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マリオネットとスティレット  作者: 北條カズマレ
二章 貧民街の便利屋さん
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十三 書類には書類で

 ルゥリィが前に出た。魔女の帽子をキュッと上げると、意志の強そうな緑の目があらわになる。ジャドワがクククと笑う。


「夕陽の中で見ると本当、冒険者にしておくにはもったいないよねえ。どう? 暗殺ギルドの娼館よりもうちの方が……」


「傭兵ギルドの方々。書類を拝見します」


 穏やかな声がジャドワの下卑たセリフを遮った。ルゥリィの足取りには迷いがなく、救貧院の門前までまっすぐに歩いてきた。ジャドワの前に立つ。書記官は動揺しているようで、ルゥリィの言う通りに書類を広げる。彼女はそこに目を落とす。


「ふむ。強制募兵許可証。戦時特例条項。……確かに、評議会の正規文書ですね」


 ルゥリィは一拍置いて、自らの徽章を掲げた。金色の金槌級冒険者の徽章。その隣に、もう一枚の書類を添えた。


「冒険者ギルド発行の市民保護権限証です。ギルド非所属の未成年者を強制的な徴用から保護する権限を有します。この権限は戦時特例条項に優先します」


 傭兵たちの顔が強張った。犬の耳が倒れはしないまでもしなって傾き、お互いに顔を見合わせる。ジャドワだけが微笑を崩さなかった。


「ほうほう、書類には書類か。これはまた、お行儀の良い対応だこと……」


「法を法で上書きするのは、暴力よりも確実です」


 ルゥリィの声に震えはなかった。紙一枚を盾に、傭兵ギルドの総隊長に正面から立ちはだかる。


「この子たちは私たちが保護します。書類はこちらで預かります」


 ルゥリィが強制募兵許可証を受け取った。ジャドワは抵抗しなかった。肩をすくめて、両手を広げてみせた。降参のポーズ。


「ククク、あなたもよくご存知のはずだ」


 ジャドワは降参の形を崩さないまま、退屈そうに語り始めた。


「誰もが栄光を掴めるわけではない。街へ来てあなたの冒険者ギルドの入団試験に落ち、3ヶ月もすれば我々の募兵所で手付金を受け取り、生涯の四分の三を街の外の戦場で過ごすハメになる……その結果があの反乱だよ」


 ルゥリィは答えなかった。ジャドワはさらに続ける。


「他者への暴力は、貧困という病がもたらす症状の一つだよ。貧困が解決できない以上、暴力を振るえる機会に振るうのは合理的な判断だ。泣きたくなるくらいの境遇で暴力を我慢するもんじゃないからね」


 それに反論したのは、意外にもリリアだった。


「違います!」


 声が門の内側から飛んだ。その場の誰もが、一番若い人間の少女を見た。レカは驚いたようにこの腹違いの妹を見る。リリアの薄い青い瞳に涙は浮かんでいなかった。代わりにあったのは、あかぎれた手を拳に握った、裸の怒りだった。


 ジャドワの赤い瞳がリリアに向いた。口元の微笑がほんの一瞬だけ薄れた……それはほとんど誰にも気づかれない変化だったが、レカの強化された知覚はそれを捉えた。


 しかしリリアの言葉はそこで途切れた。


 傭兵の一人が、空気を読めずにジャドワへ近づいた。若い虎の獣人だった。


「隊長、地図の件ですが……」


 パキュ!


 ジャドワの拳が、その顎を打ち抜いた。


 一瞬のことだった。レカですら、その強化された反射神経と動体視力ですら捉えられない一撃。ルゥリィが後ずさる。若い傭兵が石畳に崩れ落ちた。ジャドワは倒れた部下の首根っこを片手で掴み上げた。二百キロ近い体重の獣人を、片腕で持ち上げる筋力。気を失った部下の体を肩に担ぐと、ジャドワは路地の出口に向かって歩き始めた。


「じゃあね、みなさん。今回は引き下がるよ」


 その背中が、ルゥリィの前で止まった。振り返らなかった。声だけが、路地の石壁に反射して響いた。


「冒険者ギルドはずいぶん高邁な理想を掲げておいでだ」


「全ての種族の面倒を見るつもりかい?」


 ルゥリィは答えなかった。金色の髪の下の長い耳が、微かに震えた。


「だが獣人には獣人の……暴力の流儀がある。知っているだろう? エルフの冒険者よ」


 ジャドワは歩き去った。残りの傭兵と書記官が、慌ててその後を追った。軍靴の音が路地から消えていく。




     *




 リリアがルゥリィに駆け寄った。


 子供たちも門から溢れ出てきた。エルフの女の子がリリアのエプロンにしがみつき、人間の少年がその後ろに隠れた。リリアの目には涙が浮かんでいた。恐怖が解けた後の涙だった。


