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鬼になる前に

作者: 谷まどか

 洋子は震えていた。さっきこの手で夫を刺してしまったのだ。刺しただけではない。夫は息絶えた、しかも殺したのは洋子だ。洋子は震えていてぶつぶつと言葉が口を()いて出てきた。

「私は悪くない、悪くない。殺されそうになったから包丁を刺しただけ」

夫は真っ青な肌色が赤い血に染まって白眼を剥いていた。ほんの数分前までは確かに息をしていたはずだ。

 時間は20分前に遡る。ここは洋子と夫の自宅だ。30年ローンで買ったマンションで、設備は高級というほどではないが、ここ最近売り出されているマンションの中ではゆとりのある広さが自慢のマンションで、都市部へのアクセスも良いのが売りだった。少なくともこのマンションに越してきた頃はその時の洋子が思う「幸せ」というものを噛み締めていた。子供部屋も有り、子供たちは部屋の中をわんぱくに走り回ったりしていた。ベランダも広い。限られたスペースではあるがこじんまりとガーデニングを始めたりした。夫はごく普通の人間だった。ただ、癇癪持ちな面があり、交際していた時は洋子が別れ話を持ちかけると「死んでやる」と言って脅したり、道路に飛び出すふりをする、一晩中ぶつぶつと恨み言を話し続ける、壁に頭を打ちつけるなどの奇行が少しあった。だが洋子にとって初めて付き合った男性だったため、それがおかしいとも思わなかった。結婚後は当然家族のために働くのを厭わないのだろうと疑いもしなかったが、夫は向上心はあまりある方ではなくて、ずっと安月給の会社員で収入はあまり安定しなかった。夫の両親なども、自分の息子は稼ぎは多い方だと過信して気にかける事はない。洋子はなんとかしようと職を転々とし家族が安定して暮らせるよう奔走した。特段そんな毎日に疑問もなかった。夫は普段はおとなしい男だったが、俺は男だからの一言で、家事は一切せず、身体が不自由な訳ではないのに下着や靴下を洋子に履かるよう指示したり、汚れた下着の世話、身体をタオルで拭かせるなど、身の回りの世話を全てさせた。夫にとっての洋子は母親のような役目そのものであった。

 引っ越してしばらくすると洋子は夫に暴言を吐かれるようになった。今までも怒鳴られる事はあったが、攻撃的な言葉を投げかけられる日が増え、身体的な誹謗中傷も続いた。他にも、家事や仕事ぶり人間性を否定され続けた。そうかと思えば「さっきはごめん、もう言わないから」とよくあるDV夫のような言い訳をされるのであるが、この時はまだひどい事をされている自覚はなかった。だが、ある時の夫婦喧嘩がきっかけでそれは変わった。暴言だけではなく、頭を鷲掴みにされ壁に打ち付けられた。はっとして夫はその行動をやめたが、翌日は浴槽まで引きずられ湯船に顔を沈められたり、その翌日は夫本人の手と腕で息絶える寸前まで首を絞められ洋子は気を失った。

 その後夫の両親も踏まえて、もう二度としないという念書を(したた)め改心を信じて、いつも通りの生活に戻ったはずであった。ある時、家族で出かける際、夫は洋子を置いて出発してしまった。数時間して夫は戻ったが、洋子が車に乗っていない事を気がついていなかった。その時洋子の張り詰めた心の何かが、ほろほろほろと崩れ落ちた。どんなひどい仕打ちがあろうと、夫は自分を愛していてくれているのだろうと必死に耐えたが、夫の生活には自分の存在が無い、そうはっきり確信できた日に洋子の中で何かが変わった。そして、子供たちが祖父母の家に帰省していた日だ。その日は金曜日で、夕飯の食卓を夫と囲んでいた。その日些細な夫婦喧嘩がきっかけで洋子は夫に言い返したがあまりの迫力に言い返せず、包丁で刺した。事の経緯はそんなところである。

