第二十六話 決断の瞬間
レカは再び突進を試みた。アリーナの端から一直線に、円陣の最も薄く見える箇所を目指す。大型獣人の振るう斧槍や両手大剣のスキマをすり抜け、その肩を踏み台に跳躍する。しかしそれもまた訓練で対応済みの状況のようだ。
「上だ!」
円陣の内側から、一斉射撃の号令が飛ぶ。
ダダダダン!
レカは空中で体を捻り、火縄銃の弾丸の雨をかわす。
(まずは銃兵や猫族どもをどうにかしねえと……)
着地地点には既に二人の猫族兵が短剣を構えて待ち構えていた。レカは咄嗟に回転しながら二人の首筋を蹴り上げる。一人は円陣の外の遥か彼方に蹴り飛ばされ、もう一人は交わした。しかしそのわずかな間に、ジャドワの姿は別の円陣の中へと消えていた。
(くっ……イラつく連携だ。やつめ……)
三つの同じ構成の円陣は、どれも強固だ。三つの円にそれぞれ三つの兵種。互いに補完し合い、一つの有機体のように機能している。外側の大型近接武器を持つ巨漢獣人たちが壁となり、その肩越しに内側の銃兵が射撃し、そして中心のジャドワは素早い動きの猫族の兵に護衛される。軽装で機動力のある彼らが、内部にまで侵入した敵に確実な止めを刺しにくるか、そうでなければタックルで動きを止めに来る。それにモタモタ対応する間にジャドワはさっと円陣の外へ出て、別の円陣の中心部へと消えてしまう。三つの円それぞれを、ジャドワだけが自在に移動しながら、最も有利な位置取りを保ち続けるというわけだ。
(猫族を減らすか!)
レカは、そう思った次の瞬間にはすでに動いていた。ジャドワの姿を追って目線を走らせるが、すぐに壁役の巨漢獣人たちが視界を塞ぐ。反射的に後方へ跳び退き、銃兵たちの射線を避ける。だが、すぐさま猫族兵が左右から飛びかかる。
「チッ!」
レカは低く唸り、蹴りで一人を牽制しつつ、もう一人のナイフを寸前でかわす。
「ウラア!」
レカは猫族の兵士が刃を構えて飛びかかってくるのを、渾身の蹴りで吹き飛ばした。彼は血を吐いて投石器で打ち上がるように円陣から飛び出し、放物線を描いて観客席の方へと消えていく。
「はあ、はあ」
しかし、蹴り技は神速だろうと隙が大きい。疲れも増してきている。わずかな体勢の崩れが命取りになった。後方では巨漢獣人が弾丸のように突進してきていて、レカがそれに気を取られた、その時だった。
「今だ!」
猫族兵の一人が叫ぶと同時に、細身の女性の猫族がレカの懐へ潜り込んでいた。信じられない速度だった。今までの兵よりはるかに速かった。
(しまっ――)
副官だった。赤い瞳の強化能力こそ持たないが、彼女もジャドワと共に戦場を潜り抜けることで鍛えられた身。単独ではレカに勝てなくても、動きを止めるくらいは可能だった。腕を絡め取られる。レカは、両手を捻り上げられる形で砂地に膝をついた。
「ぐっ……」
逃れようと力を込めるが、副官の締め付けは肘間接を完全に極めており、レカがいくら力が強くても逃れることは難しかった。そこへ巨漢の獣人が肩を前に出して突進してくる。
「フンっ!」
肩のアーマーでのぶちかまし……レカは目の前で火花が散るのを感じた。
「くぁっ!?」
レカは吹き飛び、円陣を固める壁役の獣人たちにぶつかる。副官は何事もなかったように関節技を極め続けている。小柄な猫族の両足がレカの両腕を折りたたむようにぎっちりロックし、片手は白い肌があらわな首筋に爪を食い込ませる。
「動くな!」
低く、鋭い声。ついにレカの首筋に冷たい刃が当てられた。レカは歯を食いしばった。
「くそっ……」
もがく体を、巨漢獣人たちが抑え込む。分厚い腕が蛇のように絡みつき、レカの四肢が砂に沈む。
「捕えたぞ!」
副官の勝ち誇った声が響いた。
「殺すなッッ!!!」
