第95話 住民告知
住民弾圧する県は全戸長に納付上申書提出を強要、運動は事実上終焉しました。一方で、仙台では伊之吉が裁判準備に余念なく、伊之吉は勝利を確信した協力者と祝杯を上げます。しかし、山形警察本署からの協力依頼を受けた宮城警察本署が、遂に伊之吉捕縛に動きます。そして、捕縛された伊之吉は、凶悪犯罪の容疑者としてすぐに山形警察本署へと送られることになり、その知らせは県庁の高木課長・鬼塚警部にもたらされました。
高木課長と鬼塚警部が先行きに希望を見出して愁眉を開いていた時、ドアをノックして改めて電信課の職員が入室してきました。高木課長が電信課を出てすぐあと、宮城上等裁判所よりの電報が着信したようです。
電信課員は、高木課長に電信用紙を渡すと、慇懃に叩頭してドアを閉めました。
「どげんしたとじゃ?」
不審げな顔で鬼塚警部が高木課長に尋ねます。高木課長は口の端を僅かに吊り上げるように笑みを浮かべ、その電信を鬼塚警部に渡します。
「郡役所宛の裁判所命令です。どなたの差し金か、御丁寧に県庁にまで宛ています。」
「なんじゃっど!」
高木課長の手からひったくるように電信を取り上げた鬼塚警部が、食い入るようにその文面に目を通します。
「裁判が結審するまで負担金の徴収はするなとのお達しです。裁判所命令には逆らえませんから、ここは素直に言う通りにいたしましょう。」
「なっ!」
一瞬、絶句した鬼塚警部でしたが、高木課長は笑みをたたえて言葉を続けます。
「裁判所の仮処分命令に随い、負担金徴収は行わないよう郡役所には命じておきましょう。……ただし、住民自ら負担金を持参するにおいては、この限りにあらず、……とね。」
高木課長は鬼塚警部に、珍しく悪戯な笑みを浮かべて話します。つまり、役所が負担金を集め回ることはしませんが、住民が勝手に持ってきたものは受理するというのです。もともと、この負担金自体が住民側からの自発的な寄付行為であるという建前を取っていますから、そのロジックは皮肉ではありますが、その通りのことでした。
「ガッハッハッ、まっこて、高木どんの言わるる通りたい!こいは献納たい!ハッハッハッハッ!それに総代がおらんでは、裁判もお流れたい。ハッハッハッハッ!」
高木課長は再び無表情の顔となって、淡々と自分たちのすべきことに思いを巡らします。
「我々は最初から徴収なんかしてはおりません。すべて住民自身が献納を申し出たことです。……では、天童分署、東村山郡役所と山野辺村の会所に、すぐに張り紙で伊之吉捕縛の告知をしましょう。」
「おお、こいで今回の騒動もようやっとケリがつきもした、お互いにおやっとさあじゃったの。」
二人は心からの喜びを隠そうともせず、問題を解決したことでの笑顔を見せています。彼らには後ろめたさは微塵もありません。彼らにとって国策に殉じた重要な事業に邁進することが絶対的な正義であり、それへの妨害を排除することは正当な公務に過ぎないのですから。
ここにも国にとっての正義、官にとっての正義がありました。
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冬の冷たい日が続きます。山野辺地区もうっすらと雪化粧が施され、村全体が美しく白い衣装をまとってきました。まだまだ道路や庭では地面が見える程度ですが、これから本格的な雪が降ると、積雪は多い年で2mにも及びます。1mも積もれば除雪なぞ追いつかず、人々は雪の中に埋もれた家で暮らし、車などのない時代ですので、雪の上を踏み固めた人道を歩いて往来します。
「峰一郎~!」
山野辺学校に駆け込んできた一人の少年がいました。峰一郎の親友のひとり、垂石太郎吉でした。昼休みに寺の境内の雪かきをしていた峰一郎は、珍しい友人の来訪に驚きました。
「なにしたなや、タロキチ?」
太郎吉は峰一郎のもとに来ると、そのままそこにへたりこんでしまいます。そして、しばらくは息遣いも荒く、なかなか言葉が出てこない様子でした。一体、何が起きたのか。雪のうっすら積もった地面に両手をついた太郎吉の背中を、不審げに、しばらくさすっていた峰一郎です。
しかし、ようやく息を整えると、太郎吉はがばっと上半身を持ち上げ、峰一郎の着物の前合わせを両手でつかみ、峰一郎に迫るように語り始めます。
「峰一郎、伊之吉さんが、伊之吉さんが、……警察さ、つかまた!」
衝撃的な言葉に峰一郎は太郎吉に向かって目を大きく見開きます。
「今、会所の掲示板さ、役人が張り紙しった。」
そう言った太郎吉の言葉が終わるや否や、峰一郎は会所に向かって駆け出し、山野辺学校の間借りしている寺の門を飛び出していきます。そして、太郎吉も走りつかれた足に鞭打って、峰一郎の後に続いて駆けて行きます。
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会所の前には近在の村人が不安そうに集まって張り紙を見ています。しかし、まだ文字を読めない大人も多かった時代です。その張り紙を読み聞かせる者の声もしていました。
「天童村平民佐藤伊之吉、右の者、東村山郡郡内騒擾をした容疑につき、今般、仙台警察本署により仙台立町の潜伏先にて……」
