前編
ああ、失敗した。
この感情の表し方を間違えた。
だから手段を間違えた。
貴族令嬢としては正しかったのかもしれないけれど、貴方に恋する娘としてはきっと間違ってしまっていたのだ。
貴方の隣に立つようになった彼女を蔑む前に、
彼女を傍らに置くことを望むようになった貴方に憤る前に、
たった一言、たった一粒。
子供のように、幼かったあの日のように。
王太子妃となるはずだった身には相応しくなどなくとも。
ただあふれる気持ちに従う今なら、きっとあのころの笑顔を浮かべていられる。
「……好き」
極刑の舞台に立つ私を遥か高みから見下す貴方へ、今、やっと出来たように。
……ああ。
遠目にも、見える。
貴方はひどく驚いて、立ち上がって、そうして私に教えてくれる。
そんなに取り乱すほどに忌避されているのだと。
……ああ。
頭上より、迫る。
だからどうか安心して。この言葉はただの、私のこころのかけら。
この首と一緒に落ちるばかりの、――――
……
…………
……落ちたはずの首が、くっついている。
取り調べと牢で厳しい折檻を受けた体から、傷痕や骨折が消えている。
五体満足の姿である理由はひとつ。
ここに在る私が、魂だけの状態だからだ。
いちばん健やかだったときの姿を模っているのだと教えてくれたのは、私の目の前で不機嫌そうでありながらも輝く存在たる一人の女神だった。
この方のこの表情を見るのは、もう何度目になるだろう。
原因はいつも私なので、とても申し訳ない気持ちになる。
身をすぼめてみるものの、それで世界の輪転を司る女神のこころは慰められない。
……ああ、またお叱りを受けてしまう。
「もうほんと困るのよねー」
「すみません」
「なんで貴女いつもそうなの!? 最後の最後にならないとデレられないのどうにかして!? 今回はやっと言葉に出来ただけ進歩なんでしょうけど! でも正直マイマイ以下よ!!」
「あれでも精一杯でした……すみません。せめて記憶の持ち越しが出来れば、積極的に反省を活かせるんですが……」
「巻き戻しだから記憶も戻るのよ。当たり前でしょう。人間以外に変質するならお目溢しもできるけど……あっ、そうだ! 人外になってみる?」
「えっ?」
「他所の世界でね、乙女ゲーっていうのがあって。主人公が男性を恋愛的に攻略するゲームなのよ。そこで主人公を助けるマスコットキャラがいるの。貴女それになるなら記憶の持ち越しをしてもいいわ!」
「いいんですか?」
「世界の輪転に必要な魂の比重が足りてればいいの。そして滅亡を防ぐには、あの子――貴女が醜く張り合った、あの聖女が真に覚醒する必要がある。なのに貴女が毎度毎度処刑になってるから覚醒まで辿り着かないのよ! もう何度滅亡してると思ってるの!」
「何度目なんですか?」
「数えるのも飽きたわ」
「巻き戻しには飽きないんですか……?」
「飽きたいけど! ここでこの世界が滅亡すると近くの世界も巻き添えくらっちゃうの! そっちカバーするよりこっちの巻き戻しをするほうがまだマシなの! 暗黒の泥ぐちゃに手を突っ込む身にもなってほしいけれど!」
「私が死んだあと何が起こってるんですか」
「死んだあとだから見せてあげられないわ。まあ、一言でいうと大惨事ね」
「世界滅亡なだけに」
「滅亡なだけに」
ここに来てからやっと思い出す何度目かの記憶でも、頻繁に似たようなやりとりをしていた。
でも、人外になる提案は今回が初めてだわ。
「そうですね。最初から私がいないほうが、きれいにまわるかもしれませんね」
「……それはないわぁ。でも貴女があの貴女だとどう動いてもああなるのだもの。アプローチ方法を変えるしかないでしょう」
「……あの、ほんとに死んだあと、なにが……?」
「お し え な い」
「ハイ」
ひとまず人外提案を受け入れて、姿を決めることになった。
「好きな動物はいる?」
「猫ですね」
「ふーん。じゃあこういう子はどう? 普通の獣と思われても困るから、少し異生物要素を入れてみたわ」
「……」
女神の手のひらに立体映像が浮かび上がる。
ベースは白猫で、全体的につぶれた豆大福のようなシルエット。短い手足が保護欲をかきたてる。ルビーのような瞳がまるく愛くるしい。三角の耳から白い羽が伸び、しっぽはふわりとした根元から長く伸び――
「……契約書を持ち出しそうですね」
「そうね。試作一号は却下ね」
あれこれひねった結果、転生先のマスコットが出来上がった。
見慣れた白猫の肉球のひとつに見慣れた女神信仰の刻印を刻み、尻尾はふわふわの狐寄り、体格年齢は一歳前後。人の肩程度までの浮遊飛行能力を持ち必要に応じて翼や後光の演出が可能。食事はしてもしなくてもよし。世界滅亡の瞬間を越えるまでは不老不死。
「なにがなんでも今回で決めるおつもりですね」
「もちろんよ。決めてもらうわ」
その他こまごまとした注意を受け、私は光の空間からあの世界へと舞い戻る。
……ほんとうは、少しだけ寂しい。
何度となく繰り返した生のなか、子供のころには屈託なく接していられたあの人と、今度はそんなことも出来ないだろうから。
けれど、今度はきっとうまくやる。
私みたいな邪魔者と遭遇しないよう彼女を導いて、貴方の隣に立ってもらって、滅亡の引き金を止めてもらうわ。
その間、貴方の姿を見てこころを慰めるくらいは――どうか許してくださいね。
……
…………
ふ、と世界が切り替わる感覚があった。
閉じていた目を開く。見慣れた石畳、街並みが視界に飛び込んできた。
ああ――戻ってき
――ぱっかぱっかぱっかがらがらがらがらがらどーん!
