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01 人魚姫



 アタシの名前は芋山五利男。

 ……いいえ、アタシの名前はキャサリン!

 今日は愛しの彼と初デートなの! もうウッキウキよ!


 五利男――いや、キャサリンはうっとりとした顔で、白い丸テーブルに肘をついて両頬に手のひらを当てていた。

 ピンクを基調とした室内。とても男の部屋とは思えない。まるで、そう、幼い少女が暮らしているような部屋。

 柔らかな照明の中、キャサリンは「愛しの彼」の姿を思い浮かべては、ニタアッと笑っていた。


 ああ、待ち遠しいわ!

 時間がこんなに長く感じることってそうそうないわね!

 あら、いやだわ、アタシったら。レースが編み途中じゃない!

 これは今日、彼にプレゼントしようと思ってるの。

 彼、喜んでくれるかしら……。

 にしても、レースってまるでアタシみたいね。

 真っ白で、繊細で……アタシの心のようだわ。

 これを見れば、彼はいつでもアタシのことを思い出してくれるはず!


 キャサリンはまたちまちまとレースを編み始めた。

 完成間近となっているレースは、その太い指から生み出されたものとは思えない繊細さだった。


 そう、今日はキャサリンにとって初デートの日だった。

 これまで彼を散々追いかけ回してきたキャサリン。その想いがついに実ったかと思われるような日だ。

 これにはキャサリンも有頂天で、初めてデートに誘ってくれた彼の、そのときの目を思い出すと、キャサリンはたまらない気持ちになる。

 あの目は、自分を愛してると言っているような目だった――キャサリンはそう思っていた。


 ふう、やっとレースが編み終わったわ!

 出来は上々! これまでにない完成度よ! これもアタシの愛の為せる技ね!

 グフ、グフフ……今日はどんな服を着ていこうかしら。

 タイトなドレス? ……いや、これはアタシらしくないわね。

 アタシは少女……ふわっふわなワンピースがいつだって勝負服よ!


 キャサリンはレースをテーブルに置いて、クローゼットへと向かった。

 クローゼットの中には、たくさんのロリータワンピースがかけてあった。

 どれにしようかしら……、と悩むキャサリン。

 悩むこと十五分。キャサリンが選んだのは、これまでに買ってきたワンピースの中でもいっとうお気に入りで、薔薇の花がふんだんにあしらわれたふわっふわのワンピースだった。

 ついでにヘッドドレスも手に取って、キャサリンはドレッサーの前へと向かった。


 今日は勝負の日。愛しい彼の前では、最っ高にかわいいアタシでいたいじゃない!

 メイクだって気合を入れてしなきゃね!


 無駄に高いデパートコスメばかりが並んでいるドレッサーの前で、キャサリンは化粧を始める。

 まずは下地で顔の毛穴やニキビを消す作業から。動画サイトで散々研究した結果、キャサリンの肌は男とは思えないほど、真っ白でつるつるで、まるで白い陶器のような見た目になった。首と色が違いすぎていて、顔だけが浮いている。しかし、キャサリンはそれに気づかない。

 お人形さんのようなメイクがいつものキャサリンのスタイルだった。アイシャドウはキラキラのラメが入ったものを、いつもより五割増しで塗りたくり、アイラインは太めに、そして垂れ目に見えるように。涙袋もしっかり作る。

 睫毛はバサバサにしたいから、マスカラをしたあとにさらにつけ睫毛を上下につける。

 眉毛は目に平行なのが、キャサリンのお気に入りだ。ちょっと太めがいい。しかし、元々の眉毛が濃いのもあって、完成した顔はあからさまに不自然だったが、キャサリンはご満悦だった。


 グフフ、メイクも完璧だわ!

 アタシって、まるで生きるお人形さんね!

 これで、このワンピースを着てヘッドドレスをつければ……ああ! なんて愛らしいの!

 もう、アタシ自身、アタシの美貌が恐ろしいくらいよ!


