風見颯志の過去
「ダメだ、全然分かんない……」
なぜ、風見は他者から避けられることを良しとするのか。なぜ、影助は風見に警戒心を向けるのか。なぜ、なぜ、なぜ……。考えても、このループから抜け出せない。
「どうした、立花。そんなに、この問題に苦戦しているのか?」
「……えっ!?」
救世主の登場か!と期待して聖海は顔を上げたのだが、残念なことに教壇に立っているのは、数学担当の松尾先生。三十代前半の若い教師で、バスケ部顧問をしている。だからか、松尾はバスケットシューズでも有名なスポーツメーカーのジャージを常に着ており、初見の生徒たちから【体育教師】と間違われることが多い。
黒板には、XだのYだの一見すると数学とは関係のないようなアルファベットが並んでいる。確かに、この問題も聖海にとっては難問だ。音楽が苦手な生徒が音符を見て、【おたまじゃくし】と思うのと同じく、数学の授業になんでアルファベットが出てくるのか、聖海には謎でしかなかった。
「いや、そういうわけじゃ……」
「まだ編入して一ヶ月くらいだもんな。よし! 特別に今日の放課後、補習授業をしよう!」
「え!? それは、ちょっと……」
「遠慮はいらないぞ! 放課後、職員室に来なさい! ……おっと、授業を中断して悪かったな! さっ、授業に戻ろう」
松尾は面倒見のいいお兄さんタイプの教師で、生徒一人一人に向き合うよう心がけている。そのため、生徒からの要望があれば今回のように補習を行うことは珍しくない。もちろん、彼から提案することもある。
──小さな親切、大きなお世話
どこかの標語を悪意をもって弄ったような言葉が聖海の脳内に浮かんだ。彼からすれば親切心で言ったことだが、聖海からすれば迷惑な話である。放課後、聖海は部長の家に行かねばならないのだから。あの部長のことだ。遅れたら、何を言われるか分からない……。聖海の中に、また新たな難題が生まれてしまった。
放課後になり、朝から降っていた雨は弱まり、水を含んだ泥状態の校庭で活動するサッカー部や野球部の熱気を帯びた声が校内まで届いていた。
聖海は副部長にメールで【補習授業のため、少し遅くなります】と連絡を入れた。電話で伝えられたら早いのだが、今日もまたミステリー研究部の倉持が聖海に張り付いている。妖怪研究部の謎を解くことをまだ諦めていないようだ。
「私、これから補習に──」
「知ってる。私も一緒に行く!!」
「えぇ!?」
国民の誰もが知っているであろう陽気なアニメキャラの夫と同じ驚き声を上げた聖海に何の反応もせず、倉持は熱い思いを語り出した。
「だって!! あの松尾先生と二人きりで補習だなんて!! どれほど、そのシチュエーションを夢見たことか……」
「あー……。確か、松尾先生のファンだっけ?」
「そう! しかも、ファン1号!!」
「その1号って重要なの?」
「うん! すっごく重要!!」
「……ふーん、よく分かんないけど」
「だから! 私も一緒に補習受ける!!」
少し考えた素振りをしてから、聖海は「いいよ」と答えた。聖海の企み顔に隠された意味を知る良しもない倉持は「ありがとう!」と喜んでいた。
職員室へと向かう道中、倉持が気になることを言い出した。
「三年に風見って先輩いるでしょ? 立花さんと同じ委員会の」
「あー、うん。倉持さんも知ってるの?」
「知ってるも何も。ちょっと、耳貸して。──あの先輩、去年【傷害事件】を起こしたことがあるの」
「【傷害事件】!?」
「ちょっと声が大きい! 頭に来て、相手の人に怪我を負わせたって話だよ」
「殴っちゃった、とか?」
「ううん。──切りつけたんだって」
【入部の儀】での出来事を聖海は思い出した。風見が聖海の指を撫でただけで、切り傷が出来ていた。風見の詳しい能力は不明だが、風を操れるのは確かだ。
「だから、あの人に近づく人はいないみたい。ナイフを隠し持ってるって噂もあるし……」
「……なるほどねー」
「でもね……その事件の前まで、風見先輩は優等生で、今とは見た目も全然違かったんだよ」
「え!? 嘘!?」
「妖研の部長さんと幼馴染みっていうのも頷けるっていうか……」
「ねぇ、その頃の風見先輩の写真ないの?」
「そんなに気になるの?」
「うん!」
「じゃあ、見せてあげる。その代わり──」
「いいよ。代価はきちんと支払うから」
倉持は満面の笑みを浮かべ、携帯のアルバムから一枚の写真を出し、聖海に見せた。
「これが風見先輩」
「……ウソでしょ? 全然違う!!」
妖研の部長は今も昔も変わらず、整った顔立ちのまま、冷たい表情で写真に写っていた。その隣で部長と肩を組み、無邪気に笑っている少年が風見なのだが──彼のトレードマークである赤髪の姿は無く、漆黒の髪が無造作に整えられていた。「生徒会長です」と言われても違和感のない見た目をしている。
「この頃は自分を偽っていたのかもね」
「……そうかな。私には、今の風見先輩のほうが偽っているように見えるけど」
この頃の彼は、きっと人気者だったのだろう。彼の性格からして、人から嫌われるようなタイプではない。むしろ、人を惹き付ける、一緒にいると楽しいタイプだ。だからこそ、今の彼は自分を偽っているように見える。【傷害事件】という背景が、風見が発した【よかった】と繋がっているのではないかと聖海には思えてならなかった。
「立花さんが風見先輩に興味を持っているのは意外だった」
「そう? 図書委員で一緒の時とか、よくお喋りしてるよ」
「え!? そうなの!?」
「うん。すごく面白い人だよ。やさしいし」
「……へぇー」
「内面は、見た目で判断できないって言うでしょ?」
「……それは、そうね」