まるで落雷だった。ジャドワの声が鋭く響き渡ったのだ。ナイフでレカを脅す副官以外の全員が離れ、円陣の配置に戻った。剣や槍や長物の切っ先はレカを向きながら。
「この小娘はまだ使い道があるからさあ……」
ジャドワが近づいてくる。副官は刃を首筋に押し当てたまま、わずかに力を緩める。
「助かったな、レカちゃんよ」
ジャドワが不敵に笑う。その表情に、レカは屈辱で奥歯を噛みしめた。頭上から降ってきたのは、意外な言葉だった。
「お前も傭兵ギルドに来い。傭兵隊長クラスでお出迎えだ」
レカは息を詰めたまま、力の限り拳を握った。屈辱、怒り、無力感、そして心の奥底にわずかに残る恐怖――それらが胸の中で渦巻き、体中の血を沸き立たせる。絶対にあり得ない選択だった。ジャドワはデートへの誘いのように気さくに言った。
「なあに、この街であぶれちまった地獄行き確定のクズどもを戦場へ連れて行って、死神に引き渡すだけの簡単なお仕事さ。おいらたちがこの街を支配すれば、傭兵稼業は、奴隷に落ちた人間どもが唯一就けるまともな職業になる」
ジャドワはしゃがみ込み、レカの顔を覗き込む。彼女の赤い瞳は憎々しげにジャドワの顔を睨みつける。
「なあ、レカちゃん? ぶっちゃけた話、今の状態は辛いだろう? 暗殺ギルドには対等な関係がどこにもない。非正規構成員だっけ? タティオンには媚びへつらい、部下の奴らのケツを拭く。クク、いい部下だねえ。あいつらはもう逃げちゃったみたいだけど」
レカの胸が軋む。背中の副官が力を入れ直す。そうだ、あいつらは逃げた。
(あいつら……)
裏切られた悔しさと悲しさが混ざり合う。しかし、表情には出さない。出せば負けだった。
「どんな弱みを握られてるのか知らんが、こっちではもっと真っ当なビジネスができるぞ。よく考えろ、レカ。付き合う価値のあるやつとだけ付き合え。俺たちとなら、この街を買い取れるほどの金を作れるぞ。隊長たちは全員、お前と同等の力を持っている」
ジャドワは立ち上がり、周囲を見渡す。
「どうだ? タティオンなんか捨てて、こっちに来いよ」
周りの獣人傭兵たちがグヒヒと笑った。だが、レカの瞳にはすでに怒りと拒絶が宿っていた。
「……ふざけんな」
低く、静かに、しかし確かな拒絶がそこにあった。ギリギリと肘を締め上げながらも、レカの赤い瞳はジャドワを鋭く睨み据えていた。
「お前らの言う自由なんざ、あーしにはクソほども響かねえんだよ……てめえら傭兵ギルドだって貧民街の人間を踏みにじってるくせによお……!」
副官の腕が一瞬だけ緩んだ。その隙を見逃さず、レカは力任せに体を捻り上げ、拘束から抜け出す。
「この街はクソだ! どのギルドも腐ってる! そんなことはあーしが一番よーくわかってる……っ!」
そこまで言って、ふたたび副官がレカを拘束する。今度は逃げられないように、手首を折る。ボキッという生々しい音が円陣の中に木霊した。
「ぐあっ!! で、でもなぁ……」
地面に倒されたレカは、口の端から砂と血の混じった泡を吹きながら言葉を発し続ける。
「あーしは、あーしは守りたいヤツがいる。タンザも、ミーチャも、ガキどもも……そしてテルもだ!」
その名を出した瞬間、ジャドワがわずかに眉を動かした。
「お前の弟分か。弟ねえ……あんなにナヨナヨした男、君が守ろうが守るまいが、簡単に死んでしまいそうだがねえ」
ジャドワは自分の兵士たちを見回す。
「うちの弟とはえらい違いだ! あいつぁ、殺したって死なない」
ぎゃはははははは、と爆笑が広がる。剣を構えていた獣人たちは、牙を剥き出して笑っていた。レカはなおもジャドワを睨み続ける。
「ガズボ、ガズボか」
レカは呟くようにその名を口にする。
「あいつ……ガズボは……大量殺人鬼だ。あーしのところにやってきたのは、冒険者ギルドの警官を五人殺して、討伐依頼を請けた暗殺ギルドに捕まった時だった」
