後編
王城騎士団勤務の獣医師のところへ包まれたまま連れて行かれながら、私は考えた。
思考に没頭するため身動きひとつしなくなった私を気遣ってか、あるいは居眠りやいっそ絶命など心配してか、ときどきジュード様の手が上着のうえから優しく撫でるような動きを繰り返す。
……ごめんなさい。とても気持ちいいです。
でもだからこそ辞めてほしい。まとまる考えもまとまらない。
さて、もはやオリビアのところに戻るのは困難だ。
けれどやはり、されるがままに王城へ連れ込まれるのも受け入れられない。
どうにか脱出して街に潜んで改めてオリビアを探して――あっ。
彼女は私が王子のものだって教えられている。おうちに帰りなさいって言われてしまうかも。
それを言いくるめる手段を私は持たない。
……爪で地面を引っ掻いて文字を記してみようかしら……?
「おや、やんちゃさんですね」
「にゃ……」
獣医師の診察を受けている途中だったことを、そこで私は思い出す。
爪について考えたせいか、うっかり現実でも飛び出させてしまったらしい。
「危ないよ」
私を抱いているジュード様の指先が、そっと爪を押し戻した。
この方、獣医師に私を預けようとしないの。抱えたまま。獣医師の指示でひっくり返したり脚を持ったりとまるで助手のようにしている。
最初に獣医師へ診察台へ乗せてくださいと言われたとき、とても嫌そうな顔をしたから折衷案でこんなことになったのだ。
ジュード様の手でばんざいさせられたりうつぶせにされたりあおむけにされたり……もっと言うとあられもない格好もさせられたり、そう、だから現実逃避のために状況を打開すべく思考に集中していたのだった。
だから、ひとしきり触診を終えた私が傷心を癒やすために丸くなったのは仕方がないことだと思う。きゅうと外界から隔絶するように顔もうずめた私の体は、またジュード様の腕のなかに戻された。
ここで暴れても意味がないことは分かっているので、おとなしくしておく。
外界では、獣医師とジュード様が私の容態について話し合っていた。
「外傷はなし、内部の異常も認められません。呼吸や脈拍も平均値です。健康体ですよ」
「……」
ジュード様は意味ありげな沈黙のあと、「そうか」とうなずいた。
「ありがとう。これからは僕と暮らす予定だから、また何かあったら頼みたい」
「ええ、いつでもおいでください」
まるくなったままの私を再び上着で包んで、ジュード様は診察室を後にした。
王城へ戻ってからずっとついている側付きの方も、数歩遅れてやってくる。
前回の記憶だけど、今日のようなおしのびの外出には影と呼ばれる隠密主体の護衛がついているのよね。だからオリビアと逢ったとき、彼女からは一人でいるように見えたはず。私も、隠密の方々がどこにいるのかは分からなかった。
ただ、馬車のなかで王子が誰にとなくつぶやいた声から、私が跳ねられたことを確信したのは隠密からの情報だったらしいと判明している。
ジュード様自身も感じるものがあったところに、裏打ちがとれたという次第。
……気づかなかった御者が相当にぶかったのかしら……
上着に覆われた視界が、ふと明るくなった。
ジュード様が頭部分の布をめくってこちらを覗き込んでいたのだ。
「不思議だね。馬車に跳ねられて無傷だなんて、……やっぱり女神のご加護かな?」
するりと差し入れられたジュード様の手が、私の前脚をそっと掴んで上着包みから引っ張り出す。
女神の刻印が刻まれた肉球は、診察のときに発見された。
汚れではないというのは明らかで、外見とも相まって私はそういう神性系の生物だと判断されつつある。実際そうなのだから認識されるだけなら問題はない。
問題なのは――
「……そういうことなので、陛下。彼女は女神が私に遣わしたなんらかの御印なのだと思うのです」
「ふむ。善き兆候であるといいな。他ならぬおまえの望みだ。仲良くするといい」
問題なのは!
それを後ろ盾にあっさり私をペット化した王子とそれを許可した国王陛下のほうなのです!!
