下方のキャビンに消えた。ロドヴィコは独り残された操舵室で、遠ざかる背中を見つめた。
「いつか、その野心に火をつけてやろう」
彼は小さくつぶやき、再び甲板の二人の姿へと視線を戻した。毛布の中で涙と共に睦み合う、未来のこの街の担い手……。
「まあいい。今は……英雄たちを休ませなければ」
彼らへ向けるその眼差しには、慈愛と支配欲の混合した色が満ちていた。
一方、ガズボとシャルトリューズは街外れの小高い丘に腰を下ろし、闘技場を見下ろしていた。丘の上では、街を覆う不穏な静寂と戦いの余韻が漂っている。
「あーあ、もう安全じゃないわね。この街。獣人にとっては、だけど。傭兵ギルドの獣人傭兵部隊も解散かなー……ウチにとっては暗殺ギルドの娼館以外に身分を保証してくれる担保として安心だったんだけど……」
シャルトリューズはゆったりとした動作で頭の触手を垂らし、深いため息をついた。ガズボは獣特有の鋭い目で闘技場の方向を睨み、鼻を鳴らして黄色い牙を剥き出しにした。彼の金色の瞳には、獣人特有の野性と、人間的な理知が奇妙に混ざり合っていた。
「ッケ、獣人にとって人間の街が安全だったことなんて一度もねえさ。俺たちみてえな種族問わずに食っちまう捕食者もいるしな。本音を言やぁ、まず俺たちみてえな本当の怪物を排除しなきゃならねえのさ。それが『正常』ってやつだ」
シャルトリューズは皮肉めいた表情でガズボを見上げた。
その言葉には、自嘲と諦観、そして奇妙な誇りが入り混じっていた。シャルトリューズの緑の瞳が、月明かりに輝いた。
「それって自殺宣言なの? テツガク的ね」
ガズボは獣の低い唸り声に似た笑い声を上げた。
「ヒヒ……つーか、アタマ使ってみろや。結局、どこに行くっていうんだ? 俺たちに行く場所なんてねえよ。獣人だろうが触手族だろうがそんなことは関係ねえ。本当のアウトローに居場所なんかねえって」
二人は暗闇の中で闘技場を見つめ続けた。時折、ダンジョン由来の魔法の閃光が闇を引き裂き、アリーナを青白く照らし出す。その光は、夜明け前の闇の中で不吉な予感を孕んでいた。ガズボは立ち上がり、体についた血が乾いて固まったのを払い落とす。自分の血と他人の血が固まったものがポロポロ落ち、それを風に散らした。
「さて、冒険者ギルドが出張ってきたようだ。逃げるぞ。しばらくお前の娼館に厄介になるぜ」
シャルトリューズも立ち上がってガズボの腕に縋りついた。
「うふふ、暗殺ギルドだけでは頼りないし、ウチにはあんたがいてよかったわあ。あの娘は少しは使えるけど……」
ガズボは貧民街の路地を目指しつつ、闇に輝く目の牙を歪ませて邪悪な笑みを作った。
「ククク、レカの姐御はいつも言ってたよな。『責任』ってやつを。俺たちの面倒くらいで留めておけばいいのによお、これからのこの街も、大変になるぜ。あのテルってガキが一緒にやろうが……背負いきれねえもんを背負っちまってどうなるか……。よくよく観察させてもらうぜ、クックック……」
凶悪なる亜人種二人は、街の暗がりに消えた。
テルは、この日、間違いなく、王になる決意を固めた。愛するレカを解放するためには、そうするしかないと思ったのだ。この街の悲しみと理不尽、すべてに決着をつける王に。大時計塔が、ゴーン、ゴーンと、始業のベルを鳴らした。………………………。その時計塔の基部、内部、いや、異世界であるダンジョンに通じる、魔法の次元のポータルから、赤いオーラが少し、漏れ出ていた。