それに対して、ジャドワは肩をすくめてみせた。
「……びっくりしたよ。あの件は。ガズボのやつは、冒険者ギルドの治安維持部隊程度では手に負えないからね。だから誰に捕まったのかと思ったら……まさかタティオン氏本人にとは。ククク、路地でエルフや貧民を食い散らかすくらい、可愛いもんじゃないか。それくらいのことでいちいち手配しちゃってさ……そのときにあいつは君に惚れたってことか。赤い瞳が覚醒した女。いかにもガズボが好みそうなやつだ」
ジャドワの声が嘲笑混じりに続く。だが、レカはもう怯まない。
「……それから、シャルトリューズは、あーしのとこに来た時、笑ってはいたけど、心ではガキみてえに泣いてた。あーしにはわかるんだ。毒で愛してた男を殺しちまって、一生誰とも触れ合えねえって絶望してさ……。だけどな、あいつだって、あーしらの仲間になって、居場所を見つけたんだ」
レカの拳が震える。ジャドワは本気でおかしそうに吹き出した。
「フッ、共依存関係というわけか。フリークスたちはお前を頼り、お前は奴らの世話をする事でやせっぽちの良心の満足を得る。だがね?」
ジャドワはレカのポニーテールを雑草でも摘み取るように掴んだ。そして引き上げる。背中に乗った猫族の副官の力が強くなり、レカの背骨が悲鳴を上げる。
「ぐ……」
「いいかい、レカちゃん。そんな良心はねえ、この腐った街、地獄みてえなこの世界で、手元にあっただけのあり合わせの感傷で拵えた、安いプライドってやつなんだよ。とっととそんなもん質にいれて、俺たちと一緒に戦場で金を稼ごうぜ」
もはや満身創痍のレカは、それでも屈服しなかった。
「ぐう……はあ、はあ、悪いけどなあ、こういう感覚をあーしは安いとは思わねえ。つーか、値段がつけられるものだとも思わねえ。質に入れていいもんじゃねえんだ……っ! もし腐って、運命に負けちまったら、どんどん底なしの堕落が待ってる……あーしたちは正しいか正しくないかじゃない、『正しくあろうとしなきゃいけない』んだよ……っ! そのためにあーしはこの街に対して無理にでも責任を背負う、背負わなきゃならねえんだ。これは、単なる汚れ仕事専門の掃除屋に過ぎねえあーしが頼るべき、最後の一線ってやつなんだよ!!」
レカの叫びに、ニヤニヤしていた周囲の獣人傭兵たちも黙った。代わりにジャドワの笑い声が上がった。
「ハハハ、そうか! そこまで勘違いしてるなら構わねえぞ! ここで俺に殺されるがいい! どうやって死にたい? 全身の骨を粉々にされて息もできない苦しみの中で死にたいか? それとも内臓をグチャグチャにされてケツと口から血を噴き出して死にたいか? 選んでいいぞ……」
ジャドワが髪を掴んでいる手に力が入る。レカは低く呟いた。
「……悪りぃが……一人で死ぬつもりはねえよ、ジャドワ」
その言葉を聞いて、ジャドワの顔からすっと笑みが落ちた。レカのポニーテールを離すと、立ち上がって背中を見せる。フーッとつまらなさそうにため息をついた。
「はあ、興が冷めたよ。遊びすぎたな。……それにしても、お前が大事に大事にしてる愛しいバケモノどもは助けに来ないのか? ガズボが助命嘆願をするなら、聞いてやってもいいが……あいつは所詮お前を餌としか……」
そこでジャドワの言葉は止まる。何かに気づいたのだ。なにやら、円陣の向こう側が騒がしい。外側を固める獣人が心配そうな声を上げた。
「おい、おまえ、大丈夫かよ」
彼らの間を通って、よろめく影が現れた。巨漢の獣人が槍を構え直す。先ほどまでの整然とした動きが、一瞬の違和感で乱れる。姿を現したのは、猫族の傭兵だった。血に濡れた制服、血まみれの毛皮に覆われた頭、砂を踏む不規則な足音。顔は項垂れていてわからない。その姿がふらふらとジャドワの方へ近づいてくる。
