最悪の事態
雷家を出て、坂を下り、大通りに面したところで、部長は後ろを歩くメンバーを振り返った。あまりいい話では、ないらしい。重いため息を吐き出しながら、部長は口を開いた。
「……【最悪の事態】を覚悟しておいてくれ」
傘に落ち続ける無数の雨粒。悲しい旋律が聖海たちを包み込む。「それって……」聖海は、先ほど別れたばかりの座敷わらしのことを思い出していた。ツルと座敷わらし──祖母と自分、どこか似ていて他人事のようには思えなかった。
「ねぇ、龍ちゃん。【最悪の事態】って、龍ちゃんはどこまでを予想してるわけ?」
風見の問いに部長は「考えたくもないことまでだ」と短く返答し、前を向いて歩き出した。その答えを受けて影助が頭を抱えた。
「部長の予想、大体当たるから嫌なんだよね」
「それな! 立花、お前も覚悟しておけよ」
「覚悟、覚悟って……。具体的に何が起こってるのか想像もつかないから、どう覚悟をすればいいのか……」
「あー……確かに。立花さんには難しい話かもね。風見さん、説明してあげなよ。一応、先輩でしょ?」
「えーすけ、お前なぁ……」
影助は歩くスピードを速め、部長のもとへ行ってしまった。「説明お願いします、先輩!」ニコッと笑う聖海に「はいはい。これも先輩の役目ですから」と自嘲し、風見は【最悪の事態】について話し始めた。
「残酷な話だけど──」
風見の纏っている空気が変わった。その一瞬、無数の雨粒が彼の傘を避けて地面に落ちた。風見から発せられる、冷蔵庫を開けたときのようなひんやりとした空気。先ほどまで無かった冷気に聖海は左腕をしきりに擦っている。
「たぶん、ツルさんは亡くなっている可能性が高い」
「……え? そんな……」
「人に懐く妖はさ、その人を【主】だと認めて傍にいるんだよ。ほら、この間の雷太と龍ちゃんがいい例だね」
「あー、なるほど」
「座敷わらしもツルさんを【主】だと認めて、一緒に暮らしてきたんだろうな。……だから、【主】を亡くすと、妖は迷子になる」
「じゃあ、座敷わらしちゃんが家に帰れないのって──」
「そういうこと」
「そんな……」
「悲しいことに、妖は魂でしか人間を認識できない。生きている人間の姿は見えるけど、亡くなった人の姿は見えないんだよ。──例え、目の前に【主】の亡骸があってもね」
ポツポツポツ……。聖海の耳に届く、傘を叩く雨の音。やけに寂しく聞こえる。妖だって、生き物だ。雷太や座敷わらしに触れたときの温もりが忘れられない。でも、人間とは違う。同じように感情を持って生きていても、全く異なる生物なのだ。そのことを突き付けられ、やるせない気持ちが聖海の胸を締め付けた。
「ある意味、幸せなのかも」
「どうしてですか?」
「だって──大切な人の死顔なんか、誰も見たくないじゃん?」
「……そう、ですね」
風見の言う通りだ。誰も大切な人を失いたくないし、その命の終わりを目にしたくはない。それは、人間も妖も同じだろう。
「立花、こっからが本題ね」
「え? 【最悪の事態】は、まだ続くんですか!? もう勘弁してくださいよ……」
「俺だって、そうしたいわ。……最近、鬼の目撃情報が相次いでる。ツルさんは、妖が視えたって話だったでしょ」
「まさか、鬼に!?」
「龍ちゃんが言ってる【最悪の事態】は、ツルさんが鬼に襲われた場合のこと。もし、鬼がツルさんを襲って魂を喰ってたとしたら、鬼は力を得て狂暴になるし、魂を喰われた人間は【鬼】になる」
「人間が【鬼】に……」
自宅で対峙した、あの三人もそうだった。彼らも人間だった頃、魂を鬼に喰われ、鬼と化したのか……。
「颯志、立花。……どうやら、【最悪の事態】のようだ」
住宅街の一角、同じ茶色の平屋の建物が何件も並んでいる。その一件から、鼻がもげそうになるほどの悪臭が漂っている。どんな臭いでも、大抵は雨でかき消されるが、鬼の臭いは違う。どんなに時間が経とうとも、そこに残り続ける。
「あの家がツルさんの……」
「あぁ。──立花。覚悟は、できたか?」
部長の声に聖海は静かに頷いた。