「ありがとうございます……ありがとう……」


 ルゥリィが屈んで子供たちの肩に手を置いた。


「大丈夫よ。もう大丈夫」


 小さな声だった。しかしその声には、紙一枚で傭兵ギルドの総隊長を退けた女と同じ芯があり、そして優しさがあった。


 リリアがルゥリィの手を取った。初対面の二人だった。しかしリリアの涙の顔と、ルゥリィの穏やかな微笑の間に、言葉以前の何かが通った。弱者を守ろうとする意志を共有する者同士の、最初の接触だった。


「あの、冒険者さん、お名前は……」


「ルゥリィです。金槌級冒険者です」


「高位の冒険者さん!」


 リリアは炊事仕事であかぎれた両手でルゥリィのグローブの手を取った。


「ルゥリィさん……ありがとうございます。私はリリアと申します。この救貧院の……」


「知っています。エリオンさんからよく聞いています。この街で一番大事な場所だって」


 リリアの瞳が丸くなった。「エリオンさんが、そんなことを……」。ルゥリィが微笑んだ。リリアもつられて笑った。涙を拭いながら、くしゃくしゃの顔で。


 レカは子供たちを救貧院の建物の方へ誘導していた。


「ささ、お姉さんたちはお話ししてるからよぉー、さっさと入ろうぜ。タンザ! ちっちゃい子を見てくれ!」


 タンザの猫耳がぴくんと動いた。年長とはいえまだ十二の少年だが、レカの声に反応してすぐに年少組をまとめ始める。子供たちがぞろぞろと中庭から建物に入っていく。レカはその背中を見送りながら、門の方を横目で見た。リリアとルゥリィが手を握り合って話している。


 最後のひとりが建物に消えたところで、レカは門に戻りかけた。


 ルゥリィがそこにいた。


 リリアと話しながら、しかし緑の瞳は門の内側を探していた。レカの姿を見つけた瞬間、ルゥリィの足が一歩踏み出す。門をくぐり、救貧院の敷地に入ってきた。


「レカさん」


 呼びかけられた。逃げそこねた。レカは背を向けたまま、足を止めた。


「……なんだよ」


「エリオンさんからの情報でジャドワがこの地区に出入りしていることは掴んでいたの。でも……まさか救貧院を直接狙うとは思わなかった」


 ルゥリィの声が低くなった。


「あの男は……あなたがここにいることを知っていて、この場所を選んだのかもしれない」


 レカの体が固まった。


 あーしがいたから。


 あーしが救貧院に通っていたから、ジャドワに嗅ぎつけられた。この場所を危険に晒したのは、あーし自身だ。懐のペンダントが脈打つように重くなる。触れるものを壊す手。近づく場所を汚す存在。


「……そうかよ」


 掠れた声だった。喉の奥が詰まっている。


「あなたが先にいてくれたから、私が間に合ったの」


 ルゥリィの声には責める色がなかった。それが逆に堪えた。


「門を開けて、リリアさんより先に前に出てくれたから。あの局面であなたが突っ立っていてくれたから、ジャドワの注意があなたに向いていた。その間に私たちが到着できた」


 突っ立っていた。その通りだった。突っ立って、何もできなかっただけだ。書類を前に短剣の柄を握って、手を出せず、足も動かせず、ただ門の前で立ちすくんでいた。それを「いてくれた」と言い換えるのは、この女の優しさだ。事実ではない。


「エリオンさんが目指すこの街の理想は、まだ全然実現できていなくて……」


 ルゥリィがさらに踏み込んできた。声は真剣だった。嘘がなかった。リリアの笑顔と同じだ。裏がない。計算がない。ただ本気でこちらを必要としている目。


「あなたのような人が、冒険者ギルドと協力してくれたら……」


 レカは振り返らなかった。


「あーしははぐれものの愚連隊だよ」


 声だけで応じた。乾いた声だった。


「あんたはギルドの後ろ盾でどうぞ活躍してくれ」


 壁に手をかけた。煤けた煙突の出っ張りを二つ蹴って、体を持ち上げる。ルゥリィが何か言いかけた気配がしたが、レカの体はすでに屋根の上にあった。暗殺者の手際。音も立てず、振り返りもせず。


 逃げた。


 逃げたのだと、自分でわかっていた。




     *




 瓦の上に座った。


 夕陽が街の屋根を赤く塗り潰していた。遠くで大時計塔の鐘が鳴っている。


 門前では、リリアとルゥリィの話し声がまだ続いていた。ルゥリィが門の外に戻り、リリアと並んで立っている。レカは聴覚の強化を切るべきだった。切れなかった。ジャドワがまだ戻ってくるかもしれないと、体が警戒を解かなかった。だからリリアの声が、聞こえてしまった。