 キャサリンはいそいそと着替えを始めた。ゴリゴリのマッチョ体型のキャサリンに、そのワンピースはあまりにも不似合いだったが、キャサリンはこれが一番自分に似合うと思っている。

 ワンピースを着て、ヘッドドレスを頭につける。伸ばしている栗色に染めた髪はバサバサに痛んでいた。前髪はぱっつんだ。面長で頬骨が目立つキャサリンにぱっつん前髪はあまりにも似合わない。しかし、お人形さんといえばぱっつん前髪だとキャサリンは思っていた。

 コテで髪の毛を巻くキャサリン。ゆるふわになるかと思ったが、バサバサのせいか髪の毛はチリチリになっただけで、すっかり身支度を整えたキャサリンはとてもお人形さんには見えないのだった。

 それも当然である。キャサリンは身長が百八十センチを超えているゴリゴリのマッチョなのだから。

 しかし、全身鏡で自分の姿を見たキャサリンは、鏡に映る己の姿に惚れ惚れとしていた。


 ああ、アタシったら、どうしてこんなにかわいいのかしら!

 白を基調とした薔薇のワンピースに、ピンクのリボンがたっくさんのヘッドドレス。

 アタシが着るために作られたと言っても過言じゃないわね!

 この服もヘッドドレスも、アタシに着てもらえて幸せだわ!

 これなら、彼もきっと喜んでくれるはず。

 「かわいいね」って、きっと言ってくれるに違いないわ!


 そう、キャサリンには己の本当の姿が見えていないのだった。

 キャサリンの目に映っている自分は、愛らしくて繊細なお人形さん。

 実に平和……というよりかは、お花畑な思考の持ち主だったのである。


 あら、やだわ。もうこんな時間。

 レースを鞄にしまって……あーん! 鞄をどれにするか決めてなかったわ!

 ええっと……このファッションに似合う鞄は……これね!


 キャサリンが選んだのは、大きなリボンのついた白い鞄だった。

 それに編んだレースとメイク用品、ハンカチにティッシュ、財布にスマホを入れれば準備は万端だ。


 さあ、行くわよ~!

 今日という記念すべき日! 最高に楽しまなくっちゃ!


 キャサリンは意気揚々と家を出た。

 キャサリンの家は新宿二丁目にある。新宿といえば、ゲイが多いことで有名な場所だ。ここを歩く男の中には、キャサリンのような男がいてもおかしくはないのかもしれない。

 道行く人たちがキャサリンを見て振り返る。キャサリンはその視線に、いたく満足していた。


 フフフ、みんながアタシを見てるわ。

 それもそうよね。アタシは新宿二丁目の華なんだから!

 アタシの働いているゲイバーでも、アタシは人気者!(実際にはさほど人気ではない)

 アタシのこの愛らしい姿に誰もがメロメロだわ!


 キャサリンはまるで気づいていないのだった。

 自分が珍奇なものを見るような目で見られていることに。

 そう、このキャサリン、思い込みが激しすぎるのである。

 この世における事象のすべてを、自分のいいように捉える傾向があるのだった。


 やだわ、アタシったら、楽しみすぎてちょっと早くに来ちゃったわね。

 でも、もう待ちきれないわ!

 早くあの人の顔が見たいの! これはもう迎えに行くしかないわ!

 アタシを見たら、あの人、なんて言うかしら。

 早くこのかわいいアタシを見てほしくって、うずうずしちゃう~!

 さっそく彼の家へレッツゴーよ!


 キャサリンは待ち合わせに指定されていた場所から、彼の家へと向けて歩き出した。その足取りは軽く、スキップ状態だ。

 ロリータファッションのでかいゴリゴリマッチョがスキップをしている光景は、まさに珍百景の一つだった。

 スキップすること二十分。彼の家の前に辿り着いたキャサリンは、迷いなくインターホンを押す。

 出てきた男は、キャサリンを見るなり死んだ目をした。


「グフフ、待ちきれなくって、来ちゃった!」

「ああ、そうか……お前はそういうやつだったな……」


 男の声は掠れていて、金色に脱色した長い髪にはツヤがなく、顔もげっそりとしている。


「雄大くん、準備はオーケー? アタシはいつでも行けるわよ!」

「俺も行けるよ……。じゃあ、行くか……」


 彼――立石雄大は、よろよろとした足取りで、小さな鞄を持つと玄関から出た。

 それをそばで見ているキャサリンは満面の笑顔だ。

 立石は事前にレンタカーを借りていたのか、車に乗り込んだ。キャサリンも助手席に乗り込む。


 さあ、いよいよデートの始まりね!

