第二十八話 赫赫
ジャドワが倒れた場所から突如として赤い光の柱が立ち上がった。まるで火炎の旋風のように渦巻き、瞬く間に勢いを増していく。その不気味な輝きはアリーナ全体を血に染めたように赤く照らし出し、獣人たちの恐怖に満ちた叫び声が闘技場に響き渡る。
「これが赤い瞳の力の正体だ。魔王存在の……」
タティオンの低い声が、レカとテルの背後から聞こえた。老暗殺者の顔は厳しく引き締まり、赤い瞳には警戒の色が宿っている。テルはレカの顔を見た。彼女の肩を支えているため、その距離は息が感じられるほど近かった。レカもまた、テルを見つめ返す。別の状況なら、二人のこの距離感は甘美な瞬間になりえただろうが、今はそんな気分ではなかった。レカの赤い瞳には疲労と困惑が交錯している。
「今は何も知らなくていい」
スタヴロの声が割って入る。彼は冷静な表情で二人の前に立ち、赤い渦を観察していた。そんな中、猫族の副官が赤い光の中心へと歩み寄る。
「ジャドワ隊長……!」
副官は赤いオーラに包まれた。一瞬のことだった。まるで電撃に打たれたかのように体を痙攣させ、そのまま息絶えた。獣人たちの中から恐怖の悲鳴が上がる。しかし、それは次第に変質していく。野獣のような唸り声、獰猛な咆哮へと。観客席の獣人たちの目が赤く光り始め、その動きが狂暴化していく。毛皮が逆立ち、筋肉が膨張して肌を引き裂く。長年の訓練で培った規律はかなぐり捨てられ、純粋な殺戮本能だけが残った姿は、もはや傭兵ですらなかった。互いの肉を喰らい、骨を噛み砕く音が闘技場に響き渡る。牙は伸び、爪は鎌のように湾曲し、口からは泡と血が吹き出していた。かつては仲間だった者同士が互いの首筋に牙を突き立て、血飛沫を上げる。制服は引き裂かれ、眼球は血走り、もはや理性の欠片も残っていない。
「何が起きている?」
テルの声が震える。彼の目の前で、整然としていた獣人たちが狂戦士へと変貌していく。冒険者ギルドの駆けつけた警備隊が放った電撃の拘束魔法も、もはや効果がない。赤い光を浴びた獣人たちは、魔法を弾き返すようにさらに激しく暴れ始めた。スタヴロがレカとテルの前に立ち、二人を守るように腕を広げる。
「赤い光に近づくな。これに巻き込まれれば終わりだ。この赤い力は魔王存在の一部だ。汚染された者は自我を失い、やがて異界へと引きずり込まれ、やがてリミナルダンジョンへ落ちてしまう」
テルはあまりに理解から遠い事態に困惑した。レカは弱った体で身を起こそうとした。テルがすぐに気づき、彼女の肩をしっかりと支える。レカはだんだんと力が戻りつつある体に気力を込めて、声を振り絞った。
「スタヴロよぉ……。オメー、いや、ボスも、オメーも……いろんなことを黙って……」
しかしスタヴロはその声を無視した。
「父上。まずいですね。こいつらが街へ出れば……」
スタヴロの声には珍しい緊張感が漂っていた。タティオンはため息をつき、右手を軽く握ったり開いたりした。
「殺すしかないか。やれやれ。老体にこれ以上ムチを打ちたくないのだが……」
「全員、警戒せよ!」
スタヴロの号令が飛ぶ。暗殺ギルドの黒装束の暗殺者たちが影のように四方に散り、円陣を組む。彼らの手にはクロスボウだけでなく、銀の短剣や特殊な拘束具が握られていた。
「これは想定外だ……」
スタヴロの眉間に深い皺が刻まれる。先ほどまで拘束していた獣人傭兵たちに異変が起きていた。魔導の矢の電撃で気絶していたはずの獣人たちの目が、突如として赤く灯り始めたのだ。麻痺した後に施した緊縛による拘束は完全に機能しているはずなのに、彼らの筋肉は膨張し、ワイヤーを軋ませていた。
「拘束レベルを上げろ!」
