第二十五話 裏切りの代償
「はあ、はあ」
テルは息を潜め、通路の壁に背を押し付けた。震える肩、早鐘のような鼓動が全身を揺さぶっている。破れかけたシャツの背に汗が染み込んで、冷えた石壁に張り付いた。呼吸を抑えようとするたび、喉の奥が焼けつくように痛む。腰に差したリボルバーを探る指先が、鉄の冷たさに触れる。生々しい重み。それがテルに残された唯一の手段だった。
(タイミングを考えないと……)
引き金に指をかける瞬間を思い描く。銃声、閃光、そしてそのあとは……? その想像だけで呼吸がさらに乱れる気がした。そっとアリーナを覗き込む。獣人たちは規律正しく列を組み、砂を踏みしめる足取りに無駄はない。毛皮にこびりつく血と汗の匂いが遠くまで届くようで、剥き出しの殺気が肌を刺した。彼らはこの瞬間を待っていた。
(こんなの、前代未聞の規模だ。ちょっと橋を占拠したなんて話じゃないぞ……?)
顔を戻す。テルは唾を飲み込もうとしたが、乾いた喉が悲鳴を上げた。胸に押し込めた恐怖が膨らみ、呼吸を忘れそうになる。耐えきれず、大きく息を吸った。全身が強張り、指先まで冷え切っている。喉は干上がり、唾を飲み込むことすらできない。
(僕に、レカを助けられるのか?)
レカがいる。包囲の中に、たった一人で。自分がやらなければ、彼女は……おそらく死ぬ。心臓が締め付けられる。
(どうすればいい?)
テルは奥歯を噛み締めた。考えろ、考えろ……。レカの顔が浮かび、リリアの顔が浮かび、救貧院の子供達の顔が浮かんだ。守りたい人たち、そして守るべき人たち……。そしてふと、父の……ロドヴィコ・アルエイシスの顔が浮かんだ。そして次に、屋敷のある部屋に飾ってあった火打石式式の拳銃を思い出した。それを使った決闘を、若き頃のロドヴィコがしたという噂は聞いていた。テルの頭にさーっと思い出が蘇った。
(昔、一度だけ、その時のコツを聞いたことがあるっけ……)
記憶の中の父は、フリントロックを構えて、誇らしげに語っていた。
(テル、いいか。決闘とは、相手と自分の剥き出しの魂をふたつ一緒に並べて、超自然の見えざる手がそのどちらかを隠してしまうようなことなんだ。自分ではどうしようもない。いっさいがっさいを、神と呼ばれる存在に委ねることだ。私は神は信じないが、こういう考え方は好きなんだ……)
テルは自分の手に握ったリボルバー式拳銃を、弾倉を開けたり閉めたり、狙いを定めたり、引き金に指をかけたりして、感触を確かめた。
一方、アリーナの中心には、会場全員の激情の源泉があった。狂気の傭兵隊長は、台風の目のようになった円陣の中で、トボトボ歩き回りながら、何やら思案している。
「よし!」
ジャドワが黒い毛皮の生えた手をポンと打った。
「まずはあの暗殺者のねーちゃんをこの場でサクッと殺そう。仮にもタティオンに鍛えられた暗殺者だ。街中に出たら、どこからくるかわからなくて不利だからね。ふふ、この状況はおいらを殺せるチャンスだし、逃げずにむかってくるだろう……タティオンの弟子ならそうするさ」
猫族の副官が一礼する。
「了解。対能力者用陣形の出番ですね。伝えます」
彼女が片手をあげて何か指示を飛ばすと、太鼓が今までとは別のリズムで打ち鳴らされる。中心に立つジャドワの周りを、銀色の刃のハルバードや長大な両手大剣を手にした精鋭たちが取り囲んでいく。斧槍の切っ先が青白い魔光灯に照らされ、まるで獣の牙のように冷たい光を放つ。彼らの武装は尋常ではなかった。長槍、剣、そして火縄銃。まるで街にはそぐわない、戦場の軍勢のような装備が、今宵の異常を物語っていた。