 でも、ドライブデートだなんて、なんて素敵なの!

 アタシのために車まで用意してくれて……雄大くんの愛はちゃんとアタシに伝わってるわ!


「雄大くん! 今日は目一杯楽しみましょ!」

「ああ、うん……」


 死んだ魚の目をしている立石は、車を走らせ始めた。


 一体どこへ連れて行ってくれるのかしら? もうアタシ、楽しみで仕方ないわ!

 でも、このドキドキ感もまたデートの醍醐味よね。

 雄大くんがどうやってアタシをエスコートしてくれるのか……。

 ああ! アタシの王子様! 金色の髪に日に焼けた褐色の肌が眩しいわ!

 アタシは、今日はあなただけのプリンセス……。

 あーん! もうアタシ、雄大くんのことしか見えないわ!

 あなたとなら、地獄まで一緒に行けるわよ!


 爛々としているキャサリン。憂鬱そうな顔をしている立石。

 二人を乗せた車は、やがて東京を抜けた。


 このときのキャサリンは、まだ知る由もなかった。

 これから向かう先を。これから何が起こるのかを。

 初心な乙女のような気持ちで、キャサリンの胸には期待が膨らむばかりだった。

 これから襲い来る悲劇を、毛ほども想像していないまま――


 キャサリンと立石を乗せた車は高速に乗った。

 この思いもよらぬ遠出に、キャサリンの期待は膨らむばかりだった。

 ハンドルを握る立石の表情は死んでいたが、キャサリンの目には、立石がこれからどうやって自分をエスコートしてくれるかを考えているようにしか見えていなかった。


 ああ、車を走らせるその横顔……。

 なんて素敵なの!

 高い鼻に切れ長の目……まさに理想の王子様だわ!

 この先、アタシどうなっちゃうのかしら。

 にしても、やたらと遠くへ行くのね。

 そんなにアタシと二人きりになりたいのかしら。

 もうっ! 雄大くんったら!

 そうならそうと、もっと早く言ってくれればよかったのに!

 アタシ、あなたのためならいくらでも時間作るわよ!


 キャサリンは上機嫌だった。立石が自分に好意を抱いていると信じて疑っていなかったのである。

 車は緩やかなカーブを曲がり、どんどん東京から離れていく。

 地理に疎いキャサリンには、どこへ向かっているのか皆目見当がつかなかった。

 しかし、それもまたキャサリンを喜ばせるだけだった。

 自分の知らない土地で愛しの彼と二人きり……まるで非日常のようだと、今日という日は間違いなく特別な日になると確信していた。


 車に乗り込んでから、もう何時間経ったかわからない。

 二人の間に会話はなかった。けれど、キャサリンにはそれでよかった。

 自分との初デートに、立石が緊張して喋れなくなっているだけだと思っていたのである。


 グフフ、雄大くんってば、緊張しいなのね。無言になんてなっちゃって。

 でも、いいの。これから、知らない場所で二人きり。

 いくらでも会話ができちゃうんだから。

 アタシを焦らすなんて、雄大くんもやるじゃない。

 乙女心の扱いが上手なのね。

 どこに行くのかはわからないけど……アタシ、そこへ着いたらいくらでも愛を囁いてあげちゃうんだから!


 キャサリンはちらりとサイドミラーを見る。

 そこには、厚化粧のゴリゴリマッチョが映っていただけだったが、キャサリンの目には新しいおもちゃを買い与えられた愛くるしい少女の顔に見えていた。


 やがて、車が停まった。

 辿り着いたのは、崖の切り立つ海の見える場所だった。


「わあ! 海じゃない! アタシ、海って大好きなの! 綺麗よね、海!」


 キャサリンは歓声をあげる。

 だが、荒々しい波は崖に押し寄せては飛沫を上げていて、とてもロマンチックな風景とはいえなかった。

 それでも、キャサリンのトキメキは最高潮だった。

 初デートに海! これほど素敵なことがあるのかしら! そんな気分でいた。


「ねえ、雄大くん……」


 キャサリンは立石に近寄って、隣に並ぶ。


 今よね、今なのよね!?