スタヴロの命令に応じ、暗殺者の一人がさらにクロスボウの矢を発射する。拘束していた獣人傭兵たちの近くの砂地に突き刺さった矢から電撃が迸る。しかし放電される青白い魔力に打たれても、効果はほとんど見られない。むしろ獣人たちの狂乱は加速していった。
「全員、退避!」
スタヴロは即座に判断を下した。だが既に遅い。拘束から解放された獣人たちが、まるで嵐のように暗殺者たちに襲いかかる。最前列の暗殺者が反射的に短剣を構える。刃が獣人の胸に突き刺さるが、彼らはもはや痛みすら感じていないようだった。むしろ刃が刺さったまま、その体を暗殺者に押し付け、噛みついてで首筋を引き裂こうとする。
「ふん!」
暗殺者の一人が獣人の怪力に押し潰されそうになる中、別の暗殺者が影のように現れ、獣人の頭蓋を貫くように刃を突き立てた。しかし、致命傷を受けたはずの獣人は、それでも唸り声を上げ続ける。
「若様! 効きません!」
「撤退!」
スタヴロの指示に、暗殺者たちが一斉に煙幕を発する火薬の玉を投げつけた。白煙がアリーナを埋め尽くす中、彼らは素早く中心部へ後退していく。テルもレカを引きずるように退がる。しかし獣人たちの嗅覚は鋭敏だった。煙の中からも的確に暗殺者たちを追いかけ、爪と牙で襲いかかる。スタヴロは手負いになった部下を肩に担ぎ、退路を確保する。暗殺者たちは訓練通りに素早く行動し、互いをカバーしながら後退していく。だが、すでに犠牲者は出ており、それが増えることは避けられなかった。上空の飛空挺がエンジン音を低くし、降下してくる。だが、憎悪そのものとなった狂戦士たちが迫る。しかし、スタヴロはとあるニオイに気づいた。
「これは……」
あたりに甘ったるい香りを含んだ霧が広がり始めた。魔光灯に照らされた濃い霧は、妖しく揺らめきながらアリーナ全体を包み込んでいく。
「ケホッ、ケホッ!?」
霧を吸い込んだ獣人たちが、次々と床に倒れ込んでいく。
「オッラア!」
雄叫びと共に何かが飛んできた。それは触手が蠢くピンクの塊……。この毒気のある煙はそれから発せられたものだった。まるでタコだ。
「シャル!」
その正体に気づいたレカが叫んだ。
「いったーい!」
腰をさすりながら立ち上がった姿は、艶かしい女性のプロポーション。触手族のシャルトリューズ。それは闘技場の観客席の石組みをぶち壊し、アリーナに飛び込んできた。白砂の上にどさっと落ちた彼女は、体を覆うねっとりした粘液のせいで砂まみれになってしまいながらも、元気に起き上がって悪態をついた。
「なに考えてんのよ〜! あのデカブツ! 人を投げるなんて!?」
悪態をつきつつ、石の構造物すら破壊するその衝撃はなんともなかったようだ。シャルトリューは魔光灯の明かりの下で、怪しい笑みを浮かべる。彼女の触手からは、甘美な匂いとともに淡い桃色の霧が噴き出していた。その間、観客席で狂気の叫びを上げていたものを含め、獣人たちは水を打ったように静かになっている。なぜなら、その神経に異変が生じていたからだ。
「ぐぁああああああああ!!」
シャルトリューズの粘液を被った者は、誰だってああなる。それは媚薬としてのラインを遥かに超え、天井知らずに神経を昂らせる。風にあたるだけで生じる、頭がぐらぐらするくらいの快感。シャルトリューズの毒を吸った者たちはみな、胸の辺りを爪で血が出るほど引っ掻いた。獣人たちの感覚は鋭い。赤い狂気のオーラに理性を失っても、この感覚の昂りには耐えられないようだ。まだ正気を保っている獣人傭兵たちが。ザワザワと困惑と不安の声を上げ始めた。
それを見て喜んだのはレカだった。部下の触手女の能力が効くとわかると、弱々しかった声に力が戻る。
「あっはっは、効くだろぉ?」
触手族の娼婦は高笑いで答える。
「あはは、みんな気持ちよさそう~! この子たち、ちょっとお休みしてもらうね〜」