 洋子はその場に崩れ落ちて震えていた。今までも殺意が湧く毎日であったが、あまりにもあっさりと些細な理由でいとも簡単に人を殺めてしまったのだ。洋子は32歳になるが、これまで人の道を踏み外した事はない。だが、夫と過ごした10年でふつふつと沸いた怒りが蓄積されたのだろうか。なんていう恐ろしい事を自分はしてしまったのか。長い間変わらない夫に苛々してきたが、そんな事よりも人を殺めてしまい、犯罪者になったという事実が洋子の胸を苦しめた。自分が愚かで虚しく思えた。ベランダに植えたハーブやミニトマトが風に揺れるのが窓から見えたし、電車が通る音や姿が目に入り、洋子は人殺しになったが、外はいつも通りの日常であった。「これからどうしようか」パニック状態から、徐々に落ち着きを取り戻し洋子はこの後どうするか考えた。子供たちは犯罪者の子供になってしまう。実家の家族にも迷惑がかかるだろう。私を慕ってくれていた勤め先同僚やお客さんたちはショックを受けるだろうか。いろんな思いを張り巡らせ時間だけが過ぎていく。ヒグラシだろうか、蝉が寂しそうに鳴いている。洋子は血が広がる床にゴロンとなり深い深い眠りに落ちた。

 「起きなさい、起きなさい。お前は罪を悔いているのか」

老人の嗄れ声(しわがれごえ)が聞こえる。夢の中か?

洋子は混乱した。

「悔いているか」

洋子は辺りを見回した。すると真っ白く長い髭、白装束を着た高齢の男性が立っていた。洋子は少しだけ呆気に取られたが気を取り直し

「悔いているというか愚かな事をしてしまいました」

すると老人は

「そうであろうな、お前は人間として犯してはならない大罪を犯したのだ」

そしてこう続ける。

「お前はなぁ、鬼になってしまったのじゃよ。いかなる理由があろうと人間は人間としてその人生を全うするために生まれてきた。たとえ過ちを犯そうが立ち戻り生き直すのが人間だ。その過ちの中に殺人は含まれないのじゃ」

「含まれない?」

「殺人というのは鬼の仕業である。お前の心は鬼になっておる」

洋子はその場に項垂れていた。老人は少しの間沈黙になったがそれからこう話しかけた。

「お前は以前、亡くなった子猫を道路脇に埋めてやり弔ったことがあったな?」

洋子は一瞬何の事か分からなかったが、そういえば以前に娘と小さな白く美しい子猫が道路上で車に轢かれていた場面に遭遇した。通行人も誰もが足を止めないため、洋子と洋子の娘は、車が少しの間居なくなった隙を突いて、子猫を救い出し道路脇に横たえ、道端の草を身体にかけてやった。猫の横にはシロツメクサを供えてやった。子猫の傷ついた身体はとてもふわふわと温かそうに見えた。命は救えなかったが、子猫が眠る場所は見つけてあげることが出来たね、そう娘と話して帰ってきた。半年くらい前だろうか。老人は言葉を続ける

「お前に最後のチャンスを与える。時間を戻せるのは生涯一度だけだ。そこからはお前次第だ。鬼になる前に戻るのじゃ」

老人はそう言って消えた。

 しばらくして洋子が気がつくと、夫と食卓を囲む金曜日の夜に戻っていた。洋子は「ハッ」としたが、老人の「これが最後のチャンスだ」その言葉だけは覚えていた。夫はいつものように強い口調で言いがかりをつけてきたが、洋子は笑顔で交わし、食事を無事に済ませた。

 1週間後、洋子と夫は弁護士事務所にいた。離婚のための相談であった。洋子は新しい道を進む決意をした。自分のために子供のために。そして「最後のチャンス」を無駄にしないために決断した。マンションは売りに出す事にした。洋子の心の中にもう後悔という言葉はなかった。

 今でも、夫を刺したあの日の出来事が、そして老人が夢だったのか現実だったのか洋子には分からなかった。だが洋子に芽生えた心は真実だ。洋子は張り詰めた気持ちが少し緩み、人間として生き直せる事を喜んだ。過去も未来も愛おしくなり、正しく生きれるチャンスが目の前にある事を全身で喜んだ。

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