 この手をぎゅってするのは、今に違いないのよね!?

 もうっ! 雄大くんったら! こういうシチュエーションでは、何も言わずにそっと乙女を抱き締めて、耳元で愛を囁くべきじゃない!

 ……ああ、そうよね。緊張してるのよね。

 それに、雄大くんってちょっと不器用な人だから。

 そんなところもス・テ・キ!


 キャサリンはおずおずと手を立石へと近づけて、その手を握ろうとした。

 しかし、指先が立石の手に触れた瞬間、立石はバッとキャサリンの手を振り払った。


 えっ?

 どうして?

 ああ、そうね、いきなりこんなことしちゃあ、びっくりさせちゃうわよね。

 アタシも大概緊張してるんだわ。いつもなら、男の扱いを間違えることなんてないのに。


「ご、ごめんなさい、雄大くん……アタシ、ちょっと緊張してるみたいで」


 キャサリンが言うと、立石はキッとキャサリンを睨みつけた。

 そして、大声で叫んだ。


「もう、勘弁してくれ!」


 びくりとするキャサリン。

 何を言われたかわからず、おろおろとしているキャサリンに、立石はまくしたてる。


「キモいんだよ、お前! 俺がお前のせいで、どれだけ苦しんでるかわかんねえのか!?」


 く、苦しんでる?

 何を言ってるの? 雄大くん。

 ……ああ、そうね! 恋って時に苦しいものだものね。

 アタシってば、恋に盲目すぎて配慮が足りなかったわ。

 でも、苦しいのは、アタシも一緒……。

 雄大くんのことを思うだけで、胸が苦しくなるんだもの……!


「苦しいのは、アタシもよ。アタシ、雄大くんのこと、本当に……」

「それがキモいって言ってんだよ!」

「えっ?」

「お前のせいで、俺は、俺は……!」


 立石が両手で髪の毛を掻き毟った。

 何やら想像と違うことにようやく気づいたキャサリンは、この状況が理解できずにいた。


「お前のストーカー行為には、もううんざりなんだ! 俺は精神が参っちまった! 今後もお前に付き纏われる人生かと思うと、俺は……!」

「す、ストーカーだなんて、そんな……」

「じゃあ、なんで俺の家知ってるんだよ! 俺とお前にどんな接点があったんだよ!」

「だって、初めて出会った日、雄大くん、アタシのこと見てくれたじゃない! アタシは、そこで雄大くんとアタシが出会ったのは運命だって、そう思って……!」


 キャサリンと立石が出会ったのは、今から半年前のことだった。

 ふらりとゲイバーを友人たちと訪れた立石の相手をしたキャサリンは、一目見た瞬間に立石に恋をした。

 ゲイバーに来るような人なのだから、立石も当然そっちの気がある人だと思っていた。

 だが、実際には、立石は単純にオカマと言われる人種をひやかしにきただけだったのである。


「俺はゲイでもオカマでもねえ! お前が俺にストーカーするせいで、好きだった女にも逃げられちまった! 本当に好きな女だったのに!」

「そんな……雄大くんの運命の人はアタシでしょ!?」

「ふざけんな! 毎日手紙やら自撮り写真やらをポストに入れやがって! 誰に需要があるんだよ! 少なくとも俺にはねえよ!」

「あ、アタシは、いつでも最高にかわいいアタシを雄大くんに見てもらいたかっただけよ! 手紙だって、毎日愛を込めて……」

「全部、全部ウザいんだよ! キモいんだよ! ただのオカマ野郎ならなんとも思わねえが、ストーカー野郎は別の話だ! お前、俺の職場にも来やがったよな!」


 そう、たしかにキャサリンは立石の職場を訪れたことがあった。

 愛情を込めて作ったお弁当を持って。

 きっと立石は喜んでくれるだろうと信じて。


「あの時、俺がどれだけ周りに嫌な目で見られたと思ってんだ! 弁当なんか捨てちまったよ! 他にも、俺の行く先々で現れやがって! 友達は嫌がって離れていく一方で、俺はどんどん一人になった! この俺の苦しみがお前にわかるか!?」