シャルトリューズの触手が空中で踊るように揺れ、より多くの甘い毒霧を発生させていく。触手族特有の、しかし毒性がさらに増した彼女特製。触れた相手を瞬時に昏睡状態に陥れる神経毒だった。理性を失った獣人たちが意識も失い、次々と倒れていく。そして一際大きな影が地面を蹴る。
「オラアアアァ! 俺サマが来てやったぜェ!」
ガズボの巨体が弾丸のように陣に突っ込み、獣人傭兵たちを薙ぎ倒していく。彼の巨大な腕が弧を描き、命中した獣人たちは何メートルも吹き飛ばされた。鼻から荒々しい息を吐きながら、ガズボはレカたちの前に立ちはだかっていた二人の傭兵を両手で一人ずつ掴み上げた。
「てめえ、姐御に何してくれやがった!」
痛みを感じているのかいないのか、彼らはは必死に抵抗するが、ガズボの怪力の前には無力だった。巨大な掌が首を握りつぶし、骨の折れる音と共に、その体は永遠に停止した。
「カーッ! 気持ちいい! やっぱりぶっ殺すのはサイコーのエクスタシーだ! ……オラァ! 俺の最強の飛び道具よ! あっちの奴らにも毒撒いてこい!」
「いやああ!! おまっ、ざっけんな!」
ガズボはシャルトリューズの触手になった髪を引っ掴み、アリーナを挟んだ向こうの観客席へと投げようとする。しかしその瞬間、シャルトリューズがその口から吐瀉物のように粘液を吐いた。それはガズボの顔にかかり、
「ぎゃあああ!! 俺じゃねえよ! 向こうだ向こう!」
と悲鳴をあげさせ、さすがの彼もたまらずシャルトリューズの髪を離した。彼女は唾を吐くように残りの粘液をアリーナの砂地に吐き捨てる。
「ったく、あんたなら死なないでしょ」
そうとう怒っているようだ……。テルに肩を借りたまま、レカが嬉しそうに叫ぶ。
「ガズボも!」
ガズボはひとしきり顔を拭うと、シャルトリューズの粘液を振り落としながら、ニヤリと笑った。
「ふふっ、レカの姐御ぉ! ガズボおいたんが助けに来たぜ」
サムアップしつつ片目を不器用に閉じ、ベロがだらりと飛び出ておどけてみせるガズボだった。そんな獰猛な笑みを浮かべながら、チラリと背後に視線を送る。
「し、心配すんな! 俺らが来たからには、もう安全だぜ!」
その口調は傲慢だが、どこか恐れるような様子も見て取れた。シャルトリューズも緊張した面持ちで、ゆっくりと自信の位置を移動させる。人外の戦士二人は恐る恐る目配せする。
「そう、そうそう! いつでもレカちゃんは守ってあげる気満々だったのよぉ~。タイミング見計らってたのよね? ね?」
二人の声は元気だったが、タティオンの鋭い視線が向けられた瞬間、途端に小さくなった。老暗殺者の赤い瞳には、深い失望と怒りが宿っていたが、ため息と共にそれを吐き出し、呆れつつも許すような調子で言う。
「まったく、お前らは……」
タティオンの声は穏やかだったが、そこには絶対的な威厳があった。
「今は、この場を収めねばならんな」
二人は戦闘そっちのけで平身低頭である。
「へへぇ、も、もちろんっす!」
「は、はい~。ご命令通りに~」
態度を一変させ、まるで叱られた子供のように俯いて見せた。タティオンの殺気は、レカでさえ震えるほどの凄まじさだった。二人は獣人でありながら、この老暗殺者の前では小動物そのものだった。
「す、すいませんでした、ボス! 本気で反省してます!」
ガズボが土下座さながらに頭を砂に叩きつける。シャルトリューズも触手を床に這わせ、頭を深々と下げた。タティオンの眼差しには怒りに加えて、とても複雑な感情が宿っていた。彼の老いた指がレカの肩を優しく撫でる。「も、もう二度とレカちゃんを裏切ったりしませんわ~」
「レカには感謝してる! もう傭兵ギルドはこんな感じだし、確かに姐御の言う通り、俺たちゃ、俺たちゃ他に行き場がねえんだ! 暗殺ギルドを出たら生きていけねえんだよ!」