私、エルシリア(旧名)。
今、王子殿下の私室にいるの。
陛下との謁見は、ダンスステップ一往復より短い時間で幕を下ろした。
晴れて飼育可のお墨付きをいただいたジュード様は今、嬉々として私の寝床をこしらえている。
控えていた侍女や従僕がお任せくださいと名乗り出たのを、自分がやりたいからと一蹴して。ついでに女神の恩寵を満喫したいからふたりきりにしてほしいと扉の外に出るようにまで指示して。
……ほんとうに、すごく、尋ねたい。
王子は飛び出て馬車に跳ねられた謎生物に何を感じて、懐に引き入れようと思ったのか。
ここまで王城の深くに連れ込まれた以上、簡単に脱出できるとは思えない。
いったん逃走をあきらめて静かに見守ることしばらく、なんとご自身のクッションやストールでやわらかな深皿のような寝床を作り上げたジュード様が、満足そうにこちらを振り返った。
「おまたせ。おいで」
「……」
ふるり。
目線を合わせず、しっぽを揺らす。
だって一言目で動いたら、言葉を解するって思われそうだもの。
「……おいで」
ジュード様は気分を害した様子も見せず、辛抱強く私を手招いた。
その指先に興味を惹かれたふりをして、私はのそのそと身を起こす。
……いまさらだけど、猫っぽい仕草って意外と思いつかないわ……。なんとなく体が動くように任せているけれど、大丈夫かしら。
「ふふ」
近づいた私を、ジュード様が抱き上げた。
そのまま寝床へ安置されるかと思いきや、ジュード様はそのまま私ごと、寝床を置いてもなお余白のあるソファへ腰を下ろす。あの、寝床の意味は?
戸惑う私の胴体に、ふか、と、ジュード様が顔をうずめた。
「にゃ!」
なんて大胆なことを!
ふたりきりだからなの!?
思わず身を硬直させた私をなだめるように、ジュード様の手が動く。
顔をうずめたままのお腹のあたりから聞こえる声は、くぐもっていた。
「やっぱり――間違いない。人でなかったのは意外だけど」
「……?」
「僕の鍵はきみだ。おなかの奥がこんなに落ち着いたのは初めてだよ」
「……にゃあ……」
独り言かと思ったけれど、どうやら私に語っているようだ。
うっかり相槌を打ってしまった。
「……きみは人間じゃないから、僕らの禁忌には引っかからないはずだ。少し話を聞いてくれるとうれしいな」
「…………」
もしや人語を解すると把握されているのかしら。
反応に迷う私をよそに、ジュード様はもごもごと口を動かしていく。
……どうでもよくはないけれど指摘できないからそのままにするけれど……毛が入って話しにくかったりはしないのかしら……などと思いながら聞いていくうちに、そんなことは本当にどうでもよくなった。
「僕ら王族の直系には、魂の穴を埋める伴侶が必要なんだ」
……そうして私は前回までの己の生き方を、深く悔いるとともに――しかしそれでもどうしようもないことだったのではないのかと、悩みも抱えることになるのだった。
「遠い旧い時代に世界を喰らい尽くそうとした悪意は、人の身に封じられた。その子孫が僕らこの国の王族だ。世代を経るうちにそれは減衰しているけれど、一度魂の枷が壊れてしまえばいまでもあっという間に世界を飲み込むだろうということを、抱える僕らは知っている。一人でもどうにかならなくはないが、それを抑える強力な手助けが、枷の鍵穴を慰めてくれる伴侶の存在だ」
脈々と継がれてきた悪意はいつも、それを抱える彼らの魂を打ち破って溢れ出そうと狙っているのだという。
「これは、伴侶になる前の人間には明かせないという厄介な禁戒でね。でも、きみには言える。……本当に女神が何か思ってきみを送ってくださったのかな」
愛をください。
想いをください。
一日に一度でいいので、伴侶の想いの形に触れさせてください。
「……それだけで、とても楽になるんだと、父上は教えてくれた」
だから、
「きみもどうか、きみなりの形で僕を好きになってくれるとうれしい――」
やわくゆるく私を抱く幼い腕。
ふわふわと混じり合う毛並みと髪の毛。
くぐもった声。
なにもかもが切々と、前回までの私が知り得なかった事実を告げてくる。
なんてひどいことをしたのかと、もういない私が嘆き出す。
……でも、だけど。
どうすればよかったの。
厳しい王妃教育に、笑顔を余裕を忘れた私が悪かったの。
いつしか好意の仕草も言葉も形づくることなく、強く賢くあれとそれを念じて貴方の隣に立つようにした私が悪かったの。