まだ陣形は展開途中で、乱れがあるように見えた。
レカはそれを見逃さない。観客席の上、魔光灯を支える支柱の影に彼女はいた。鉄製のそれを蹴ると弾丸のように跳び出した。アリーナの端、観客席とを隔てる石組みを全身の筋肉を一気に弾くように蹴り、アリーナの砂地スレスレを低空で進んだ。風を切る音とともに、傭兵たちのスキマを縫って、ジャドワを目掛けて一直線に突き進む。
ジャドワはまるでその気配に気づいていないように見えたが……レカが迫るコンマ数秒、彼女は標的が身構えるのを見た。レカの拳が闇を裂くように放たれる。しかし、ジャドワは笑みを浮かべながら、その一撃を片手で受け止めた。
「おっと……さすがだな」
まるで子供の遊びをあしらうように、ジャドワは手を捻って力をいなす。レカが体勢を崩した。その瞬間を狙い、横から素早く影が跳ねる。小柄な猫族の傭兵だ。鋭いナイフがレカの脇腹を狙って一直線に伸びる。しかし、レカは即座に体をひねり、ナイフの軌道をかわした。そのまま勢いを殺さず、砂地を蹴って再び距離を取る。
「ちっ……」
猫族の傭兵が舌打ちする。他の傭兵は反応できなかったが、決してそのことであたふたしたりせず、陣形展開を続ける。その背後でジャドワが低く笑った。
「ふふ、一撃離脱戦法か。セオリー通りだな」
レカは荒い息をつきながらも、冷静に状況を把握する。力押しでは突破できない。敵の布陣と力を探り、隙を狙うしかない。だが……。
「これは……っ!」
観客席の上部に身を潜めたレカ。しばし体勢を整え、アリーナ全体を見下ろす。その赤い瞳に映るものに、思わず息を呑んだ。魔光灯の光の下、三つの円形の陣が浮かび上がっていた。それぞれの円周には、ツヴァイヘンダーやハルバードを携えた大型の獣人兵が並ぶ。2メートルの直立した猛獣のような体格がガッチリとひしめき合い、まるで生きた城壁のようだ。その内側には、火器を持つ銃兵たちが散らばる。重装備の外陣が敵を足止めしつつ、牽制射撃を加えるのだろう。さらにその中心には数名の猫族兵が潜んでいる。先ほどレカにナイフで向かってきたものたちだ。そんな円陣が、ある程度の距離を置いて三つ、アリーナの上に展開している。
(ジャドワの位置は……っ!?)
レカは意を決し、最も手薄に見える円陣の一つに奇襲を仕掛けた。低空を滑るように突進し、大型獣人兵の槍の間を縫って侵入する。一瞬の隙を突いて、ジャドワの顎に拳を叩き込んだ。
(はずした……っ!)
ジャドワは肩の肉をくいっと上げ、並みの獣人なら首がもげているはずの一撃を弾いてしまう。そしてわずかに笑みを浮かべると、すぐさま身を翻し、壁役の大柄な獣人たちの間を抜け、高速で別の円陣へと退避する。その隙間はすぐに塞がれ、レカの方に彼らの剣と斧槍が向いた。
「くっ!?」
レカは再び離脱しようと砂地を蹴るが、その瞬間、彼女の足に猫族兵たちが群がった。俊敏な動きでレカのスーツにすがり、短剣が大血管の走るふとももを狙う。
「うっ、らあっ!!」
レカは歯を食いしばり、無理矢理体をひねって一人を蹴り飛ばした。だが、もう一人が別の足にしがみつく。
(こいつら……徹底して動きを止めようとしてきやがるっ!)
