第二十三話 転機
魔光灯が、闘技場全体に青白い光をうち込む。もうすっかり夜は更けているが、アリーナに浴びせられる歓声はますます力を増す。遠方真っ黒な天の柱として浮かび上がる大時計塔は文字盤を輝かせ、まるで監視する巨大な目を備えているようだ。この街では誰もその監視からは逃れられない。しかし街の運命そのものを象徴するかのようなその巨大な影は、ここ貧民街の闘技場では、あまり目立たない。今はそう、獣人たちの時間だった。
「ふん」
観客席の上部、張り出した貴賓席で、ガシャンと音がした。そして間髪入れずに、申し訳ありません、という女の声がした。高みの見物を決め込む貴賓席では、先ほどの件ですっかり気分を害した様子のオーナーが、無言でエルフの女奴隷の尻を蹴り飛ばしたのだった。果物を乗せたテーブルに彼女は突っ込み、哀れにも鼻血を出しながら、散らばったそれを片付ける。
眼下の観客席はそんな鬱屈した空気とは対照的に、真夏の太陽すら圧倒するくらい熱い温度を持った感情に満たされていた。毛皮に覆われた無数の体が、観客席にびっしりと詰め込まれ、言葉にもならない叫びをアリーナへ向けてぶつけている。生々しい昂ぶりだった。ガズボのものだけではない獣臭が砂地のアリーナにまで充満し、レカの鋭敏な嗅覚を刺激する。赤く光る瞳には力が込められ、普段とは違う環境に圧倒されないように気を張っていた。
「ハッハァ! いくぜ、姐御!」
獣臭。ガズボの口から獣じみた吐息が漏れる。その巨体が地面を蹴る。その重量からは想像もつかない跳躍に、アリーナから砂煙が上がる。レカは紙一重の距離で躱しながら、相手の呼吸を読み取る。獣人の荒い息遣い、肉体の震え、そこに秘められた何か。全てが、彼女の意識を研ぎ澄ませていく。
「ラァっ!」
ガズボの拳が空を切る。その一撃は、人の胴を真っ二つにできるほどの破壊力を秘めている。しかしレカには、その動きが完全に読めていた。互いにダンスを踊るような、レカとガズボの動きが、光と影の境界を行き来する。非人間的なまでの筋力を発揮できる、二人の超人の闘いは、ただ攻撃の応酬をすること自体が派手なパフォーマンスだ。革のスーツが虚空を切り裂く音を立て、レカの瞳に宿る赤い魔力がアリーナを染める。幼い頃、タティオンから叩き込まれた暗殺術は、この異常な戦いの中でも彼女の体に完璧に染み付いていた。
「オラァ!」
風を切るガズボの拳を、レカは舞うように回避する。二撃、三撃、すべてを宙に舞う薄衣のように回避する。回転する視界の中で、レカは冷静に周りを観察していた。
(やはりおかしい……)
観客席の異様な熱狂、貴賓席の不吉な静寂、そして地下から伝わる微かな振動――全てが、彼女の戦士の本能を刺激していた。
(何があっても対応できるようにしねーと……)
「いただき!」
鈍い音がした。レカがガズボの拳で吹き飛ばされる。しかし彼女はすぐにすたっとアリーナの砂地に着地し、勢いを殺す。
「ペッ」
彼女の口から唇より赤いものが吐き出される。ガズボの拳を両手で防いだ時、あえて歯で挟んだ頬の肉から、衝撃で出血するように仕組んだことだった。レカの口から血が垂れ、それがさらに観客を興奮させた。猫族の女が観客席の手すりに跨って激しく身体を揺さぶりながら叫んだ。
「ガズボさまぁぁ! 私を殺して食べてええ!! 腕も足も内臓も全部あげるからああ!!」
女たちの歓声を聞いたガズボは、分厚い筋肉を見せつけるように、腕を広げてポーズをとった。うわっと歓声が上がるー暗殺ギルドの侵入者を成敗する闘技場のチャンピオン。この場を支配する主役。そのほかの登場人物は、血に酔う観衆の雄叫びだけだ。ガズボは陶酔するように観客席を見上げながら呟く。