「そんな、そんなの、雄大くんにはアタシがいるじゃない!」

「それが嫌なんだよ! わかれよ! ああ、もう、うんざりだ! こんな人生!」


 立石の目には涙が浮かんでいた。


 キャサリンは、タチの悪いことに、無自覚なストーキング行為を立石にしていたのだった。

 立石の行く先々に現れ、家も職場も特定して、愛の行為(と信じてやまない)を繰り返していたのだった。

 立石はすっかりノイローゼになっていた。

 そう――自殺を考えるほどに。


「もうお前なんかの顔を見るのはうんざりだ! お前に追いかけ回される人生なんてやめてやる! これが俺にできる、お前に対する精一杯の復讐だ!」


 そう叫ぶと、立石は崖の方へと走り出した。

 キャサリンの目には、それがスローモーションのように見えた。


 雄大くん……。

 アタシのこと、そんな風に思ってたの……?

 アタシ、ただアナタが好きで、全部よかれと思ってやってたことなのに……。

 雄大くんに、いつでもアタシのことを思っていてほしくて、ただ、その一心で……。


 …………。


 待って、雄大くん、何をするつもり?

 人生を、やめる?

 そんなの、そんなの……!


「ダメよ、雄大くんっ! ダメ~~~ッ!!!!!」


 キャサリンは立石を追って走り出した。

 立石の身体が崖から飛び、海へと落ちていく。

 キャサリンもまた崖から飛び降りて、立石の身体をガシッと掴んだ。

 そして、持ち前の怪力で立石の身体を崖の上へと放り投げた。


 だが、キャサリンは落ちていく。

 荒波の中へ。暗い海へと。


 ああ、アタシって本当馬鹿ね……。

 でも、雄大くん、アタシ、あなたが生きてくれるなら、それでいいの。

 あなたがそんな風に思ってたなんて、知りもしなかったわ。

 ごめんなさい、ごめんなさい……。


 落ちていくキャサリンの目に、崖から身を乗り出して、目を大きく見開いている立石の顔が映る。

 その顔に微笑みかけるキャサリン。


 どんなにあなたに嫌われても、アタシ、最後まであなたを愛してるわ……。

 さよなら、雄大くん。アタシのいない世界で、きっと元気に生きてちょうだい。


 ああ、アタシって人魚姫だったのね……。

 このまま泡となって、海に溶けていくんだわ……。

 アタシ、いつまでも雄大くんのこと、見守ってるから……。


 ザパーンと音がして、キャサリンは海に沈んだ。


 ああ、レースだけでも、渡したかったわ……。

 雄大くん、これはアタシのわがままだけど、どうかアタシのこと、忘れないで……。


 キャサリンは波に飲まれて、どんどん沈んでいく。

 もう空も見えない。息もできない。

 キャサリンは上へと手を伸ばした。その手が立石に届くことは、もうない。

 それでも、キャサリンの目に映ったのは、自分に手を差し伸べる立石の幻だった。


 キャサリンはゆっくりと目を閉じる。

 今後いつまでも、立石が幸せに生きていけるようにと、そう願いながら。


 こうして、キャサリン――芋山五利男の人生は幕を閉じた。


 ああ、来世があるとしたら、今度こそ好きな人と幸せになりたいわ……。


 最後にキャサリンが願ったのは、そんなことだった。



 ふとキャサリンが目を覚ますと、そこは真っ白な空間だった。どこを見ても真っ白で、壁があるのかどうかすらわからない。


 ここは……?

 もしかして、ここが天国なの……?