何も言わずとも幼いころの日々があるからと甘んじた私が。
それなのに隣にあの子がいるというだけで嫉妬心を募らせた私が――きっと、悪かったの。
前回の私の魂が、ジュード様の穴を埋める形であるから婚約者になったのかは、もう分からない。
ただ形式ばかりのもので、本当は前回のオリビアこそがそうだったのかもしれない。
……でも、だけど。
笑いかければ笑い返して。
指をからめれば握り返して。
そっと額を突き合わせて、こっそりお菓子を分け合うこともして。
そのたびに、貴方はほんとうにうれしそうにしてくれた。
もちろん私もうれしかった。楽しかった。
抱えているだけでは、伝えなければ、意味などなかった。
意味をなくした躯を抱えた私には、もっと、意味などなかったのだ。
ただ義務だけで傍に在るのだと、前回のジュード様には思えたのだろう。
腹の底が気持ち悪いという感覚がどれほどのものか想像は出来ないけれど――世界を滅ぼすくらいなのだ。胸焼けなんてレベルではないはず。
そんなものに苛まれて、原因の一端が私にあるのだと知っているなら……それは、態度も辛くなろうというもの。
まして形ばかりの婚約の可能性、正しい伴侶は聖女となるあの子だった可能性があったのだとしたら、こちらは邪魔者でしかなかったのだ。
……どうすればよかったの。
……ああなるしかなかったの。
そう、開き直るしかない。
それこそ腹の奥で悔恨が悲鳴のように響いていても、あの私はあの処刑場で断たれたのだ。
それでも、開き直っても。
何度と数えることも飽きられるほど愚行を繰り返した身であることを、私はもう忘れていない。
……私があの私であるかぎり、ジュード様に安らぎなどなかったのだ。
女神は、だから、きっと、このようになさった。
私の救いではなく、ジュード様が、世界が救われるために。
『一度獣に生まれるとね』
だから女神はおっしゃった。
『次は人か獣か――確率が大きく偏るわ。そこは覚悟してね』
どちらに、など。問いはしなかったけれど。
今はそれも愚問だと分かる。
……ごめんなさい。
「……ぁ」
かすれた声とともに、私はこの姿になってから初めて、自分からジュード様へ身を寄せた。
「ん」
顔をあげたジュード様と視線がぶつかる。
穏やかな微笑みは――あのころを私に思い出させ、否応なく悔恨の渦に思考を叩き込もうとした。
けれど、それを引き剥がす。渦巻く懺悔よりも、ただジュード様に寄り添わなければという己の声に従った。
「やっぱりきみは分かってくれるんだね。……素敵だよ、ほんとうに」
「……」
この姿で何をしたら、貴方が好きだと伝わるのだろう。
獣としての好意でいいのか、抱えてきた人としての想いでいいのか。
抱き上げた私と鼻をくっつけて楽しそうに笑うジュード様のおなかの向こうが、今は安らいでいるのなら――
……ええ、ええ。ならばこうしましょう。
今はジュード様のお傍に置いていただこう。
彼はオリビアと、学園で絶対に出逢うのだ。
そこへうまく潜り込んで……それにここでも信頼を得られれば、外出の自由は与えられるかもしれないし。接触の機会を探って、――それで……それから、――――、…………
折り合いをつけるために思考をめぐらせる私は、気が付かなかった。
「……いてくれるよね」
ひとしきり鼻をつきあわせたあと、抵抗の素振りを見せない私を胸に抱え込んで身をまるめたジュード様が、ぽつりとそうこぼしたことなど。
「そうだよ。逃げてはだめだからね。僕ももう絶対に、きみを離さない。――エルリシア」
うっそりと――ささやいたことなど。
「一度、もう壊してしまった。だから、次も……二度目だってためらわないよ」
……何も、知らずに。
私はただ、この方からのぬくもりを享受していた。
ちなみにしばらく後のことになるのだけれど。
かつての私の生家であるウルシュ家の一人息子が何故か女装をしているとか、前世の記憶ではたいそう好ましいお人柄だった王弟殿下の素行が悪いとか、宰相の息子が魔術に傾倒しているとか、騎士団長の長男が父親をしのぐ勢いで成長しているとか――
聖女が、自ら名乗り出るとか。
たったひとりがいないだけでこんなに世界は変わるのかと驚きの声をあげる……というか、びっくり鳴きする日々が、私を待ち受けているのだった。
お読みいただき、ありがとうございました。
王子様は直近一回分だけ覚えています。