「浅ましいねえ。この歓声が俺は大好きなんだ。俺に食われる弱者たちでも、こうやって群れで騒いでる時だけは、なんだか俺でも勝てねえような存在になってる気がする。敬虔な気持ちってやつさ」
すると、レカが一気に間合いを詰めてきた。まるで黒い影に金と赤の魔光の灯が添えられたような、そんな残光が観客は見えた。ワッと観客が驚く声が上がる。レカがガズボの顎を狙って蹴りを放ち、彼は難なくそれを太い腕で受け止める。
「へっへ、あんたの本気の半分程度の速度か。さっきのはうやっぱ効いてなかったか。俺の拳から受けるダメージをコントロールしてるたぁ……傷つくねえ。そんなに俺のパンチはのろいかい?」
レカはそれには答えず、すぐに蹴り足を戻して空中で一回転し、ガズボの石臼のように太い首にしがみつく。レカの胴体ほどもあるそれを締めようとするが、うまくいかない。ガズボは技が極まっているふりをしてもがいて見せる。
「アァ! やっぱ強え! 力や加速ならジャドワの方がはるかにあるが……あんたは動きが読めねえな!」
「ボスの技術だ」
レカが耳打ちする。
「ガズボ、オメーがこの闘技場を大切にしているのはわかった」
ガズボはニヤッと笑う。背後に回ったレカの腕を掴み、逃げられないようにしながら。
「聞こえてたか……ああ、そうさ! ここの生活はサイコーだぜ! 好きに殺しができて、好きにエサが食える! これぞ、真の男の生き方だぜ! 肉食種族の王者として振る舞うこと! つまり、自らが生まれ持った欲求に従い、男は殺し、女は犯す! これが男の本当の喜びだ! ソレを認められないやつは、度胸もない雑魚……グフっ!?」
ガズボのテーブルのように広い背中にレカの膝蹴りが入った。
「調子に乗るんじゃねえよタコ助……ッ!」
レカがガズボの耳元で唸るような声を上げた。大型獣人の針のような髪が白い頬にチクチク刺さった。
「ガズボ、てめえ……さっきのことといい……暗殺ギルドにも世話になりながらこんなところで殺しの力をもてあそびやがって!」
レカは丸太のように太い首をギリギリと締め上げる。流石のガズボも苦しいらしく、喉の辺りで組まれたレカの手を外そうとするが、暗殺者用スーツの中で彼女の筋肉が鋼のように固まり、大型獣人である彼の力でも外せそうにない。レカはさらに叱責する。
「ボス・タティオンはおめーを討伐する時、使えそうだったから生かしたんだ! ここで言え! オメーは獣人とあーしら、どっちの味方なんだ!」
ガズボの口がニターっと歪んだ。背後のレカからは直接見えなかったが、その悪魔的なドス黒い感情は、頭皮から獣臭として立ち上る。腐ったような体臭となってレカの鼻に刺激を与えた。
「俺はどっちの味方でもねえよ、姐御」
「なにぃ?」ガズボはグフフと笑った。その声には底知れない狂気が潜んでいた。レカは締め上げる力を強くしたが、笑いは止まらない。むしろ苦しくなるほど、その笑みは広がっていく。
「なあ、レカの姐御。貧民街での暮らしが長いあんたなら、本当はわかってんだろ? 獣人なんてクソさ。人間どもに淘汰されるべき劣等人種に過ぎねえ」
レカは身体強化の光を宿すその赤い目に困惑の表情を浮かべた。相手の言葉が、これまでの獣人としての自分を誇る態度とあまりにも異なっていた。
「はあ? 何言ってんだ? オメーも獣人だろうが。オメーも淘汰されるのか?」
次のセリフには、狂気とともに、どこか取り返しのつかない哀しみが混じっていた。
「街がどうなろうと、俺だけが生き残る。俺は別格だからな。しかしそのためにはあのヤローをぶち殺さねえと。それが証明できねえ。クックック。姐御、その前にあんたを殺すことができりゃあ、いい景気づけになるぜ」
レカは僅かに手の力を緩めた。この獣人の狂気が、少しずつ輪郭を持ち始めるのを感じる。それは単なる凶暴性ではない。もっと深い、根源的な闇だった。
