第98話 峰一郎、破談!
東村山郡での住民運動は事実上終焉し、伊之吉も仙台で捕縛されて裁判闘争も不可能となります。会所の張り紙で伊之吉捕縛を知った峰一郎は、伊之吉へ会うために天童へと駆けて行きます。天童の警察分署に到着した峰一郎は、山形に向けて出発する伊之吉を見かけると、堰を切ったように伊之吉に向けて飛び出して行きます。警察に取り押さえられた峰一郎でしたが、郡書記の和田の計らいで伊之吉との対面がかないました。峰一郎は伊之吉の志を受け継ぎ、裁判の継続を伊之吉に訴えます。
住民運動の火を消さぬよう、伊之吉に成り代わって裁判を続けたいと必死に訴える峰一郎でした。しかし、伊之吉の答えは同じでした。
「だめだ。」
大きく顔を横に振ると、伊之吉は、峰一郎をさとすように話しを続けます。
「お前には学校の勤めがあるべ。お前を待ってくれている村の子供たちがいるでねぇが。お前には、他に果たすべき自分自身の役目があるでねぇが。お前にしかでぎね事があるべ。」
天童の警官に聞いたのか、それとも、久右衛門からなんらかの便りがあったものか、伊之吉は峰一郎が山野辺学校の教師となっていることを既に知っていました。
しかし、今の峰一郎には学校の仕事よりも、伊之吉や久右衛門のために東村山郡の問題に立ち向かうべきことが幾層倍も重要であるとの思いに溢れていました。それが東村山郡住民全体の幸福に繋がる道だとの信念がありました。
そして何よりも大恩のある二人の力となりたい、それが峰一郎の切なる願いでした。
「ほだな仕事なかまね。学校さは、俺の他にも先生が居だ。んだげんど、伊之吉さんの手伝いするいのは俺だげだ。息子どして、婿どして、親の務めば受け継ぐ事こそが、俺がさんなね役目だべ。」
峰一郎は身体をずいっと進めて伊之吉に迫ります。伊之吉は、峰一郎の思いに心を打たれたものか、顔を伏せながら身体を震わせています。そして、その目からは涙のような光る物も見えていました。
しかし、その直後、きっと顔を上げた伊之吉は、厳しい表情を見せ、峰一郎に向かって大音声で吠えたのです。峰一郎にも意外な言葉で。
「思い上がんな、峰一郎!」
伊之吉は大声で峰一郎を叱責すると、峰一郎の返事も待たずに言葉を続けます。
「峰一郎!自分だげが村の役に立づど思うなが、この増上慢が!」
突然、豹変したかのように見える伊之吉の剣幕に、峰一郎は呆気に取られました。
「にさ(お前)みだいな親の言う事ば聞がんね野郎さは、大事な娘ば、けでやらんね!破談だ!」
意外な伊之吉の言葉に峰一郎は目を丸くして驚き、返す言葉も出ません。
「伊之吉さん……。」
かたまってしまって言葉もない峰一郎に対して、伊之吉は嵩にかかって言葉を畳み込ませます。
「峰一郎、にさがほだい情げねえ馬鹿な奴だどは思わねっけ。二度と俺の目の前さ、その汚い面ば見せんな。梅さも二度ど近づぐな。」
ついさっきまでの柔和な顔が、一転して恐ろしい形相となって、伊之吉は峰一郎を睨みつけながら言いました。本当に憎々しげに、峰一郎に向けて言葉を吐き捨てます。
「伊之吉さん……。なしてだ。……なしてや。……伊之吉さん、ほんてんだが、……ほんてん、そだ事、思ってだんだが。」
あまりの伊之吉の豹変ぶりに、峰一郎は訳も分からず頭の中が混乱してしまいました。呆然としながらも、なんとか伊之吉に言葉を返して、その真意を尋ねようとします。
しかし、伊之吉の返答はにべもないものでした。今まで数か月の短い間ではありましたが、その間、峰一郎に優しく教えを説いていた人物と同じ人物とはとても思えませんでした。
「本気じゃ。にさみでな、益体なす、二度ど顔も見っだぐね。縁切りじゃ、にさどは、もう、赤の他人じゃ。」
そういうと、呆然とする峰一郎を尻目に、巡査たちの方に向き直った伊之吉は、声を改めて慇懃に言葉を掛けます。
「お役人様、お手数をお掛けして、みっともない醜態をお見せしました。どこぞの餓鬼か知りませんが、何かとち狂って誰かと人違いしたようです。どうぞ、出発してくださいまし。」
一部始終を見ていた和田は、まるで何事もなかったかのように、巡査たちに出発の下知を出します。
「うむ、そうか。では、出発だ。」
伊之吉が悄然としている峰一郎をそのままに立ち上がると、それを待ちかねたかのように、巡査たちが伊之吉を前後に挟んで出発しました。
「伊之吉さん!」
峰一郎の必死な最後の叫びも、伊之吉には届いてはいないように峰一郎には感じました。
しかし、その時、伊之吉の肩がかすかに震えていたのを、峰一郎には知りようもありませんでした。そして、峰一郎に背を向けた伊之吉が涙をこらえて瞼を閉じていたことも、峰一郎には知る術もありませんでした。
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この12月23日、佐藤伊之吉は山形警察署まで護送されて、以後、連日、厳しい取り調べを受けることとなります。
