第97話 伊之吉との再会
全戸長が納付上申書を提出して運動は事実上終焉しました。まもなく、仙台で裁判準備にいそしんでいた伊之吉も宮城警察署から捕縛されて山形へ送られます。会所の張り紙で伊之吉捕縛を知った峰一郎は愕然としますが、親友太郎吉に促され伊之吉へ会うために天童へと駆けに駆けて行きます。渡し守のおじいさんもまた、峰一郎の只ならぬ様子を受け止め、須川を渡してくれました。たくさんの人々の善意を受け、再び峰一郎は東に向かって駆けだしていくのでした。
峰一郎が走る先に山形警察署天童分署の建物が見えてきました。郡役所とは違い、天童分署は木造平屋の作りでしたが、その門前は大きく空間が開けていました。
しかし、その門前には多くの村人が蝟集していました。皆、憮然とした複雑な顔をして、静かに天童分署の門前に佇んでいました。峰一郎も、そこに無言で立ち尽くしているのでした。
そして、その時の峰一郎にはまだ分かりませんでしたが、門前の群衆から離れたところには梅が大きな銀杏の木の陰に隠れるようにいたのでした。
(峰一郎さん……お父ちゃんに、会いに来てくれたんだ。)
それは、あの落合の渡しで郡役所の役人から襲われて虎口を脱出してから、梅が久しぶりに見る峰一郎の姿でした。
(峰一郎さん……。)
梅はすぐにでも飛び出したい思いでした。しかし、その梅の肩をつかんで抑える人物がいました。梅の祖父・佐藤直正です。
佐藤直正は、天童村の戸長をしていると同時に、今回、東村山郡役所の末席郡書記として郡役所に奉職しています。郡書記と言えば聞こえは良いのですが、同時に安達久右衛門の祖父も同じく郡書記として召し抱えられたのですから、住民運動の指導者二人の直系尊属が郡役所に迎え入れられたわけです。詰まる処、これは体の良い人質です。
反抗的な住民の身内からの人質を取るという、いかにも前時代的な感覚も、未だに封建の名残が残っていることの証左でしょうか。つまり、近代国家の洋服をまとってはいても、中身はまだまだ封建国家のままであるということです。
「おじいちゃん……。」
梅は祖父の顔を見上げて何かを訴えるような瞳を見せます。しかし、それに応えるように、直正は優しい瞳をしながらも、ゆっくりと首を横に振るのでした。その直正の優しい微笑みは、梅にはことのほか淋しい笑顔に見えたのでした。
(峰一郎さん……。)
梅は心から恋い慕う峰一郎の後姿を見つめることしかできないのでした。
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峰一郎が天童の分署門前に到着してからどれほど時間が経過したでしょう。村人たちは何かを待っているかのようにひそとも声を上げずに警察分署の扉を見ていました。峰一郎も黙って「その時」を待っていました。
その時です。分署鐘楼の大時計が正午の時報を鳴らしました。
すると、その時報に合わせたかのように、それが鳴り終わるや、分署の正面玄関が開き、中から複数の制服姿の警察官が出てきました。いえ、それは警察官だけではありません。そこには縄をうたれた着物姿の男性や、官吏らしい洋装姿の人物も見えます。その前後を囲むかのように、数人の警官が前後に歩を進めていきます。
峰一郎にはそれが伊之吉であることがすぐに分かりました。そしてその時、峰一郎の足は、頭で思うよりも早く、前に駆けだしていたのでした。
「伊之吉さん!」
気付くと、峰一郎は、咄嗟に群衆の中から飛び出していました。慌てた立哨の警官が門前から峰一郎を追いかけていきます。門前の群衆も、営内の警官たちも、驚いたように峰一郎に顔を向け、訓練の行き届いた警官たちは脱兎のごとく、この不審な若者に群がります。
「何もんじゃ!狼藉もんが!」
伊之吉を囲む警官たちも、片や伊之吉の前に立ち、片や峰一郎の前に立ちはだかり、すぐに峰一郎を取り押さえます。
「どこのもんじゃ!容疑者の仲間か!」
「伊之吉さん!」
「だまれ!不逞の仲間と知れたらただでは済まさんぞ!」
警官たちの怒号と峰一郎の絶叫がこだまします。峰一郎は屈強な警官に組み伏せられて地面に這いつくばりましたが、顔だけは伊之吉の方へ向けていました。その視線の先には、峰一郎を可愛がってくれた優しい伊之吉の顔があります。
突然の騒動に驚いた伊之吉も騒ぐ方向に顔を向けます。果たせるかな、その視線の先には、伊之吉が待ち焦がれた懐かしい若者の姿が見えました。
「峰一郎!」
伊之吉は、峰一郎に向かい、近寄ろうと身体を向けます。しかし、伊之吉は両手を後ろ手に縛られた上に、両腕を巻きこんで、荒縄で縛られ、その縄にまた括り付けた別の縄を、連行する前後の警官がしっかりと握って離しません。そのような状態の中、すぐにでも峰一郎に駆け寄ってやりたい伊之吉でしたが、そこに膝をつくのが精一杯でした。
娘の梅もまた、その峰一郎の飛び出す姿を見た瞬間、矢も楯もたまらず、祖父の制止をも振り切り、群衆の中へを駆けだしていきます。
(峰一郎さん、だめ!いけない!峰一郎さんまでが捕まってしまう。)
しかし、梅は峰一郎のもとに駆けよることはできませんでした。梅の前には大勢の群衆が立ちはだかり、華奢な少女の身体では押しのけて通ることができません。
(峰一郎さん!)