「さっきからわけわかんねえことを……」
ガズボの目が狂気に満ちて光った。その瞳の奥には、人としての理性が完全に失われていた闇があった。先ほどのティトゥレーとの戦いで見せた嗜虐的な悦びではない。どこか泣いているような自暴自棄な暗がりが、ぼうっと広がっていた。
「ウラぁ!!」
ガズボが全力で首を大きく振った。レカの力が緩むのを待っていたのだ。
「くっ!?」
レカはガズボの背中から振り落とされ、アリーナの端の方へ飛ばされた。無論、超人的な身体能力を持つ彼女にとってはそんなことではダメージにならない。空中で下半身を大きく回転させて勢いをコントロールすると、観客席の間の仕切りを足場に衝撃を両足で吸収する。観客席の石組みがダンと大きな音を立て、観客が歓声を上げた。
「今度の獲物は元気だなあ!」
「ジャドワ隊長と同じ瞳の光が!?」
「なあに、ガズボが押してるじゃねえか!」
みんな口々に勝手なことをくち走りながら、日々の労働で傷だらけになった手を握りしめて突き上げる。どの拳も、刃物を使った喧嘩でついた深い切創、鍛冶場で焼けた鉄を扱って火傷で剥がれた毛皮、港湾の貨物でハサまれてちぎれた指、そもそも腱が切れてにぎれないなど、何らかの大きな傷を抱えている。ガズボはそんな仲間の拳を見て、ニヤッと笑う。
「ッケ、楽なもんだぜ、男なんてのぁヨォ。やりきれねえ思いも、拳に込めれば力に変わる。だが空虚な力……空虚な力だった。今までは。そして今夜、それは血に変わるだろう」
レカは眉をひそめた。相手の本質が、ようやく見えてきた気がした。それは制御不能な暴力の化身。
「やっぱり何か知ってやがるな、ガズボ。よくもまあ秘密にしてくれたもんだぜ。ったく……そりゃてめえみてえに責任を負わねえやつは楽だろーよ」
ガズボは血走った目でレカを見つめながら、薄く笑った。その表情には、かつての従者としての敬意は微塵も残っていない。
「ッケ、俺は暗殺ギルドに対して何の責任も負ってねえ。あんたが仕事で助けが必要な時に呼び出されれば応じる。タティオンのジジイと結んだ約定はそれだけだ。なのにオメーさんは無駄に俺に対して責任感じやがって……今日もこうしてそのせいで面倒なことになってやがる。なあ、あんたは気にしすぎだぜぇ? 姐御ぉ……今だって逃げちまえばいいのによ……」
レカは肩をすくめ、静かに答えた。声は冷静を装っているが、背筋には嫌な汗が伝っていた。
「……興行にチャチャ入れたのはあーしだしな。筋は通すさ。それに今夜はどうも……」
レカは周囲を警戒しながら、アリーナの床を見つめた。何かがおかしい。なにかが……。
「……やっぱ気づいていたか」
ガズボの声が低く響いた。その口調には、待ち焦がれた瞬間を迎えた者の昂揚がまじっていた。
「え?」
レカが聞き返した瞬間、ガズボの巨体が獣のように跳躍する。その動きは、これまでの手加減が嘘だったかのような凄まじい速さだった。しかしそれはレカとは反対方向、まるで危険から逃れるような……。レカの体が意識で考えるより早く宙を舞う。床下から不吉な轟音が響き始める。
(なんだ!? なにかまずい!)
レカが本能で危険を察知したと同時に、声が聞こえた。
「レカ! 大砲が……」
遠くから響いた声に、空中に飛んだレカの意識が止まる。心臓が大きく跳ねる音が、胸の中で鳴り響いた。アリーナの喧噪が、一瞬だけ遠のいていく。その声に込められた必死の想いが、彼女の心を揺さぶる。
(テル……!?)
その瞬間、地響きのような轟音がアリーナを揺るがした。アリーナの下から噴き上がる砂煙が、視界を真っ白に染める。その中で、レカは確かな予感を掴んでいた。……この夜、この街の全てが変わると。




