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第94話 伊之吉捕縛

 住民運動に弾圧で応えた県は全戸長に負担金納付上申書提出を強要し、運動は事実上終焉を迎えます。郡役所には新郡長が着任し、威圧政策を推進して郡内各所に悲惨な状況があらわれる中、三島県令はいよいよ最後の命を下します。仙台では伊之吉が裁判準備に余念がなく、また裁判所の仮処分命令の発出も間近となります。仙台での潜伏先に帰った伊之吉は、勝利を確信した仙台での協力者と祝杯を上げ、懐かしき故郷の愛する娘を夢の中に思い描くのでした。

 夢にまどろむ伊之吉は、瞼の裏で愛する娘と邂逅しています。梅は変わらず可愛い笑顔を見せていましたが、しかし、ふいに梅の姿が小さく遠ざかっていくように見えます。


(梅、どさ行ぐ。まだ行ぐな。ちょどしてろ。)

※「ちょどしてろ」は「そのままその場所に留まっていること指図する命令形」で、騒いだり落ち着きのない子供に対して、親がそれをたしなめる際によく使われます。「そこにいなさい」「じっとしていなさい」「おとなしくしなさい」等。


 すると、今度はどこからか野良犬の鳴き声のようなものまで聞こえてきます。伊之吉は、それが梅を遠ざけさせようとしているもののように思えて、憤りをあらわにします。


(うるさい、野良犬め、あっち行け。梅、うめ~!)


 その時です。玄関の方角から、(カタン!)という、何かが落ちたような音がしました。


 その瞬間、伊之吉はパッチリと目を見開きました。夢ではない現の音、しかも、狭い家の中で伊之吉の寝ているすぐそばから聞こえた物音でした。静かな暗闇の中で、その物音は小さいながらもはっきりと聞き取れたのです。


 それは玄関から聞こえてきた物音でした。引き戸につっかえをしている棒、いわゆる用心棒ですが、引き戸の隙間から差し入れられた薄く長い板状の物でそれが弾き落とされ、土間に転げる音を発したのでした。


 すると突然、大きな物音とともにガラリと引き戸を開ける音がすると、やにわに複数の男たちの足音と大声が沸き起こります。長屋の中に乱入して来た男たちに対して、すぐに飛び起きた伊之吉でしたが、時既に遅く、男たちに抑え込まれます。


「おとなしくせえ!警察だ!」


「何事だ!勝手に民家さはいっどは、いがに警察でも横暴だべ!」


「手向かいいたすな!」


「人違いだべ!なんじゃ、お前だ!放せ、放せ!」


 伊之吉は、あっという間に制服姿の複数の巡査にのしかかられ、身動きもできないように押さえつけられました。伊之吉はあらん限りの大声で抵抗しますが、誰も彼を助けられる者はおりません。襖を開け放たれた奥の間では、突然の騒ぎに泣き始めた幼子を震えながら抱きしめる総之助夫婦がいました。


「はよう、縄、打て!縄!」


「なにしった!人違いだ!警察だがらて、こだな事、許さんね!」


 伊之吉の叫びも空しく、巡査たちは伊之吉をぐるぐる巻きにしています。


「貴様が山形県で暴動を扇動しちょった凶悪犯だというのは、もう山形から知らせがきて、全部、ばれちょる!騒いでも、どうにもならんぞ!」


 伊之吉は愕然としました。つまり自分は犯罪者として広域手配をされている立場にあるというのです。しかも、身に覚えのない暴動の首魁として。


「ばがな事ば言うな!俺がいづ山形で騒ぎば起ごした!いい加減な事ば言うな!」


「次は仙台で騒ぎを起こそう言うても無駄じゃ!お前はすぐに山形の警察署に送って、向こうでしっかり吟味してもらうからな!」


「俺は裁判しに来ったんだ!仙台で騒ぎなんか起ごさね!代言人の先生ば呼んでけろ!遠藤先生さ聞げば分がる!」


 もはや何を言っても信じてもらえそうにもありません。代言人の先生の名前も出しましたが、もちろん、のれんに腕押し、糠に釘、巡査の耳には届きません。


「下手人てのはみんなそう言う。我が身かわいさで、どんな嘘でも平気で言う。いい加減な事ばかり言うな。」


 その巡査にしてから、代言人の先生のことも苦し紛れの嘘としか思っていないようです。


「山形の鬼塚警部殿からの直接の捜査依頼じゃ!松平県令閣下からも不逞の輩を早々に捕縛せよと直々に命令が出ちょる!貴様、よっぽどの悪事を働いたようじゃの。」


「県警本部と県令閣下のお偉いさんからの指図じゃ、もう、言い訳は通用せんぞ!おとなしく観念せい。」


 巡査だけでなく、官吏というものは、目の前の平民の言葉よりも、上司の言葉が絶対的な真実であり、上司の命令は絶対です。ましてや、隣県の警察トップや自分たちのトップである宮城県令・宮城警察本署の言葉は、もはや天の声です。伊之吉が何を叫ぼうとすべては徒労にしかならないのです。