「おい、てめえ、口がきけねえほどの怪我なら寝てろ」
2メートルを優に超える巨体の獣人が、血なまぐさい唾を吐きながら吠えた。先ほどレカに吹っ飛ばされた仲間のはずだ。それなのに返事がない。歩みも止まらない。
「返答しやがれ、この野郎!」
別の獣人も槍を突き出す。しかし円陣を守る巨漢たちの苛立ちなど意に介さず、血まみれの兵士はよろよろと中心部へ向かって進み続ける。ただ……その足取りがどこかおかしい。猫族特有の軽やかさがない。いくら大怪我を負っているにしても……。
「おまえ……」
ジャドワは訝しむような表情で見ていたが、突然何かに気づいたようだった。
「おまえは……っ!?」
その時、よろめく兵士の姿勢が一変した。血に染まった制服の下から、獣人たちが見たことのない銀色の物体が抜き放たれた。
火種なしで撃てるそれは、ジャドワの頭部目掛けて閃光を放った。
「あーあ、疲れた疲れた」
闘技場から外へと続く通路を、ガズボの低い声が響いた。松明の炎が二つの影を壁に映し出す。巨大な獣人と、ピンクの触手の生えた長身の女性。裏切りの二人は、まるで散歩でもするかのように気楽な足取りだった。
「うーんー、今夜は色々と大変ねえ。レカちゃんも流石に逃げるとは思うけど……あーあ、カワイイ娘だったのになー」
触手族の娼婦の間延びした声が、石壁に反響する。シャルトリューズのヒタヒタという足取りと、ガズボの重厚な足音が、闘技場の外へと通じる通路に響く。巨大な獣人の眼差しは、いつものように凶暴な自信に満ち、乱暴な会話が空気を震わせる。シャルトリューズは、触手をゆらゆらと揺らしながら、どこか皮肉めいた笑みを浮かべていた。ガズボは興奮した声で言う。
「へへっ、まあいい女だったのは認めるぜ。だがこれでお目付役もいねえ。これからサイコーの日々が始まるんだ! 俺ぁあ久しぶりに生きた人間を引き裂くぜ。路地のエルフはドブネズミみてえな食生活してるからまずくてなあ……。新鮮な血の滴る肉が欲しい」
シャルトリューズが口を触手を押さえながらクスクス笑った。
「あはは、ガズボったら相変わらずグロいんだからぁ。でも、そうねえ……どうせこの街は地獄みたいになるしぃ、好きにしても全然オーケーだよねっ!」
その声には、自分の選択に対する一片の迷いも感じられなかった。むしろ、これから始まる殺戮を心待ちにしているかのようだった。ガズボも上機嫌だ。
「へへっ、レカのおばかちゃんもよお。もう少し頭が回りゃあ楽に死ねただろうに。ジャドワの兄貴は敵に容赦しねえぜ? まあ、生き残りてえならこっちに来るだろ」
「そうそう。暗殺ギルドのなんなんだかー、責任とかー? 鬱陶しかったわあ。もっと楽しく生きれればよかったのにー。ま、知らないけどー」
「ゲヒャヒャ、まあ、ここまでの命ってこったろ。少しは可愛がってやるつもりだったが……死に急いじゃ仕方ねえ。っま、責任なんてクソみてえなもんを無視して真の自由を謳歌できるのは、真の強力な捕食者のみってことよ。ギャハハ……ん?」
ガズボの笑い声が突如として途切れた。彼の闇夜でも鈍い金色に光る瞳が、闇の中に潜む違和感を捉えたのだ。通路の奥……そこから何か感じる。松明の燈はなぜか見えない。まるで漆黒の暗闇。そしてビンビンと感じる、殺気。
「んー?」
ガズボが獣人の血由来の闇を見通す目を凝らす。シャルトリューズにはわからないようだった。
「えー? ガズボぉ、気のせいじゃなーい?」
しかし、ガズボの体は違った。彼の戦場で鍛え抜かれた感覚は、すでにそれが尋常な気配ではないと告げていた。 見えた。その剣呑なオーラは、十数メートル先、佇む影から放たれていた。
「誰だぁ!」