レカは素早く肘を打ち下ろして頭部を叩き、ようやく振りほどく。しかし、その間にも銃兵たちが狙いを定め、銃口がこちらに向けられているのが見えた。
「ああっ!」
レカは砂を全力で蹴った。あまりの衝撃に足がビリビリするが、彼女の体は10メートルに届くほどの高さに打ち上がり、偏差射撃を意図して狙われた銃弾は、辛うじて彼女の体を掠めるにとどまった。宙返りをして勢いをつけ、陣形の外へ逃れる。着地と同時に軽やかにステップを踏み、小刻みに上下の動きをつけてアリーナの上を移動する。しかし、頬をかすめる弾丸。断続的に三つの円の中から繰り出される銃撃。次は避けられないかもしれない。額から汗が滴り落ちる。たまらず有効射程の外、アリーナと観客席を仕切る石組みに逃れる。しかし観客たちは中立の観測者ではない。彼らもまた傭兵ギルドに属する獣人たちになっていた。人間はもう一人もいない。レカの髪やスーツへと彼らの手が伸び、レカは慌てて頭を飛び越えて魔光灯に鉄塔に手をかける。
「降りてこい! クソアマ!」
「しなやかな足だねえ! 俺が欲しいぜ!」
鉄塔は高く、観客席まで5、6メートルはある。レカは眼下に群がる獣人たちを見下ろす。猫族は見当たらない。ツノのある連中がイキリ立っていて、彼らは登ってこれないだろう。息を整える。
「ふう、ふう」
ようやく一息がつける。レカは自らの血が滲む革のグローブで、頭部の傷を拭った。痛みはもはや意識の外だった。むしろ、あまりにも完璧な布陣に頭を悩ませる。このような数の敵との戦闘は、暗殺者の教義に反する。一対一で、素早く、確実に。もし敵が多数なら、最小の数だけ殺せ。それがタティオンの教えのはずだった。だが……。
「どうだい! 娘さんよお! 見事な陣形だろう? 戦場で赤い瞳の生まれのやつに無双されちまってる時は、こいつで完封するんだ!」
ジャドワの調子づいたような声。戦場でも指示を飛ばすための、狼族の遠吠えの力由来の声が、レカまで届く。
「うるせーボケ! 一対一でかかってきやがれ!」
レカも応じるが、無理な願いだとわかっている。レカは思案した。遠方から高速で突進し、内部にいる指揮官を殺す。そんな彼女のやり方は、完全に対策されているようだ。ジャドワは、三つの円陣の中を、まるで高速で身を翻す魚が泳ぐように、自在に動き回っていた。その赤い瞳に宿る光は、レカのそれと同質の超人的な力を示している。
「ホラホラ! おいらを殺せるタイミングはここしかないよー! またきなよー!」
挑発的な言葉に、レカは答えない。彼女は息を整えながら、僅かな隙を探っていた。しかし三つの円陣の壁はどれも分厚く形作られ、その内側にいる銃兵の銃撃は正確。そして中心には鋭いナイフを持つ猫族の刺客たちが、獲物を待ち構えるように潜んでいる。
「ったく、厄介な宴会だぜ……」
チャンスを伺って通路の窪みに隠れていたテルは、信じられないものを見たような思いで飛び出し、咄嗟に声をかけた。
「ガズボさん! シャルトリューズさん! ど、どこへ行くんですか!?」
通路をその巨大な影が横切った時、テルはわけがわからなかった。二つの巨体は、まるで散歩から家まで帰りますとでもいったふうな、あまりにもリラックスした無造作な様子だった。この通路は闘技場の外へと通じている。ここから去るつもりなのは明らかだった。
「あ、あの……」
言葉もないテルに向けて、ガズボの獰猛な笑みと、シャルトリューズのだらりとした触手が向いた。
「あー! レカちゃんのフィアンセだ。かーわいそ。こんなところに隠れちゃって。怖かった?」
「ああん? 坊主じゃねえか。まだ逃げてなかったのか」
テルは困惑も露わに聞き返す。
「に、逃げるって、そんなことするわけないじゃないですか! あそこでレカが……レカが戦ってる!」
ガズボは憮然とした気のない表情でぼーっとアリーナの方を見た後、テルを見て言った。
「そうだねえ。ガハハ、逃げればいいのになあ」
ガズボが唾を撒き散らしながら嗤う。基本的には無表情ではあるが、その目は血走り、狂乱の宴に酔いしれているようだった。
(この人、正気なのか?)