梅は心の中で峰一郎の無事を祈るしかできませんでした。
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その時です、伊之吉の背後から声がしました。
「よい、その青年の身体を放してやりたまえ」
それは、洋装に身を包んだ東村山郡の役人、郡書記の和田徹でした。
「え!し、しかし。」
和田の指示に驚き不審がる巡査に対し、和田は更に言葉を続けます。
「よい、私も見知った身元の確かな青年だ。暴漢などではない。」
しぶしぶと言った体で、押さえつけていた峰一郎を警官が手放すと、峰一郎は脱兎のごとく、膝まずく伊之吉のもとに駆け寄りました。
伊之吉は思いがけない峰一郎の登場に、目に涙を潤ませながら迎えました。
「峰一郎、よぐ、……よぐ、来てけだ。ありがどな。」
峰一郎は伊之吉の前で膝まづきながら、懐かしい大好きな伊之吉の顔を見て、心から嬉しそうに答えます。
「なんば言うべ。俺は伊之吉さんの娘婿だ。息子だ。親の一大事に駆けつけね息子ざないべ。」
それを聞いた伊之吉は弱々しい笑顔を見せながら、つぶやきます。
「んだっけな。俺の娘婿だっけな。」
その伊之吉のしょげこんだような答えには峰一郎も胸が詰まりました。いつも堂々として意気盛んに峰一郎に色んな事を教えてくれた伊之吉とは別人のようでした。しかし、それだけにどれほどの厳しい詮議を受け、どれほどの恥辱にまみれた扱いをうけたものか、窺えようというものです。
しかし、峰一郎はこれまでみんなが努力してきたことを無駄にはできません。その強い思いがここまで峰一郎を奔らせてきたのですから。峰一郎は、巡査や役人が目の前にいる事も忘れて伊之吉に勢いこんで話します。
「伊之吉さん、俺が伊之吉さんの代わりに仙台さ行ぐ。俺がみんなのために裁判ば続げる。しぇえべ。行がせでけろ。」
その言葉に伊之吉は驚くとともに、心からその意気に感動したといっていいかもしれません。まだとても裁判なんてできもしない少年に毛の生えたような者が、それでも自分の代わりに立ち上がりたいという、その健気な心意気には伊之吉も心を打たれるものがありました。役人や巡査の前だからという問題ではなく、その熱意に伊之吉は心から嬉しく思いました。
しかし、……。
「駄目だ。お前には出来ね。行がせらんね。」
伊之吉は、峰一郎の前で首をふりました。
「なしてや。俺は村のみんなのためさ役に立づだい。伊之吉さんや久右衛門おんちゃんの代わりば立派に務める。」
峰一郎も必死です。このままでは、伊之吉や久右衛門が東村山郡住民をたぶらかした山師になってしまいそうでした。今の峰一郎には事の成否などは関係ありませんでした。ただただ、大恩ある二人にいわれのない汚名を着させられないという、必死な思いに突き動かされていたのです。
天童の警察分署に到着した峰一郎は、山形に向けて出発する伊之吉を見かけると、堰を切ったように伊之吉に向けて飛び出して行きます。警察に取り押さえられた峰一郎でしたが、郡書記の和田の計らいで伊之吉との対面がかないました。峰一郎は伊之吉の志を受け継ぎ、裁判の継続を伊之吉に訴えます。