ガズボの声には、珍しく真の後悔が滲んでいた。シャルトリューズも本当に申し訳なさそうな目をしていた。二人が本気で自分の愚かしさを感じていることは、タティオンにも伝わったようだ。タティオンはその様子を無表情で見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「よし。お前たちは、ジャドワの残党を狩れ。一人も取り逃がすな」
「へっへっへ! 任せてくださいって!」
ガズボの獣じみた顔が歓喜に満ちる。シャルトリューズも触手をくねらせながら嬉々として毒霧を広げていく。二人は命じられるまま、アリーナの外へと消えていった。
「さあレカ、立てるか?」
タティオンが優しくレカの体を支える。怪我は信じがたいことに完全に治っているが、なかなか力は入らない。テルとタティオンに肩を支えられてやっと立ち上がる。その赤い瞳は、今や深い疲労と共に、達成感のようなものも宿していた。テルはタティオンの方には目もくれず、ただただレカの様子を真剣に見守っている。タティオンは静かな優しい笑みを浮かべた。
「よくやった、貴族の後継者よ」
タティオンは微かに頷き、テルの肩を叩いた。その手には親しみの色があったが、同時に新たな敬意も混じっているようだった。初めて、彼はテルをレカの庇護対象ではなく、一人の戦士として認めたのだ。テルはあうらっとしたタティオンを見上げる。ほんの少し、認められた誇らしさを抱くが、すぐにレカが歩くのを手助けすることに戻った。タティオンが二人を優しく導く。
「さあ、飛空艇に乗るぞ。君のお父上が操艦している」
「父さんが!?」
頭上から、魔導エンジンの唸りが聞こえ始めた。タティオンの指示通り、魔法科学ギルドのロドヴィコの私用飛空艇が闘技場の上空に現れたのだ。レカを支えるタティオンに、テルが反対側から肩を貸す。
「ジャドワの扇動による『暴動』は、ここまでだ」
タティオンの赤い瞳が、改めてアリーナを見回した。ガズボとシャルトリューズの活躍で、もはや目的すら失った獣人傭兵たちが、一人また一人と倒れ伏していく。縄梯子が垂れてきた。しかしタティオンはそれには目もくれない。しかしその赤い瞳は、別の輝きを帯びる。
「あ……」
テルが、気づきと困惑、そして驚きの声を上げる。その赤い光は、まさしく今この闘技場を包み、獣人たちを狂気に陥れている光と同じだった。そしてもしかするとレカもまた、赤い瞳に同じ魔力を……。
しかし少年の思考はそこで途切れた。タティオンは、レカとテルを抱えると、上空へ向けて思いっきり放り投げた。
「う、うわあああ!?」
瞬時に数メートルも飛び上がったテルは、つい情けない声を上げてしまう。しかしレカがしっかりと縄梯子を掴み、テルを抱き抱えた。
「レカ!」
テルが呼ぶ。しっかり彼女の体に捕まりながら。そして空いている手を使い、自らの力で縄梯子を掴んだ。二人の両手が触れ合う。そう言えば二人の体も、かつてないくらい近い。テルは急に気恥ずかしさを感じ、顔が赤くなった。レカとテルは、一瞬、とても近い距離で、見つめあった。空中ブランコのような不安定さの中で、初めてこの日、二人は落ち着いてお互いを観たのだった。
「テル坊……いや……」
レカもまた赤くなりながら、小さい声で幼馴染みに呼びかけた。
「テル、さん……」
テルはあまり呼ばれたことがない、慣れない言い方に、思わず吹き出した。
「なにそれ、レカ……無事でよかっ……」
熱い抱擁が、その言葉を遮った。死と隣り合わせの戦いを共に乗り越えた安堵感が、二人の距離を縮めたのだ。
(責任?)
レカに抱きしめられながら、テルは縄のハシゴを強く握りしめる。彼の脳内に浮かんだのは、そんな単語だった。
(レカに、同格だって認められたかな……?)
腰に差したリボルバー拳銃が、鈍く輝いた。