テルはこの巨漢が恐ろしくなり、もう一人の背の高いピンクの女性に目をやる。シャルトリューズは頭の触手をゆらゆらさせていたが、助けたいけどねえ、と、口にして、続けた。
「私の毒をばら撒けば多数相手なら有利だろうけどねえ。でも、レカちゃんどころか他の傭兵まで巻き込むことになるしぃ、ギルド同士でバチバチやりすぎちゃうからねえ。そんなの怖いわあ。ウチはここで退かせてもらうからねー」
そして体になよっとしたしなを作り、肩をすくめて見せる。テルは唖然とする。なんて適当な言い訳なのか。ガズボにせよシャルトリューズにせよ、この亜人種二人は別々の方向で狂っていてクズだ。そういう考えが心の中いっぱいに膨れ上がった。唖然とした思いで目の前の、自分よりずっと背が高い二人に話しかける。
「で、でも! お二人はレカの部下なら、レカの考えもわかるでしょう!? レカはこの街の平和を守る責任を感じて戦ってるんですよ! 今ここでジャドワを止めなかったら、この街は始まって以来の大きな混乱を経験することに……そこで死ぬのは決まって弱者で……」
ペッと音がした。テルの足元に巨大な唾が飛んできた。
「黙れクソガキ」
唾を吐き捨てたガズボは、彼からすれば幼児のように小さなテルを威嚇するような目線で見下ろしたあと、ニヤリと歪んだ笑みを見せる。
「カッハハ! なにが責任だよ! 馬鹿らしい……。姐御も所詮ギルドの犬じゃねえか。最後は一人で死ぬしかねえ、この街の社会から弾かれた野良犬よ。たまたま首輪がついてるだけだ。そんな首輪のために死ぬのか? っけ、バカだぜ。勘違いしてるってんだよ」
シャルトリューズも笑う。心底から楽しそうに。
「あはは、責任なんかウチ、しーらないっ。そーゆーむつかちーコトバ、わっかんないなー」
二つのニヤニヤ笑いへと、テルの当惑したような声が投げかけられる。
「……もし仮にこれで、レカが敗北したとして、あなたたちが殺されない保証はありますか?」
ガズボがニヤけ顔を崩さず言った。
「俺は殺されねーよ」
シャルトリューズもクスクス笑って、
「ウチもそう……こんな珍しい触手族ちゃんを、殺すわけないでしょ?」
それを聞き、テルは気づいた。
(そうか、この人たちが舐めてるのは、レカでもなくギルドでもなく敵でもなく、自分たちの人生なんだ……)
そう、気づいてしまった。クズ。その二文字が思い浮かぶ。だがそんなことは大した意味はなかった。目の前の存在が、聖人だろうがクズだろうが、やることは変わらない。言葉による説得……。自分と、愛しのレカ姉の命がかかった説得だけが、この状況を打開できそうだった。
記憶の中の父の声がこだまする。
(他の者をみんなマリオネットだと思え、テル)
ちがう!! そんな心持ちじゃあ、人の心は動かせない! 権力や金、お前がマリオネットだと思ってる人間たちは、そういうくだらない糸で縛られているだけだ! その糸があって初めて操れるんだ! ここで、ここで、この二人の心を動かすには、どうすればいい!?