 キャサリンはきょろきょろと辺りを見回す。けれど、何もなかった。


 何よ、天国って殺風景なところね。

 アタシ、これからこんな場所で過ごすことになるのかしら。

 東京の人並みが、雄大くんのことが恋しいわ。

 まったく、天国ってところはもっといい場所だと思ってたのに。


 その時、低くしゃがれた声が響き渡った。


「五利男よ……芋山五利男よ……」


 だが、キャサリンは返事をしなかった。

 声はたしかに聞こえているはずなのに、相変わらず辺りを見ている。


「芋山五利男よ……」


 また声が聞こえた。それでもキャサリンは返事をしない。


「これ! お前じゃ、お前! 芋山五利男、四十一歳!」


 そのとき、頭上にぽうっと光が浮かんだ。

 そして、光の中から現れたのは、白いたっぷりとした口髭をはやし、白い衣服に身を包んだ老人の姿だった。


「聞こえておるじゃろう、芋山五利男! 返事をせんか!」

「へっ? もしかして、アタシのこと?」

「お前以外に誰がおる!」

「何よ、芋山五利男なんてダッサい名前! アタシの名前はキャサリンよ!」

「キャサ……!? んんっ、ごほんっ。まあ、よい。キャサリンよ」


 キャサリンは老人を見上げる。その姿はよぼよぼしていて、威厳は少しも感じられない。


「アンタ誰よ」

「儂は神じゃ」

「神? じゃあ、ここってやっぱり天国なの?」

「天国ではない。まあ、言うなれば現世と天国の境界にある場所、じゃのう」


 神はそう言って口髭を撫でた。

 そんな神を、キャサリンは訝しげに見る。


 いきなり出てきて、神って何よ?

 この、いかにもボケてそうな爺さんが神ですって?

 なんだかこれからの天国ライフが不安だわ。

 大丈夫かしら、アタシ……。


 神はまた咳払いをすると、厳かに言った。


「現世でのお前の姿を儂は見ておった。愛する者のために命を投げ打った……そんなお前の姿に、儂はいたく感動したのじゃ」

「そんなの、当然じゃない。愛しい人のためなら、この命なんて捨てても惜しくなんてないわよ」

「うむ、お前のその姿勢には感服するぞ。そこで、じゃ。儂はお前を今度こそ幸せにしてやりたいと思ったのじゃよ。非業の死を遂げたお前を、今度こそ幸せに……」


 アタシを、今度こそ幸せに?

 それってどういうことなのかしら……。


 キャサリンが首を捻っていると、神は続けて言った。


「お前の願う通りの人生を与えようと言っておるのじゃ」

「アタシの、願う通りの人生、ですって……?」

「そうじゃ。言うなれば、転生ってやつじゃのう……」


 転生……。

 そんなの、漫画やアニメの中だけの話だと思ってたわ。

 現実にも存在するのね、そんなこと。


「それで、どうしてくれるって言うのよ」

「ふむ、そうじゃのう。まずは生まれたい時代を聞きたいのじゃが」

「生まれたい時代なんて、具体的に言えって言われても困るわよ。アタシは根っからの都会っ子よ」

「ふうむ……。たしかに、東京は便利な場所じゃ。でも、文明の利器がないからこそ、楽しいことだってあるかもしれんぞ。お前はたしか、ふりふりの女装趣味じゃったな。それなら、中世なんてどうじゃ? お前の好きなふりふりのドレス姿の人間がたくさんおるぞ」


 ふりふりのドレスがたくさん……?

 何よ、それ。とっても魅力的じゃない!


「いいわね! じゃあ、時代は中世でお願いするわ!」

「決まりじゃな。次は、地位についてなんじゃが……中世といえば王政が基本なのじゃが、お前はどんな立場の人間に生まれ変わりたいのかのう」

「そりゃあもう、えらい人に決まってるじゃない! えらくって立派で、誰にでも敬われる人間になりたいわ!」

「ならば、王族の人間として生まれ変わらせてやろう。それで、肝心の見た目についてなんじゃが……」


 見た目、ねえ……。

 そりゃあもう、かわいくって美しくって、髪の毛なんかサラッサラで、誰もが振り向くような見た目がいいわ!


「最っ高に美しくしてちょうだい! 美しいんだけど、かわいさもあって、目が大きくて、まるでお人形さんみたいで……そうね、髪の毛なんかは淡いピンクがいいわね。生きるお人形さんにしてちょうだい!」

「ふむ、わかったぞ。絶世の美貌を持った人間に転生させればいいのじゃな。安心せい、これでもかってくらい美しくしてやろうではないか」

「髪の毛はロングで頼むわよ!」

「ロングヘアーじゃな、了解したぞ。肌の色はどうするのじゃ?」

「そりゃあもう、雪のように白い肌がいいわ! ああ、そうそう。睫毛はバッサバサでお願いね! 身体つきも華奢な感じで!」

「注文が多いのう……まあよい。その通りにしてやろう。ええと、まとめると、時代は中世で、王族で、絶世の美貌を持った人間にすればいいのじゃな?」

「そうね! 頼んだわよ!」

「合点承知じゃ。ちゃんとその通りにしてやろう。ふぉっふぉっふぉ!」


 このボケてそうな爺さんに、本当にそんなことが……アタシを転生させることができるのかしら?