「ルゥリィさん。……あの方がいてくださったから、私、あの局面で立ちはだかることができたんです」


 リリアの声は静かだった。ルゥリィは頷く。


「レカさんですね」


 リリアは大きく頷いた。


「門を開けて、私より先に前に出て……あの恐ろしい人たちの前に立ってくれました。私が出てきたときも、ずっとそばにいてくれて」


「さすがですね」


「レカさまは……暗殺ギルドの正規の構成員じゃないけど……」


 リリアの声がふるえた。涙ではなかった。こみ上げてくるものを懸命に言葉にしようとする震えだった。


「私、レカさまのこと、本当の姉さんみたいだと思ってるんです」


 屋根の上で、レカの呼吸が止まった。


「レカさまと血のつながりはないけれど……」


 聞くべきではなかった。聴覚の強化を恨んだ。もっと集中を切って、風の音に紛れさせればよかった。しかし体がそうしなかった。リリアの声を最後まで拾ってしまった。一音も残さず。


「私にはお姉さんがいなくて。レカさまが巡回のたびにここに寄ってくれるようになって、子供たちと遊んでくれたり、怖い人を追い払ってくれたり……今日だって!」


 リリアの声は門前の夕陽の中に溶けていくように穏やかだった。


「たぶんレカさまは怒ると思うんです、こんなこと言ったら。『あーしはそんなんじゃねえ』って」


 ルゥリィが小さく笑った。リリアも笑った。


「でも——そう思ってるんです。ずっと」


 胸の奥で何かが軋んだ。懐のペンダントが、心臓に押し当てられたように重くなる。


「おとうさん、はやくかえってきてね」


 あの文字と、リリアの言葉が、同じ場所で重なった。


 姉。


 あーしが。


 人を殺す手で子供の頭を撫で、血のにおいが染みついた革スーツのまま救貧院の門をくぐり、ジャドワの前で短剣の柄を握って動けなかった、あーしが。


(リリア、リリア、ああ、リリア。オメーは何も知らねーんだな)


 リリアが慕う「姉」は、誰かの「父」を殺した手を持っている。リリアはそれを知らない。知ったら、同じ顔で笑えるだろうか。同じ声で「姉さん」と呼べるだろうか。


 門の脇で、小さな影が動いた。


 スリの少年だった。犬の耳を伏せたまま、門から出てきて、屋根の上のレカを見上げている。何も言わない。ただ、ぺこりと頭を下げた。


 レカは息を吐いた。


「おい」


 少年が顔を上げた。


「今度、娼館街のどん詰まりの酒場にこい。あーしの仲間がいる。スリなんかしなくて済むようにするからよ」


 少年は何も答えなかった。もう一度頭を下げて、路地の闇に走り去った。小さな背中が角を曲がって消える。


 リリアが屋根を見上げた。夕陽に照らされた涙の跡が光っている。


「レカさま、ありがとうございます」


「あーしは何もしてねえよ」


 事実だった。何もしなかった。何もできなかった。リリアが体を張り、ルゥリィが書類で解決し、エリオンが情報を掴んで警邏隊を動かした。レカは門の前に立って、短剣の柄を握って、動けなかっただけだ。


 リリアの声。ルゥリィの言葉。子供たちの目。スリの少年の、無言の一礼。全部が、全部が、あーしには重すぎる。


 姉と呼ばれ、感謝され、必要とされている。しかし正体を知れば——あーしが何をしてきたかを知れば——誰もそんな顔はしない。


 ペンダントを引き出して、開いた。夕陽に照らされた金属の内側に、稚拙な文字が刻まれている。殺した男の子供が、帰りを待っていた。帰ってこない父親を。


(本当の姉さんみたいだと思ってるんです)


(おとうさん、はやくかえってきてね)


 二つの言葉が同じ重さで、胸の底に沈んでいく。


 ペンダントを閉じた。革のスーツの裏、胸のところに押し込んだ。瓦の上で膝を抱えた。書類一枚に負けた無力も、ジャドワの赤い瞳も、ルゥリィに助けられた事実も、あーしがいたから救貧院が狙われたという真実も——今はどうでもよかった。リリアの言葉だけが、どこにも逃げ場のない重さで、胸の底に沈んでいた。


 あーしが姉で。


 あーしが暗殺者で。


 その二つは同じ体の中にある。同じ手の中にある。リリアの頭を撫でる手と、獣人隊長の喉を潰した手は、同じ手だ。


 夕陽がさらに沈んでいく。赤い光が橙に、橙が紫に変わっていく。屋根の上で、レカは動かなかった。夕陽が沈みきるまで。

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