言の葉のチカラ
ニンゲンが言葉を使用し始めてから数百年が経過したある日、調度品を買いに街へ出た少年は、小路の陰でうずくまる老人を視界に捉えた。
「おじいさん、大丈夫ですか?」
少年は老人に声をかけた。
「……わしもとうとう天に召される時が来たようだ。覚悟はできておる。わしに構う必要はない。若者よ、気にかけてくれてありがとう……」
老人はか細い声を捻り出しながら、絶命の時が近いことを少年に伝えた。しかし少年はこの老人が手遅れだとは思えなかった。
「おじいさんはまだ天に昇るときではありません。お医者さんに診てもらいましょう」
少年は往来に向けて言の葉のチカラを使用した。
「衰弱した老人が倒れています。僕の少ないチカラでは彼を担ぐことはできません。オトナの皆さん、どうかチカラをお貸しください」
往来を行く人々はまばらであったが、その言の葉のチカラによってすべてのオトナたちは小路の陰に目を落とした。
「何と! これは気づかなんだ。少年よ、あとは我々オトナに任せるがよい」
オトナたちはいとも簡単に老人を抱えると、足早に医者の住む街へと向かった。
ニンゲンは言の葉のチカラがもたらす心地よい温もりの下で繁栄し、セカイの彩りを豊かにした。しかしその色彩は年月を重ねるごとに少しずつ淀んでいき、少しずつ貧しくなっていった。
そうして数千年が過ぎ去り、かがくのチカラで構築されたネットワークによって、セカイはあるひとつのクサリによって繋がれた。しかしこのクサリは、使用するニンゲンによって幸も不幸ももたらす諸刃の剣であった。
セカイをひとつに繋げる端末を手に都会の雑踏を闊歩する少女の視界を、ひとりの哀れな中年男が遮った。
「ボクは哀れな中年男だ。きみのようなうら若き少女の慰めによって何とか生きながらえている。大丈夫、ボクはきみを襲ったりはしない。ボクは哀れ者だが愚か者ではない」
哀れ者はふらふらと雑踏へ紛れ、消えていった。少女はこの哀れ者が吐いた言葉をネットワーク上に流した。数日間炎上し、やがて煤となって人々の記憶から消えていった。ところが、ある愚か者からこの記憶が消えることはなかった。この愚か者は、かの少女の前に立ちはだかった。
「おい、俺は困っている。それもどうしようもなくな。俺はお前の投稿によって酷く気分を害し、何も手がつかなくなって困っているんだ。責任を取ってもらおう」
少女はかの哀れ者同様、愚か者の言葉をネットワーク上に放り込んだ。愚か者は立ち去ることはなく、少女の首に手を当てた。
「おい、俺はお前が何をしたかを知っている。何をしてきたかも知っている。お前は俺以上に愚か者だということを!」
少女は言葉を返すことなく、ネットワークを利用して全世界にライブ配信を開始した。
「お前のトモダチはその端末。お前は愚かであると同時に哀れだ」
愚か者は少女の腹に一撃を食らわすと、勝ち誇ったように雑踏へと消えていった。
少女はうずくまりながらも配信を続けた。
往来を行くオトナたちは少女に気づかないか、気づいても素通りするか、その様子を撮影していた。
少女の配信は炎上した。しかし数か月もすると煤となり、人々の記憶から消えていった。
数年後、少女はオトナになり、遺書を残して自死した。数日間お茶の間に話題を提供したが、新たな話題に上書きされていった。
こうして世の中には寒々しい不条理が蔓延し、言の葉のチカラは効力を失い、自己責任による淘汰が始まった。ひとり、またひとり、困っている人は増え続け、自己責任の圧力によって消えていった。
命の代わりに増えたものと言えばカネだった。自己責任の淘汰を逃れた者はすべからくカネを手にしていた。カネが何よりもチカラを持ったのだ。ニンゲンはカネによってマインドコントロールされるようになった。
しかし、やがてこのカネの支配も終焉を迎える時が来る。この世に永遠は存在しない、という微かな希望は、まだこのセカイのどこかには残されていたのだ。といっても事は単純で、カネに価値がなくなってしまったからに他ならない。自己責任の淘汰によってニンゲンの多くがマネーゲームから脱落した結果、富の崩壊が起こった。それはセカイからオトナが消える日、でもあった。
富の崩壊によって多くのオトナは消え、コドモは荒廃したセカイに取り残された。しかしコドモは哀れでも愚かでもなかった。哀れで愚かなオトナが消えたことで新しい秩序が誕生しようとしていた。オトナが消えた街の片隅で、彼らはテツガクを発見した。
「オトナは消えた。ボクたちに必要なのは悲しんだり、ましてや喜ぶことではない。その原因を追究することだ」
「原因なんて分かっているわ。カネに溺れたからでしょ」
「それは表面的なひとつの事象に過ぎない。それはテツガク的ではない」
「テツガクというのはカネに代わる基準を提示してくれるの?」
「ボクたちは今議論をしている。とても純粋な議論だ。それがオトナになると出来なくなってしまうんだ」
「……確かに。オトナの事情とやらで空虚なコトバが踊っていたわね」
「そう、それだよ」
「……」
「コトバさ。破滅の原因はコトバがチカラを失ってしまったからさ」
「コトバの……チカラ……」
「これからボクたちが再構築するセカイには、言の葉のチカラが失われることのない仕組みを作らなければいけない。そこにはこのテツガクが必要なんだ」
「……カネはテツガクを破壊するほどに誘惑に満ちた甘い汁だった……。全てがカネを前提とし、そしてカネに収束していった……」
「そう。そこにアウラは存在しない。だから真実に触れることも出来なくなった。カネはある条件の下でしかニンゲンに益をもたらさない」
「その限られた条件というのは、本当に短い期間だったようね」
「ああ。しかしニンゲンはそのカネによる長期支配を被った。オトナの消失を待つまで、それを覆すことができなかったんだ」
「カネのチカラが言の葉のチカラを奪ってしまったのね……」
「そうだ。だからそう、ボクたちがオトナになるまでに、それを取り戻すんだ」
テツガクの発見はネットワークに汚染されたコドモたちに啓示をもたらした。それにより導き出された最適解は言の葉のチカラの復活であり、彼らはそこに希望の灯をともした。