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妻と夫

アイスティー

作者:


 三十年以上、仕事を頑張ってきた。


 結婚後も仕事を続けていた妻が妊娠した時、仕事を辞めて欲しいと言ったのは俺だ。


「家で支えて欲しいんだ。その分稼いでくるから」


 妊娠七ケ月まで働いて、妻は退職した。


 息子が生まれてから俺はより高い給料を求めて転職し、身を粉にして働いた。元々営業マンとして実績のあった俺だ、新しい会社でもメキメキと頭角を表しトップセールスマンとして稼げるようになった。

 妻を、子を養わなければならないんだ。そのためには接待も必要だし、飲みの席でしか生まれない会話というものもある。ゴルフ、麻雀などにも顔を出し、休日などないも同然。

 たまに空いた祝日などは、疲れて泥のように眠るだけ。最初はどこかへ連れて行って欲しいと言っていた妻も、次第に何も言わなくなり、息子と二人で出掛けるようになっていった。


 

 俺は、若い頃は美形だった、と思う。自分ではそう思わないが、周りからの評価は高かったのだ。そのせいか、『俺に相応しい女でないと側に置くのは恥ずかしい』と思っていた。


 そんな頃出会ったのが妻だ。楚々とした控えめな美しさが俺の目を惹いた。私が私がと前に出てこない淑やかさ。俺の話をニコニコと聞いてくれる心地良さ。この子となら、いい家庭を築いていける。そう思ったんだ。


 二十六才で死ぬなんて変な占いを聞いてしまったせいで遅くなってしまったが、無事に二十七才を迎えてから俺たちは結婚した。(早く結婚して妻を未亡人にしたくなかったのだ)



 俺たちは上手くいっていたと思う。俺は仕事、妻は家事と育児。完璧な役割分担だ。もちろん、時代がそうだったからというのもある。今だったら、俺のような夫は大炎上するだろう。


 だが、妻を働かせることなく家を手に入れ、子供を大学に行かせ、無事社会人となるまで育て上げたんだ。俺は十分に父親としての務めを果たしたと自負している。


 妻はいつも微笑んで暮らしていた。穏やかで、本当にいい妻だ。彼女と結婚して本当に良かった。


 そういえば、一度だけ妻が声を荒げたことがあったな。


 あれは、会社の女の子に手袋をプレゼントした時だ。俺の営業事務として常にサポートしてくれていたその子には常日頃感謝していた。その子の誕生日に、何が欲しいか聞いたら『〇〇の手袋』と言われたから買ったまでだ。確かに、ブランド物だし高かったが、妻があんなに怒るとは思わなかった。妻はブランド物や高い物を欲しがる女ではなかったからだ。


(あいつ、会社の子に妬いてるんだな。まだ可愛いとこあるじゃないか)


 だから、その子とは仕事上の付き合いだと強調しておいた。仕事上大切だから、報いているだけだと。

 それからは妻はそのことについて言わなくなった。頭のいい奴だから、理解してくれたんだろう。



 やがて息子が一人暮らしを始めて、俺たちは二人で暮らすようになった。

 俺も定年が近くなり仕事を減らし始めたこと、ここ数年の感染症のせいで接待もできなくなったことなどが重なり、必然として休日は二人で行動することが多くなった。


 俺は頭も薄くなったし腹も出てきて、いいおっさんになっている。だが妻は、若い頃と変わらず綺麗だ。化粧も服装も地味だけれど、滲み出る品の良さというか。一緒に歩いていても誇らしい。


 連休には妻を連れて旅行に行くことが増えた。感染症はまだ流行っているが、家族と旅行するのは許されているのだ。金沢、岐阜、京都などプチ旅行を楽しんでいた。これからもずっと、そんな日が続くと思っていた。


 妻が癌だと告げられるまでは。



 どうして妻なんだ。癌になるなら俺だろう。俺は胃腸も弱いし、生活習慣も良くない。俺がなるのならわかる。だから保険もたくさん掛けて、俺の死後に妻が楽になるようにしていたんだ。

 なのに、なぜ。

 これから妻へ孝行するつもりだったんだ。定年を迎えたら二人で散歩して、二人で旅行して、楽しく過ごそうと思っていた。そして、俺の最期を看取ってもらうつもりだった。先に妻がいなくなったら、その後俺はどう生きていったらいいんだ。


 医者から告知された帰り、二人でカフェに寄った。食事など取る気になれずアイスコーヒーだけ頼む。妻は、いつものようにアイスティーだ。


「――あなた」


 その声でハッと顔を上げる。


「コーヒー、氷が溶けちゃいそうよ」


 手をつけていないグラスについた結露で、コースターがぐっしょりと濡れている。


「――頑張らなくちゃね」


 誰に言うともなく妻がそう呟く。

 辛いのは彼女のほうなのに、俺はどうしたらいいのかわからない。顔を上げたら涙がこぼれそうで、じっと妻の手元を見つめる。

 妻が飲み干したアイスティーの氷が溶け、カランと音を立てた。

 

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