……テルは、本気で考えていた。自分の無力さを、呪う。レカを自力で救えない自分を、呪う。人を操る、ではない。人を動かす。無理だ、やったことなんかない。地位と権力と金で動かすのなら貴族ならいくらでもやるのだろう。しかしテルはそれすら拒否して絵を描くアトリエに篭ってしまった人間だ。手から汗が滴りそうなくらい、湿っている。それを握りしめる。にちゃったとした感覚を、無理矢理に握りつぶし、覚悟を、決める。
ガズボがぶっきらぼうに
「あーあ、レカの姐御もここまでか」
そっぽ向きながら、つまらなげに言った。
「いい女になると思ったんだがなあ」
シャルトリューズも口を押さえて笑う。
「ふふ、残念ねえ。骨くらいもらえればウチは満足なんだけど……」
二人の前に、テルが立つ。亜人種二人は、つまらなそうにしていたのが、少し、注意を向けるようになったくらいには、テルの気持ちの変化に気づいたようだった。
「あなたたち……」
また二人が、示し合わせたようにニヤニヤし始める。
「なあにぃ? おねーさん、ショタはタイプじゃないわぁ」
「フーっ」
テルは長く息を吐く。そして考えるのだ。
(確かにこの街は絡み合った結び目みたいだ。みんながその中で苦しんでいる。解き放ちたいし、なるべく早くそうしなきゃいけないとも思うけど、解決策なんか見つからない。でも、復讐心に駆られて反乱を起こし、絡み合った全ての糸を雑に断ち切るのは、違う、違うんだ……今は、ジャドワによる獣人の反乱を止めることに、一切迷いはない。獣人も、人間も、他の亜人種も、この街のシステムにうんざりしてるのは確かだけど、やり方が違うんだ)
「……ガズボさん」
大型獣人の太い眉がピクッと反応する。テルの呼びかけにはどこか敬意に欠ける印象を感じたのだ。これから褒め言葉は続かない。ガズボはそう確信した。
「ガズボさん、あなたは弱いものいじめが大好きな……あなたはそういう生き物だ。あなたは羊をその断末魔の最後の一片まで愛してるかもしれないけど、羊の側では恐怖と憎しみでいっぱいなんだ」
ガズボはそんな挑発には乗らない。ニヤニヤして分厚い手をひらひらさせた。
「あーあー、わかったわかった。俺はオメーみてえなハナタレガキとは話なんかしねー。残念だったな」
傍のシャルトリューズがバカにしたようにクスクス笑った。しかしテルは引き下がらない。
「ガズボさん。死にゆく僕に教えてくれませんか? レカ姉は……あなたにとってなんだったのか……?」
「んー?」
ガズボが顎を鋭い爪でぼりぼりかいてみせる。考えている時の癖らしい。今の質問には少なくとも誠実に答えようとしているようだ。訊き方がよかったのかもしれない。
(へりくだられると気持ちよく答えられるタイプ……?)
テルはそう判断した。ガズボがようやく唸りながら答えた。
「んー、レカの姐御は……うざってえクソメスガキかなあ」
「クソ……ガキ……?」
テルは繰り返す。なるべく話を合わせるための努力だが、ちょっと言い方が下品すぎてお上品な貴族のテルには難しかった。愛しのレカ姉に対する侮蔑としてもあんまりだと思った。だが……。
(冷静さを保つんだ、でなきゃ……)
ガズボは話を続ける。
「……暗殺ギルドに捕らえられ、昼はここで闘技場戦士、用があれば非公式の暗殺者としてこき使われてる俺だが、それもこれもジャドワ以外で……初めて俺を組み伏せられたタティオンのジジイやレカの姐御に敬意を表するがゆえさ。俺はこんな人間だから、敬意を表するにしてもハンパなもんだが……だがまあ、あの女のリーダーごっこに付き合ってやったんだからいいだろって。まあまあ楽しかったわ」
ガズボはそこまで言うと、黙る。テルと目が合う。じっと、視線がぶつかり合う。シャルトリューズは期待に緑色の目を輝かせた。少年の死に様が見たかったのだ。
「ガズボさん」
テルが言った。
「面従腹背ってやつですか。やっとレカから解放されて、嬉しいんじゃないですか?」
ガズボはそれを聞いて、グヒャヒャと笑った。