しかし、この日、天童分署を出立する前、伊之吉のもとをおと訪れた郡役所の役人がいました。誰あろう、伊之吉護送の指揮を執っていた和田郡書記、その人でした。
「……そうですか、峰一郎は山野辺学校の先生になっていますか。」
伊之吉は思いがけず峰一郎の近況を聞くことができて、心なしか嬉しそうな顔をしていました。
「うむ、子供達を相手に日々頑張っているようだ。子供達はもちろんだが、同僚や村の者たちの評判も上々のようだ。あの若さにして、なかなかの俊秀、あれはきっと良い先生になりそうだな。」
和田も峰一郎には一定の好意を持っているようで、楽しそうに峰一郎の話を伊之吉に聞かせたのでした。
「そうですか。……峰一郎が。」
伊之吉は、やや頬を緩ませ、峰一郎の面影を思い出し懐かしむように、中空を見つめていました。
しかし、それに続く和田の言葉は、伊之吉を驚かせるに十分なものでした。
「なればこそ、貴様も分かってくれような。せっかくの将来ある地元の有為な若者の芽を潰すのは我々としても本意ではない。しかし、あの者が貴様たちの使いをして動いていたのは明白。」
和田は伊之吉を一瞥します。一方の伊之吉は、和田の意図を察して、和田を睨み返します。
しかし、和田はそんな伊之吉の視線をせせら笑うように続けます。
「しかも、あの若者が、一回ならず、郡書記への狼藉を働いたのは動かしようのない事実だ。なにせ、二度目の狼藉は、この私が直に見ているのだからな。」
なにも、和田は、伊之吉を喜ばせるためだけに、峰一郎の近況報告をしに来たわけではありませんでした。
勝ち誇ったように冷たい笑いを見せた和田は、そこで間を置いて伊之吉の返事を待ちます。
伊之吉は憤りをたたえた視線を和田に向けたまま答えます。
「それで、峰一郎の身柄の保障と引き換えに……わたしに訴えを取り下げろと。」
伊之吉は、和田が峰一郎の話をした時から、薄々は感じていました。恐らく、峰一郎の安全と引き換えに、自分に訴訟の取り下げを迫るであろうことを察していたのです。
果たせるかな、和田の目論見は伊之吉の察した通りでした。
「……いや、わたしは何も言っておらん。だが、場合によっては貴様の可愛い娘も含めて、あの優秀な若者も捕えなければならぬ。わたしとしても非常に辛いお役目だ。しかし、我々の公務を妨害し、公務中の官吏に対して狼藉に及んだのは事実。……官吏への反逆は、御上への反逆ぞ。」
「なっ!」
伊之吉は和田の強引な論法に半ば呆れてしまいました。郡役所への抵抗が、陛下への反逆だと恥ずかしげもなくすり替えるとは、呆れて物も言えません。
しかし、それこそが当時の体制側の常套手段でありました。彼らはすべからく忠君愛国を口にして、その実、玉座の陰に隠れながら、都合の良い法律を以って反体制側を狙い撃ちし、意図する方向に人民を使嗾するのです。
「私とて子供相手に手荒な真似はいたしたくはない。だからこそ、こうして貴様に相談をしているのだ。時間はたっぷりある。どうしたら良いか、おぬしには、よくよく考えてもらいたいものだ。」
「うぬぬ……。」
伊之吉には逆らえませんでした。全てのイニシアチブは体制側にあるのです。
これが峰一郎と出会う前の、伊之吉と和田とのやり取りの全てでした。
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(史実解説)
近代史に詳しい方ならお分かりかもしれませんが、今回は、和田書記と伊之吉とのくだりで「憲政の神様」と称された尾崎行雄の言葉を一部引用させていただきました。尾崎は、大正元年の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、桂首相を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけを作りました。その時の彼の演説の一部を以下に御紹介します。
「彼らは常に口を開けば直に忠愛を唱え、あたかも忠君愛国は自分の一手専売のごとく唱えておりますが、その為すところ見れば、常に玉座の蔭に隠れて、政敵を狙撃するがごとき挙動を執って居るのである。彼等は、玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか。此の如きことをすればこそ、身既に内府に入って未だ何も為さざるに当りて、既に天下の物情騒然として却々静まらない。」
伊之吉は、裁判の継続を訴える峰一郎に対して、その不可を説きます。しかし、それを聞き入れない峰一郎に対して、伊之吉は厳しく叱責して峰一郎との絶縁を宣言をしました。呆然とする峰一郎を残し、伊之吉は山形警察署へと護送されていきます。しかし、峰一郎は知りませんでした。自らの安全の保障と引き換えに、伊之吉が役人から脅迫まがいの取引を迫られていたことを。