その声があっちに届くよりも先だった。ガズボの黄色い瞳も、シャルトリューズの緑の目も、それを捉えられなかった。振り返る間もなく……。影は一瞬で二人の背後に回り込んでいた。
「なっ!?」
かろうじてガズボの反射神経が反応したのは、まるで蛇が獲物に噛みつくような一撃の軌道。だがそれは、視力で追えたわけではなく、それが彼の巨大な腹を打ち据えた直後の、残像としてのみ認識できた。それは放たれた瞬間には、全く追いきれなかった。
「ぐあっ!!」
しわがれた、しかし石でできた猛禽類の像のように固い指が、ガズボのみぞおちの神経を直撃する。まるで数万本の針を極限まで圧縮して作った鋭い鋼鉄が、心臓を貫くかのよう。その一撃は筋力とは無関係に、神経系統に直接ダメージを与えるものだった。ガズボは全身の神経が焼き切れるような激痛に襲われ、床に転がる。
「うぐぅ……げぼっ!」
胃の中身を吐き出しながら、巨体が痙攣する。一方シャルトリューズは、瞬時に全身の触手から媚薬性の毒を放出しようとした。だがその毒液は、まるで空気そのものを太鼓か銅鑼のように打って振動させた衝撃波によって、皮膚に触れる前に空中で霧散してしまう。その風圧は、触手族の感覚器官に許容範囲を超える圧力をもたらす。
「ぎゃっ」
シャルトリューズが耳を抑えて倒れ込んだ。鼻血を出しながら。
「お前の毒など、もう何十年も前から研究済みだぞ」
そう告げる声には、まるで子供を叱るような穏やかさがあった。しかし、その瞳に宿る赤い光は、暗殺者の王の存在を示していた。
「あ……ぐ……ボ……ス、ゆ、許し……」
ガズボが絞り出すように言う。全身の神経を的確に狂わされ、彼の巨体はびくんびくんと震えるばかり。まるで釣り上げられた魚のように意味のない痙攣を繰り返すだけだ。
「ゆ、ゆるちてくだちゃい……」
シャルトリューズも鼻血を押さえながら首をぶんぶんと縦に振って懇願する。「ふむ」
その影は銀色の髭を恭しく撫でてみせた。
「逃げる時はいい気なものだったが、ワシの前では随分と素直じゃないか」
タティオンはため息をつくと、ガズボの巨体に目をやった。
「ワシとしては今夜は大人しく館で様子を見ておこうと思っていたのだがな……ちょっと散歩に出てみればこれか」
松明の光に照らされた壁に、初老の暗殺者の影が伸びる。
「あの緑髪の冒険者の娘と貴族の青年は、最も賢い選択をした。冒険者ギルドに知らせても、満足な対応が取れなかっただろう。この街で現実的にすぐに動けるのはワシとあの若先生だけだ。それにしても……」
老いてなおギラギラとさっきを放つ赤い瞳が、亜人種二人を見据える。それだけで、二人は自分が捕食者などではなく、支配される側だと認識させられた。
「ワシがお前たちの上司に任じた者が窮地に立たされているというのに、逃げ出すとはな」
シャルトリューズが触手をぴくりと震わせる。
「ボ、ボスぅ……アタシたち、ただね……」
「黙れ」
その一言で、触手族の女は言葉を飲み込んだ。圧倒的強者は、冷ややかな目でシャルトリューズとガズボを順にを見下ろす。
「だが、お前たちは殺しはせん。まだ、な。自由を謳いながらも、結局はワシの支配から逃れられんということはよくわかっただろう。それに……」
初老の暗殺者は薄く笑みを浮かべた。
「お前たちにはもう少し、この街で役割があるのだ」
その言葉に、二人の体が震えた。それは恐怖というより、むしろ敗北を悟った獣たちの諦めのような震えだった。その瞬間、通路に漂う緊張感と、目の前の初老の男の支配的な存在感が、すべてを物語っていた。自由など、幻想に過ぎぬ――真の捕食者どころではない、真の暗殺者の前では。その事実を、ガズボもシャルトリューズも、痛感せざるを得なかったのだ。