 でも、疑ってても仕方ないわよね。

 だってアタシ、もう死んじゃってるわけだし。

 来世……って言っていいのかわからないけど、次の人生のおおまかな設定を自分で考えられるっていうのはなかなか便利なシステムね。

 最後はつらかったけど……。でも、次の人生があるなら、そこで最高に幸せになってみせるわ!


 あ、そういえば……。


「ねえ、爺さん」

「神様と呼べ、神様と」

「アンタ、神様って感じじゃないのよ。いいでしょ、呼び方なんて」

「失礼というか、礼儀のなっとらんやつじゃのう。それで、なんじゃ?」

「あの人は、アタシが愛したあの人は、ちゃんと今も生きてるんでしょうね?」

「ああ、あやつか」


 神はまた咳払いをした。

 唾が喉につまったのか、盛大に咽せていた。

 なんだか頼りない神だわ……、とキャサリンは思った。


「あやつなら、ちゃんと生きておるぞ。安心せい」

「よかった……。これであの人が死んじゃってたら、アタシ、なんのために死んだのかわからなくなっちゃうところだったわ」

「今でもあやつのことを思っておるのか、お前は」

「そりゃあそうよ。だって、アタシが愛した人だもの」


 キャサリンが言うと、神はまた「ふうむ」と考え込んだ。

 が、やがてキャサリンを見ると、少し調子のいい声で言った。


「ならば、次のお前の人生には、お前好みのとびっきり魅力的な人間を用意してやろう。そやつはお前のことを本心から愛しているという設定でな。どうじゃ?」

「最高じゃない! アタシ、今度こそ幸せになれるってわけね!」

「そういうことじゃ。せいぜい恋だ愛だを楽しむがよい」


 アタシのことを愛してくれる、アタシ好みの子猫ちゃん!

 そんな人がいる人生……あーん! 薔薇色だわ!

 今度こそ、あたしは少女になって、最高に幸せな人生を送ってやるんだから!


「さて、ごり……いや、キャサリンよ。そろそろ準備はいいかのう?」

「えっ? もう転生始まっちゃうの?」

「思い立ったがなんとやらというじゃろう。それに、赤子から始まるのじゃからな、お前の次の人生は。長い人生になるぞ」

「それもそうね……。アタシ、なんだかワクワクしてきちゃったわ!」

「ふぉっふぉっふぉ! それでいいのじゃよ。では、行くがよい、キャサリンよ。新しい人生は、あの白い光の先にあるぞ。儂はいつでもお前を天から見守っておるからな」

「オーケー! じゃあ、行ってくるわね!」


 キャサリンは、神が杖で示した白い光の方へと歩き出した。


 この先に、アタシの新しい人生が待ってるのね……!

 どんな人生になるか、楽しみで仕方ないわ!

 もう誰にもゴリラなんて呼ばせない、アタシは美貌のプリンセスになるんだから!

 どんな男もアタシのものよ! 手玉にとっちゃうんだから!


 さあ、行くわよ~!

 アタシの楽園……アタシの世界へ!


 キャサリンは光の中へと入る。

 眩い光がキャサリンを包み込み、キャサリンはそっと目を閉じた。

 これから迎えることとなる、新たな人生に期待を膨らませながら。


 雄大くんと別れなきゃいけなかったのは悲しかったけど……。

 でも、つらいことの後にはいいこともあるものね!

 もう、彼のことも吹っ切らなきゃ!

 だって、新しい人生で、アタシはきっと新しい恋をするんだから!


 閉じた瞼の裏まで染みるほどの光が辺りを包む。

 最後にキャサリンが聞いたのは、楽しげに笑う神の声だった。



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