妖力オバケの巧妙
職員室までの距離が近づくにつれ、聖海の足取りは重くなる一方だ。なぜなら、見覚えのあるジャージ姿の男性が職員室の前に立っている。遠目からでも、あれは松尾だと認識できる。「憂鬱だ……」と聖海の顔に暗雲が押し寄せた。しかし、聖海には最大の切り札がある。倉持が松尾に向かって走り出したのを合図に、聖海は右手の人指し指で自身の喉元に【封】と書いた。
「私も立花さんと一緒に補習を受けたいです!」
「そうか! いい心がけだ! 歓迎するぞ、倉持」
「ありがとうございます! ほら、立花さんも早く!」
「うん!」と聖海は声を出したつもりなのだが、声が出ない。「あれ?」と言ってみるも同じだった。
「え? さっきまで普通に話してたのに、どうしたの!? 声が出ないの!?」
慌てる倉持に頷き返すと、今度は松尾が慌て始めた。
「大丈夫か!? あ、そうだ!! ──九井先生!!」
名を呼ばれた九井が不機嫌そうに職員室から出てきた。「もう帰るんだけど」言葉通り、黒革のショートバッグを抱え、ばっちり帰る準備が整っている。
「これから、ご帰宅ならちょうどよかった!! 立花が急に声が出なくなってしまったようで、すみませんが病院に連れていってください」
「……なんで俺が」
「本来であれば、俺が行きたいところなんですが……彼女の補習もありますし、そのあと部活にも顔を出さないといけなくて。それに──立花は、妖研の部員ですし」
「……はいはい、わかりましたよ。顧問の俺が連れていけばいいんでしょ」
「すみません! お願いします!!」
「……立花、行くぞ」
九井から鋭い視線を向けられながらも、聖海は笑顔で彼の後をついていった。昇降口を出たところで、九井から「もういいだろ」と言われ、聖海は右手の人指し指で自身の喉元に【解】と記すと、失われていた声を取り戻した。
「いやー、助かりましたよ。九井センセ」
「はぁ……。臭い狸芝居だな。こんなことに封印師の能力を使うなら、あのまま忘れてたほうがよかったんじゃないか?」
「だって、あぁでもしないと補習から抜け出せなかったんですもん」
「補習を受けるような授業態度を取ってる奴に問題があると思うけど」
「そんなことないです! 真面目に授業受けてましたよ!」
「……で、これから雷の家に行くんだろ?」
「はい! ……さすが、先生ですね! ありがとうございます!!」
「は?」
「またまたー、惚けちゃって。車で送ってくださるんですよね?」
「……なんで、そうなるんだよ。そんなこと、一言も──」
カラカラと会話を遮る音が聞こえ、音がした方角に目をやると校庭へと出られる職員室の大きな扉が開き、「九井先生ー!! 立花のこと、頼みますねー!!」松尾の大きな声が校舎に跳ね返り、校庭にいるすべての人の耳に届いてしまった。
「ふふ。送るしかなくなっちゃいましたね」
「……松尾のやつ、後で覚えてろよ」
車に乗った九井は、まだムスッとしている。案外、根に持つタイプのようだ。助手席に座った聖海は歩く手間が省け、上機嫌だ。
「先生、意外と可愛い車に乗ってるんですね」
九井の車は、淡い桜色をした箱形の軽自動車。男性が好んで乗る車というより、女性が好んで乗りそうな車だ。
「ん? あー、俺の趣味じゃないけどな」
「奥さん、ですか?」
「……お前、他人から嫌われるタイプだろ?」
「いや、そんなことないと思いますけど……」
「いいか、人には聞かれたくないことの一つや二つ──」
「先生! 次の信号、右ですよ!」
「分かってる! ったく、人のことを詮索する上に、人の話まで聞かないとはな。はぁーあ。本当、アイツにそっくりだ」
「そう言えば、先生は私の祖母をご存じでしたよね。どんな生徒だったんですか?」
「今のお前みたいだよ。自分の道をとことん突き進む。周りまで巻き込むトラブルメーカーだったよ」
「ふふ。おばぁらしい」
「アイツが結婚するって聞いたときは、衝撃だったなー」
「そんなにですか?」
「あぁ。だって──」
九井の口が止まった。「あれ?」思い出そうにも、思い出せない。聖海の祖母の結婚相手の名前も顔も分からなくなっている。どうやら、聖海の祖母に先手を打たれたらしい。九井の記憶の一部を封じ、思い出せなくしたようだ。
「アイツ……。とことん、嫌な奴だ」
「おばぁは、計算高い女性ですからねー」
「お前にもその血が流れてるのかと思うと、ゾッとするよ」
「じゃあ、私も計算高い女になれるってことですね! 嬉しいなぁ~」
「……ダメだ、こりゃ」
雷家へと続く道の交差点。信号が赤に変わり、車は停車した。フロントガラスにぽつらぽつら雨の滴が落ちてくる。静かだった車内に雨の音が鳴り出す。
「それにしても……お前に関わると、ろくな事にならねぇな。雷も刺されちまったし。……まー、妖研に集まってる奴らは、みんな似たり寄ったりだけどな」
「……ということは、先生も含まれますよね? 顧問ですし」
「……お前。本当、可愛くねぇー」
「自覚はあります。それより部長ですけど、いつまで休む予定なんですか?」
「さぁな。怪我は一日で治ったらしいが、色々アイツもやることが多いからなー」
「あの深い傷が一日寝ただけで治ったんですか!?」
不思議なことに、深手だった部長の怪我は一日寝ただけで治ってしまったという。いくらなんでもあり得ない。
「妖術師って凄いんですね! あんなに重い怪我でも一日寝ただけで治っちゃうんですから」
「いや……間違っても、お前は真似するな。即、死ぬぞ」
「え!?」
「あれは、雷だからだ。アイツの妖力は人間の域を越えている。妖力が高い奴は体の回復力も高いんだよ。お前は、まだ妖術師の中じゃ赤ん坊同然だ。いいか? 間違っても無理はすんなよ! すぐ、あの世逝きだ」
「……分かりました。でも、妖力って上げられないんですか?」
「RPGのゲームみたいに簡単なものじゃない。まぁ、あやかしと触れ合う度に妖力が上がる奴も稀にいるが、何十年と修行を積んでも少ししか上がらない奴もいる。はたまた、雷のように生まれながらの妖力オバケもいる。……こればかりはなんとも」
「へー。……先生は妖術師に詳しいですけど、妖術師なんですか?」
九井の大きな目が丸くなっている。よほど驚いたらしい。忙しなく瞼が閉じたり、開いたりしている。信号は青に変わったはずだが、なぜかまた赤のランプが灯っている。
「先生?」
「……お前、本当に気づかないのか?」
「何をですか?」
「俺は──【妖怪】だ」
「えぇー!?」車内に風船が割れたような衝撃音が響き渡った。そのくらい聖海の発した声は大きかった。
「うっせー!! こんな狭いところで大声出すんじゃねー!! 俺は耳がいいんだよ! 鼓膜が破れちまう!! それに驚いたせいで、信号がまた赤になっちまっただろ!」
「す、すみません! だって、先生が……妖怪だって言うから」
「妖術師だったら、すぐ気づくもんだ。俺は【妖狐】だ」
「狐の妖怪、ですよね。言われてみれば、髪の毛の色は狐っぽいかも」
「……これは人に化けてる時の色。本当の姿は、こんなくすんだ色はしてねぇ。黄金に輝いていて、それはもう──」
「先生、信号青ですよ。話は後で。先に車を出してください」
「……本当、お前可愛くねーな」