峰一郎が人垣の中、人垣の足元を這い縫って、掲示版の前にやってきます。まだ薄い積雪の地面は多数の村人の足でかき回されてどろどろになっています。しかし、峰一郎はそれに構わず四つん這いになって人垣を縫っていきます。そして、掲示版の前で立ち上がると、その張り紙を食い入るように見つめていました。
「伊之吉さんて、……仙台の裁判所さ行ったんだべ。」
「んだ、天童衆の委任状ばたがて、裁判ば起ごしったって聞いだべ。」
(たがて=持って行って)
「仙台の警察さ捕またのが?」
「これだど、今日中に天童の分署さしょっぴいで来るみだいだべ。」
「やっぱり、役所さ、金、払わんなねんだべずね。」
「土台、役所さかなうわげないのっだな。高楯の久右衛門から、おらだも乗しぇらっだのだず。」
「西郡だが北郡だが、なんぼが肩代わりしてけるみだいな話しもねっけが?」
「役所さ逆らたがら、ほだな話しもなぐなたんだべした。」
「バガみだぐすっさげだ。久右衛門から、おらだも騙さっだのっだな。」
「庄右衛門さんどごの孫さなっから、あんまり言わんねべした。調子こいだのっだず。」
「少す賢いからて、分がった振りして、お役所さ逆らたがらっだな。」
村人たちが大声で噂話をしています。村人としては、負担金を支払わねばならないのかどうか、それだけが気がかりでした。天童村の伊之吉が逮捕されようがどうか、それはどうでも良かったのです。その結果として裁判を通して郡の徴収がなくなるかどうか、それが大事なのです。
しかし、この告知で裁判を進めていた人物が逮捕されたとなれば、あとは誰が裁判を進めるのか、それとも裁判はできないのか、それでは負担金はそのまま支払わねばならないのか、そういう堂々巡りの果てに、自分たちの憤懣を高楯村の安達久右衛門にぶつけていただけのことでした。
最初からかなう筈もないのに、久右衛門のせいで村人達が良いように乗せられた……役所に逆らったから西郡の肩代わりをしてもらえなくなった……山野辺村の大地主の孫だから誰も反対もできないのをいいことに調子に乗りすぎたのだ……少々学問が出来るからと何でも物知り顔で役所に逆らった結果がこれだ……と。
噂とはすべからくこういうものです。すべてが事実とは違っていても、現実に不満を持つ民衆は、どこかに憎しみのはけ口を求めているのです。官に対して自分たちの運動が無力であったと思い知った時、そのはけ口がどこに向くかは自明のことでした。
(やめろ!やめろ!久右衛門さんは、みんなのために必死で頑張ったんだ!おまえたちのために久右衛門さんは自分の財産も捨てて頑張ったんだ!誰が久右衛門さんを責められるというのだ!)
峰一郎は、背後から聞こえる村人たちの心ない噂話に、ブルブルと震えながら必死に耐えていました。大声でその大人たちに言ってやりたいと思いましたが、尊敬する久右衛門の笑顔を思い出しながら、必死にこらえていました。
その時、峰一郎の脳裏に、東子明塾の恩師・東海林寿庵先生の穏やかな笑みとともにその優しい言葉が蘇ってきました。
(『行蔵は我に存し、毀誉は他の言』……行うのは我、誉める貶すは他人。行うかどうか決めるのは自分、やったことの責任も自分にある。それを誉めたり、けなしたり、批判するのは他人の自由、……自分は自分の決めたことをやる、批判するのはどうぞご勝手に、ということだよ)
峰一郎の頭の中に、東海林寿庵から教えられた勝海舟の言葉が延々と繰り返されます。しかし、それでも峰一郎の瞳からはひとりでに涙が溢れてきました。
(……そうだよね、寿庵先生。久右衛門さんは自分に信念を持ってやったんですよね。村のために自分が決めてやったことに、悔いを持ってはいけないんですよね、寿庵先生。……でも、でも)
峰一郎は、自分の思いを堪えるかのように、その拳をギュッと握りしめたまま、立ち尽くしていたのでした。
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(史実解説)
仙台から山形に連行されるについて、天童分署で一泊したかどうかは分かりません。そのまま山形警察本署に直行させた可能性も高いですが、当時の考え方として、住民への見せしめ、住民が役所にしたがうように仕向ける目的でさらし者にした可能性も十分に考えられます。そこで、会所での告知という状況を設定し、峰一郎がそれを目にするという場面を描きました。
裁判所の仮処分命令が実際にいつ出たか、それは定かではありません。前の話しで述べましたように、告知の形で天童の住民たちへの知らせはなされましたが、その後、正式な裁判所命令の有無については不明です。伊之吉捕縛の時点でまだ発出されていなかったならば、命令自体が宙に浮いた結果、発出そのものがなかったことも考えられます。今回の話しでは、皮肉な結果ではありますが、伊之吉捕縛と時を同じくして裁判所命令が出たものといたしました。
県庁で伊之吉捕縛の知らせを受けた高木課長と鬼塚警部の元に、皮肉にも裁判所からの仮処分命令が届きましたが遅きに失しました。一方、会所での張り紙で伊之吉の捕縛を知った峰一郎は愕然とします。村の人々は役所に逆らった伊之吉や久右衛門の愚かさを評判をしていますが、村のために尽力した二人を知る峰一郎は、その噂話への悔しさに立ち尽くすのでした。