 伊之吉は遂に観念しました。恐れてはいましたが、役所がここまでの強硬策に踏み切るとは……。自分の心のどこかに、まさか役所がそこまではしないだろうという油断がなかったとは言い切れません。しかし、すべては遅すぎました。警察が一旦拘引した者を簡単に解き放すなど有り得ません。


(くそう……、ここまで来て……、あと少し……、もうすぐ、裁判が始められたのに……、裁判さえ始められたら……、みんな、すまねぇ。……梅、……峰一郎、すまねぇ。)


 悔いても悔やみきれない伊之吉であり、心の中で詫びることしかできませんでした。


**********


 12月22日早朝、冬の冷気が東北の街を凍らせ始める中、山形県庁の一室では、電報室からの知らせを受けた高木課長が電信片を片手に握り、鬼塚警部に語ります。


「警部、仙台から電報です。高崎警部がやってくれました。昨夜、宮城警察本署が佐藤伊之吉の拘禁に成功したようです。今早朝、既に仙台警察本署を出発し、こちらに向かっています。」


 仙台の高崎警部とは仙台警察本署の高崎親章警部のことであり、彼もまた、三島県令や高木課長・鬼塚警部と同じ生粋の元薩摩藩士でした。


「ちぇすと!遂にやったか!散々ようも振り回してくれたもんど、こいでしまいじゃ。部下ばさいて仙台に待機させとった甲斐がありもしたわ。あ~はっはっはっはっ!」


「さすが警部、手回しの良いことで、早朝にあちらを出立したなら、山間部の積雪もまだ深くはありませんから、早ければ昼過ぎには天童の分署に到着するでしょう。」


 戸長たちを抑え込んだ今、この原告総代人たる佐藤伊之吉を拘禁して、原告側住民たちと完全に分断すれば、この混乱した事態は完全に収束します。それが彼らの狙いでした。


 既に東村山郡の戸長たちは郡役所への上申書を提出していますし、これにより実質的な反対運動は事実上の終焉を迎えました。


 しかし、伊之吉への委任状は、住民個人がそれぞれに委任をした形式となっています。つまり、組織的な反対運動が崩壊していたとしても、裁判所に提訴した事実はまだ有効なのです。伊之吉が遠藤代言人に語ったように、一人でも法廷闘争を継続する者がいれば裁判は成立するのです。


 仙台にいる伊之吉と東村山郡に残る住民たちは、既に冬の雪に覆われた奥羽山脈によって、物理的には分断されていました。しかし、伊之吉が仙台において裁判の準備を進めている、また、法廷で県側と堂々と争っている、そのようはに住民側が受け止めている限り、東村山郡下における住民原告団の完全な解散は望めません。その上で裁判が粛々と進められれば、県側の不利は免れないのです。


 しかし、伊之吉が捕縛されたとなると、いかな頑迷に抵抗する住民でも、否応なしに事態の変化を認めざるをえないでしょう。つまり、心理的にも完全な分断が成された結果、原告団は完全に瓦解するのです。


「すぐでん、伊之吉を山形に……、いや、まずは天童の警察分署に留め置いて、住民に広く捕縛の事実を知らしめれば、住民共も、もうこれ以上の抵抗が無意味だとあきらめもつきもんそ。」


「そうですね、縄を打たれて連行される伊之吉の姿を眼前にすれば、委任状を出していた住民たちもあきらめがつくでしょう。なにより、総代人がいないのでは、もはや裁判にはなりません。もし、仙台の代言人がなにやらほざいたとしても、あれは暴徒騒擾の凶悪犯であると突っぱねればいいだけです。」


 勝利の確信に、高木課長や鬼塚警部の声も喜びに満ち溢れています。彼らの喜びを表すかのように、常に端的な言葉づかいの高木課長が、珍しく饒舌に話していました。


 そして、鬼塚警部が言ったように、この策の総仕上げとして、伊之吉の捕縛を、東村山郡下全域に知らしめなければなりません。つまりは官に逆らっても無駄であるという見せしめです。これにより、郡役所への抵抗の無意味さを住民に思い知らせる必要があるのでした。


 遂に、東村山郡住民の最後のかすかな希望の火が、官の大きな権力によって消し去られたのでした。


**********


(史実解説)


 12月21日、仙台立町の出羽総之助宅に滞在中の佐藤が宮城県警察本署に拘引された件は、22日付両羽日日新聞にその記述があります。逮捕時の模様、逮捕の時間等の詳細については不明です。また、罪状その他についての詳細についての説明もなく、当然ながら、原告総代と住民との分断をはかる県側の政治的な意図にもとづく不当逮捕であることは一切報道されてはおりませんでした。

 三島県令の手は、奥羽山脈を越えて仙台の伊之吉の身にまで及びます。山形警察本署からの協力依頼を受けた宮城警察本署が、遂に伊之吉捕縛に動きました。そして、捕縛された伊之吉は、凶悪犯罪の容疑者としてすぐに山形警察本署へと送られることになり、その知らせは県庁の高木課長・鬼塚警部にもたらされました。

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