「へぴゅんっ」
馬車道のど真ん中に出現した私は、馬車を引いて元気に走る馬から盛大な一撃をくらって吹っ飛んだ。
「ん? 今なにかぶつかったか?」
御者には私の姿が見えなかったらしい。一瞬のうちに出現して一瞬のうちに蹴り飛ばされたから仕方ない。
びたん、と狭い路地に飛び込んだあげく行き止まりの壁に張り付いた私は摩擦の跡を残して地面に落ちる。
そのころには、馬車の姿はとうに道の向こうだった。
恋路を邪魔した身ですもの、馬に蹴られるのも必然ね。
今回の生ではまだだけど、前回までの業と思えば仕方のないことと思えるわ。
痛いけど。死ぬほど痛いけど!
不老不死でも切られれば痛いし血は出るし衝突すれば打撲傷だって受ける。
再生のために細胞が組み変わる感覚は、体内がゼリーになったようで気持ちが悪い。怪我はなるべく負わないようにしよう。
「みゅあ」
回復までの時間を切なる誓いに費やす私の体が、宙に浮いた。
自力浮遊ではない。小さな手のひら、細い腕に抱き上げられたのだ。
「猫ちゃん、大丈夫?」
頭上から聞こえたのは、幼い少女の声だった。横手の道からそういえば、足音がしていた。
ボロ雑巾のような謎の生き物を心配して拾ってくれるなんて、幼さ故の勇気か知らぬが故の優しさか。
私は少女の姿をたしかめようと、声の出元を追って振り返り――その顔立ちを見て思わず、
「……オ……ッ?!」
……うっかり人語を口にするところだった。
急停止には間に合ったけれど、あきらかに挙動不審だ。
どうしよう……と私が次の行動を考えあぐねるうち、少女が心配そうにこちらを覗き込んできた。
「変な鳴き声……猫ちゃん、どこか痛いの?」
ありがとうございます女神様。
基本的に通信はできないとのことなのでこの感謝も届いているかは分かりませんがありがとうございます。
「……なぁお」
平気よ、と主張するために目を細めて少女に身を寄せる。
自然と喉が低くゴロゴロという音を立てた。
そうね。
人のぬくもりなんて――処刑のずっと前からもう、遠ざかっていたものね。
久しぶりのそれがこの子からだなんて、運命はほんとうに皮肉。
……この子の名前はオリビア。
なぜ知っているのかって――それはもちろん、少女が彼女だから。
何年かのち、学園で私に手ひどく甚振られて王子に救われる運命の聖女だから。
「んー、ちょっと見せてね」
ふんわりとしたピンクゴールドの髪を揺らしたオリビアが、若草色の瞳でしげしげと私を眺め回した。
きっと、さっき壁にぶつかったのも見ていたのだろう。
「おなかはどうかな……」
――きゃあああああ。
そうねたしかにそこも心配よねありがとう!
でも私にもこう、まだ、年頃の女性としての恥じらいというものがね!
反射的にオリビアの腕を蹴って、飛び降りる。
あっとあわてるような声に振り返れば、勢いをつけ過ぎたせいか思ったよりも彼女から距離をとってしまっていた。
ごめんなさい。貴女が嫌いになったわけではないの。
……視線で訴えようとして、おかしな気持ちになる。
前回ではさんざん蔑視も侮辱もしておいて、いざ王子が絡まないとこの態度。私、ほんとうに現金だわ。
だけど――この先オリビアと王子が出逢ったときにも、今と同じ感情を持っていられるかしら。
決意はたしかに胸にある。
それを貫ききることが、こんな私に出来るかしら……
「見つけた」
「にゃ」
思考に沈んだ一瞬、また私の体が宙に浮いた。
新しい手と声は、背後から。オリビアではない。彼女は私の目の前、少し離れた場所に佇んだまま。
――え?
いま、見つけた、と言われた気がしたけれど。
私は、誰かに探されるような関わりを持つ生き物ではない、はず。
「みゃ……」
「ああ、だめだよ。逃げないで」
とにかく捕獲者の顔を確認しようと身じろいだら、きゅぅと抱きしめられた。
顔を寄せてささやく声は思いの外近く、そして高い。
おそらく、オリビアと同じ年頃の少年――
……とくん、と、鼓動が大きく跳ねた。
振り返る途中の視界の端に、淡い色合いの髪が映り込む。
見覚えのある色。そして――そう、聞き覚えもある。この声は。
あまりに遠く懐かしく、大切で。
記憶の宝箱に鍵をかけてしまっていた、幼い頃のあたたかな思い出。
それに直結する響き。
――振り返る。
(……ああ)
その方の姿を認めた瞬間、胸が騒いだ。
好きだった。
恋しかった。
屈託なく笑いあえたころの年齢に近い今の彼を目の当たりにして――私は過去に置いてきたと思ったはずの気持ちを、結局後生大事に抱えてきていたのだと自覚した。
ジュード・フィン・ファリエンダル。
陽の光に透ける金髪、はちみつ色の瞳。街風を装っていても上質さを隠せない衣装――なにより、その佇まい。幼いながらも国を導くものとしての自覚を備えつつあるこの方は――私がかつて焦がれ、今も焦がれる、第一王子そのひとだった。