中編
……それで……そのひとが、なぜ、私を抱っこしているのかしら?
この国にこの方がいらっしゃるのは当たり前。偶然にこの街を歩かれていたのも、ないことではない。だけれど、通りすがりの猫にわざわざ目を留めて拾い上げるほど、動物好きでいらしたかしら?
しかもなぜだか、やけに親しげに微笑みかけられているのだけれど?
「みぁ」
「ああ、うん。ごめんね、急に馬車の窓が開くから驚いたね? ちゃんと探して見つけたから、許してくれるかい?」
「にゃ、み?」
「……ふふふ、ありがとう」
私は知った。
獣の鳴き声など、人は容易に己の都合がいい方向へ読み替えてしまうのだと。
今がまさにそれ。
混乱する意味なき音の羅列を適当にいなしたジュード様は、しっかりと私を抱きしめて、とろけるような微笑みを向けてきた。
うぐっ。
エルシリア(旧名)は精神的な金縛りに遭ってしまった……!
それは、そうよ。
だって貴方の隣に女性の姿があるだけで、嫉妬に苛まれるような女だもの。
醜い感情を膨らませつづけて、人として許されないような行為までしてしまった愚物だもの。
根源の『好き』を、あの処刑場に落としてくることも出来なかったほどに。
……今も、好きなのだもの。
救いといえば――オリビアと王子が揃って近くにいても、前のような嫉妬が浮かばないことだろうか。
ふたりはまだ知り合いでもないのだから、当然といえば当然……
「あの、あなた様は貴族の方ですか?」
オリビアがジュード様に問いかけた。
一心に私をなだめるそぶりを見せていたジュード様は今初めて気づきましたとばかりにオリビアへ目を向け、にっこりと微笑んだ。
「そんなようなものだね」
……嘘ではない。貴族の中の貴族、むしろ頂点たる王族のお方だ。
とはいえ、市井のしかも子供にとっては貴族も王族もどこか物語めいた遠い場所にいる誰か、偉さの概念でしかない。
オリビアもそれに違わず、「そうですか」と納得するだけ。それから、彼女は私を指差した。
「その子、さっき飛んできて壁にぶつかってたんです。あなた様のおうちの子だったら、怪我とか心配なので、お医者様にみせてあげてください」
なるほど、馬に蹴られたところは見てなかったのね。
道のほうで騒ぎにもないようだし、一瞬すぎて誰の目にも止まらなかったのかもしれない。御者の反応もそんな感じだった。
むしろ乗っていた王子が、よく気づいたものだわ。
「ああ。心配してくれてありがとう。――お礼に、よかったらどうぞ」
「まあ! ありがとうございます!」
私を片腕に抱き直した王子は、自然な仕草で懐から取り出したお菓子の包みをオリビアに手渡した。
これがお金やお花ならオリビアも困っただろうけれど、消え物であれば遠慮も要らない。嬉々として彼女はお菓子を大事にしまいこむ。
「それで、この子を馬車から飛び出させてしまったことと僕たちに逢ったことは内緒にしておいてくれるかい? お父様にひみつのお出かけなんだ」
市井ではめったに出回らないだろう高級なお土産によろこぶオリビアは、一つ返事で王子の要請を受け入れた。
唇に人差し指を当ててお願いポーズをする王子の姿に私が悶えている間の出来事である。そうそう、子供の頃はこんなふうにいたずらっ子っぽいお顔もよく見せてくださっていたのよね。
王子、王太子としての教育を受けるにつれ、君主としての表情をまとうことが多くなられたけれど、その向こうにはこの姿があったのかもしれない。
……それを見られる立場に、あのころの私はいなかったけれど。
(あら)
不思議だわ。
悔いとともに記憶を振り返り、目の前にはその王子とオリビアがいるのに、こころが波立つことはない。王子への思慕ではどきどきしてしまっているけれど、あのころの嫉妬のようなものはない。
面白いわ。
姿と立場がちがうということ、ただ単純に慕っていられるだけの存在でいられるということは、こうも心の在りようを変えてしまうものなのね。
ひとりしみじみとしているうちに、オリビアの姿は消えている。
別れの挨拶をしていたらしいジュード様がちょうど、振っていた腕を下ろしたところで――その腕は、また私の体を包み込んだ。
「にゃ」
「……さ、行こうか」
「みぁ!?」
はっ。
いけない。
私はオリビアがちゃんと聖女として覚醒する道標となるためにこの姿になったのよ。
いくら大好きなジュード様の腕のなかだからって、その腕が気持ちいいからって、響いてくる鼓動が落ち着くからって、見下ろしてくださる優しいまなざしにときめくからって、体に全然ちからが入らないからって、このまま連れて行かれてしまうわけには……!!
というかいまさらだけども、なぜ、王子はこの私を自分のものだと嘘をついてまで確保したのかしら!?
「に、にゃ、ふゃあ」
「だめだよ」
ああ、だめ。
ちからが入らないという以前に、そもそもの膂力に差がありすぎる。
ジュード様はたしかにまだ幼い姿だけれど、子猫が暴れるくらいじゃびくともしない。
四肢を動かしても尻尾をばたつかせても、腕はまったくゆるまない。
かといって爪や歯を立てるなんて論外だわ。
「……にぃ、や、なぁ―――」
おねがいですから、後生ですから。
どうか、見逃してくださいな。
必死に鳴いて情けを乞うもジュード様は足を止めず、腕のちからもそのままに微笑みを私に向けるばかり。
「大丈夫。これから行くのはきみの家になるところだよ」
ちょっと広すぎて人間が多すぎて堅苦しいこともたくさんのところだけれど――
その言葉を聞いた私は、顔が毛で覆われてなければ血の気の引いていく様をジュード様に見られたかも知れない。
だって、どう考えても間違いなく、それ、王城ですよね!?
馬車にぶつかっただけの猫を連れて行くところではありませんよね?
お医者様は!? いえもう要らないといえば要らないのですけれど!
「ああ、ちゃんと獣医にも診せてあげるから安心して。馬が専門だけど、他の動物も扱い慣れてる者だから」
ありがとうございます!?
……ではないのです!
「にゃー……!」
「だめだよ」
「ぶにゃ」
ちからなく抵抗する私の諦めの悪さに閉口したらしいジュード様は、羽織っていた上着でまるっと私を包んでしまった。
息苦しくはない。体が不自然に折りたたまれたわけでもない。
だけど、――ああ、どうしましょう。
獣の嗅覚を持ってしまった私にとって、全身をジュード様の香りに包まれているというのはもはや苦行に近い楽園だ。まるごと委ねてしまいたい気持ちと、それでもオリビアのところへ行かなければという気持ちがせめぎあう。
もごもごと小さく動く上着の包みを抱えたジュード様の歩みが止まった。
「待たせてすまない」
「いいえ。落とし物は見つかりましたか」
「ああ。――一緒に、とても素敵なものも見つけたよ」
「それはようございました。では、出発しますね」
「よろしく」
素敵なもの、と言われて持ち上げられた上着包みの中身たる私のこのときの心境は、とても言語化出来るものではなかった。
ああなってしまったあのころの記憶が一番強い私には、精神へ馬上槍を投げつけられたようなものなのだ。
おかげで馬車へ乗り込むときも、座った王子のお御足に乗せられたときも、ぷるぷると小さく震えて衝動を受け流すのに精一杯だった。
……我に返ったのは、馬車が停まる振動で。
つまり――王城に到着してしまった、いわゆる後の祭りになってからのことである。