「おうよ、わかってるガキだなあ。だが一つ残念なのは、寝首をかくのは俺であって欲しかったってことかな? もういいけどよお。相手がジャドワじゃ、しょうがねえ。姐御は俺が殺す、なんて、こだわるほどのことでもねえわな。あの生意気な体を抱えて、内臓が口から飛び出るまできつく抱きしめてやりたかったが……。俺と本気で戦える女なんて、この世には姐御ただ一人だったからなあ。もったいないと思ってるのは本心だぜえ? まあいっつも鬱陶しかったからただ単にいなくなってもせいせいするがな」
「鬱陶しいって……」
テルが漏らしたセリフに、ガズボがうなずく。
「あのアマ、俺が殺しをする時、やたら注文つけてきやがる。苦しませるなだの無関係なものは殺すなだの……鬱陶しいったらありゃしねえぜ」
「なるほど……ですねえ」
ガズボはこういう話をきちんと聞いてくれる人は初めてで、だんだんとヒートアップしたようだ。もう一人で長々喋り始めてしまう。
「女かー! 女と暮らすのもいいもんだ。俺の想像する理想の生活ってのはなあ、気に入らねえ奴をぶっ殺して、適当な女を犯して、そんで家に帰ったら最愛の女がいて、今日もいっぱい頑張ったねって、褒めてくれるような生活のことよ! そして翌朝目が覚める。そこにはもう最愛の女はいない。その骨だけが転がっている。そして、ああ、美味しかったなあって、究極の満足を感じてまた餌を探しにいくのよ」
テルはじっくりとガズボの様子を探る。
「言語化、いい感じですね」
テルの皮肉にも聞こえる褒め言葉に、ガズボは気をよくしたようだった。
「グヒャヒャ! なかなか気に入ってきたぜ! テル坊だったか? 年長者をヨイショするための口がうまいガキは、出世できるぜえ? っま、今夜で街ごと終わりだろうけど」
亜人種二人分の笑いが暗い通路にこだました。テルは唇を噛んで、シャツの胸の部分を握って汗を拭いた。金糸が刺繍されたシャツはもうボロボロで汚れていて、すぐにでも貧民街で乞食を始められそうだった。
(僕は……貴族だ)
その自認がテルのアイデンティティにおいてどのような核になっているのか。それは彼自身にもわからない。なにせ、家の仕事を学ばずに絵を描いたり救貧院に援助をしたりしている変わり者なのだ。貴族としての自分が積立貯金だとするなら、彼はこれまでの人生で、親から継いだ分しか貯金がない。彼は自分の貴族の口座に、一円たりとも入金してこなかった。だから、そうすることにどれだけ価値があるのか自信はなかったが……、
テルは石の床に両手をついた。まるで使者が王に平伏するように、うやうやしく。亜人種二人はその光景を見て、興味津々だった。目を丸くしてテルが頭を通路に擦り付けるのを見ていた。テルは石の通路の床のカビ臭さを感じながら、精一杯の声で言った。
「お願いです……レカを助けてください!」
テルは必死に頭を下げる。汗と砂が額に滲む。だが、返ってきたのはこれだった。
「ぎゃははははははははははは!」
テルの縮こまった背中に、巨大な亜人種二人分の爆笑が滝のように浴びせかけられた
「ギャハハハッ! おいおい、俺たちは自由になったんだぜ? あの女に縛られる義理なんざねえんだよ」
「そーそー、これからは好き勝手に生きるんだもんねえ。ふふ、貴族様がこの街最底辺の亜人種に頭下げてるのウケるー」
ガズボがくさい唾を撒き散らしながら笑い、シャルトリューズもくねくねと触手を揺らしながら嘲った。その口調はいつものように間延びしているが、どこか冷ややかだった。
「レカを助けてください!」
頭を上げることなく、もう一度テルの声が震える。目頭が熱くなる。しかしガズボは肩をすくめるだけだった。
「レカか。あいつもボスに飼われた犬だ。俺たちも半分はそうさ。でもよ、鎖がこの街ごとブチ切れて、火がついた犬小屋から出られるってんなら、誰が戻るかって話だろ」
シャルトリューズはうんうんと頷く。
「レカちゃん、かわいそうな子……ついに最後まで自分の心の鎖を切ることができなかったのね……」
ガズボはあろうことか、テルの小さな背中にその巨大な足を乗せた。
「おい、ガキぃ。おまえら、お高くとまってた貴族坊ちゃんには分かんねえだろうがな。俺たちゃ誰にも縛られず、好きに暴れて死ぬのが夢だったんだよ」
踏みにじられても、テルは何も言い返さない。ガズボの声が振動になって伝わる。
「確かにジャドワの兄貴が反乱を起こす気持ちもわかるぜ。俺たちの書類上の持ち主のあのデブジジイも殺しちまったしな。だがまあそんなことはいいのよ」
ガズボは足を退けると、大きな手でテルの肩をむんずとつかみ、引き上げた。その力にテルは体がちぎれそうになり、うっと声を上げた。
「だからま、なんだ。おまえも逃げろ。お前の大事なフィアンセも、結局は逃げるって。うんうん、だいじょぶだいじょぶ」
そんなテキトーな言葉も、テルの精神を削るだけだ。ガズボはテルの体を優しく放し、通路に降ろしてやった。シャツの埃をぽんぽん叩いてやったが、加減がわからないようで、テルは頭がグラグラした。
「レカの姐御も、もう終わりだろ。ジャドワに勝てるわけねえんだからよ」
テルの脳裏に、血にまみれて戦うレカの姿が浮かんだ。幼い頃、アトリエで一緒に絵を描きながら笑っていた、あの無邪気な少女の面影とはかけ離れている。だが、それでも彼女は、ただ誰かに命じられたからではなく、自分の信じるものを守るために戦っているのだと、テルは確信していた。
「むしろ、坊や、君が生き残って、レカちゃんのことを忘れずにいてあげれば、それで充分なんじゃない? っなーんてね! アハハ」
テルはかぶりを振った。そんなのは違う。レカがここで死ぬことを前提に、自分だけが生き残るなんて考えられない。彼女はテルにとって、ただの幼馴染ではなく、憧れであり、誇りであり、時には母親代わりでもあった。彼女を失うことは、自分の半身を失うも同然だった。
「僕は! レカを助ける!!」
自分でも驚くほど大きな声だった。拳を握りしめる。腰に差した銃がずしりと重い。
「レカは、僕の大切な人だ! 僕に死ねって言うなら、レカと一緒に死ぬ! 一緒じゃなきゃ意味がないんだ!」
叫びながら、テルは初めて自分の中にある恐怖と向き合った。怖い。死ぬかもしれない。だが、それ以上に、レカを失うことが怖かった。
「僕は……僕はもう逃げない! レカを助ける! 誰にも頼らなくていい……僕がやる!!」
言葉と同時に、テルの足が自然と前に出た。銃を握る手が汗で滑る。しかし、その冷たい金属の感触は、テルに今、自分が一人ではなく、レカと繋がっていることを思い出させた。ガズボとシャルトリューズが一瞬目を丸くした。しかしすぐにまた嗤う。
「ほほぉ〜、坊やが男になったってわけかよ。でもな、銃一丁でどうにかなるほど甘かねえぞ?」
「そうそう、でもまあ、テルきゅんがどうしてもって言うなら、頑張ってみればぁ?」
シャルトリューズは笑いながらも、その瞳の奥には一瞬だけ、寂しげな色が宿っていた。だが、テルにはそれを読み取る余裕はなかった。
二人はそのままテルを置いて去っていった。重い足音と、触手が擦れる音が遠ざかる。テルはその場に膝をつき、震える手で銃を握りしめた。
(僕が……僕がやらなくちゃ……!)
レカが一人で戦っている。ジャドワに包囲され、追い詰められている。誰も助けに来ない。頼れる者はいない。
……だったら、自分が。
テルは立ち上がり、震える脚で通路をアリーナの方へ進んだ。銃の重みが、今は妙に頼もしく感じられた。
(行くんだ……レカを助けるんだ!)
砂煙が再び渦を巻く中、テルはアリーナに向かって走り出した。ふと、通路の出口付近、もう少し冷静さを失っていたら気付かない位置に、猫族の傭兵の死体があった。テルはついそちらに青い瞳の視線を投げかける。本来意味がないもので……しかし傭兵の死体を見慣れないからか、彼は目を止めたのだ。テルはその特徴を見てとる。レカがここまで吹き飛ばしたものか、壁に衝突して首が折れて絶命しているようだ。その服や装備は獣人の中では小柄な猫族のもので、手にはいまだにきらめくナイフが握られていた。




