第93話 住民勝訴への道程
裁判へ進む住民運動に県は弾圧で応え、全戸長は負担金納付上申書提出を強要され反対運動は事実上終焉を迎えます。郡役所には新郡長が着任し、力による威圧政策を隠そうともせず、郡内各所には悲惨な状況が各所にあらわれます。事態の順調な推移を受け、三島県令はいよいよ最後の仕上げを下します。仙台では、伊之吉が代言人と裁判準備に余念がありません。裁判での勝利は確実と思われる一方、住民達が弾圧を受けている現状を知るに及び、伊之吉にも不安が募ってきます。
伊之吉の決意に理解を示しながらも、遠藤は話しを返します。
「もちろん、伊之吉さんの事は信頼しています。しかし、この裁判は何千人という住民がまとまって原告団を組織し、行政政庁たる郡役所を訴える、その意味で、今までの裁判の概念を一歩も二歩も先取りした画期的な裁判なのです。」
遠藤はこの裁判の重要なる意義を説き起こします。
「それに、郡長を相手取るとは言いながら、今回の実質的な被告は山形県令です。公家上がりの五條為栄などではなく、薩長藩閥政府に連なる重要人物・三島通庸その人なのです。これは即ち、現在の民権運動にも大きな影響を及ぼす歴史的な裁判となります。」
遠藤は、自らの民権論的政治思想に醉うが如く、自らの言葉に熱を帯びて話しを続けます。
「であるがゆえに、数千人規模の前代未聞の大原告団であることが大きな意味を持つのです。薩長藩閥政府が現に行っている地方行政に対して、多数の住民が異を唱え、司法が法律に基づき違法の審判を下すのです。日本中の民権家がこの裁判に刮目し、その判決に時代の転機を感じ取るのです。だからこそ、この裁判は文明的であり進歩的なものなのです。」
遠藤の熱情もまた、伊之吉のそれに劣るものではありませんでした。伊之吉もまた、彼の熱情を受けて切実なる願いを語ります。
「なればこそ、裁判所の仮処分命令を早くお願いします。」
係争中の事案として、住民に対する役所の圧力を少しでも減らしてやりたい、それが伊之吉の切実な願いでした。
しかし、既にこの時点で、東村山郡内の全戸長は役所の軍門に降っていたのでした。更に、直接に相手取った五條為栄郡長という被告は、既に東村山郡役所の中には存在していなかったのです。
その事実を、まだこの時は知りようもない二人でした。
「まったく役所の仕事の遅さだけは幕府の時代から変わりませんが、……お待たせしました、二、三日中には裁判所から徴収停止の仮処分命令が郡役所に届く手筈です。」
その言葉に伊之吉は文字通りに飛び上がって喜び、遠藤の両手をつかんで身体全体で嬉しさを表しました。
「おお!それは良かった!」
伊之吉は子供がはしゃぐかのように、遠藤の両手をしっかとつかみ、何度も何度も上下に振り続けていたのでした。
(これで宇左衛門の苦労を軽くしてやれる、久右衛門さんにも喜んでもらえる。みんな、もう少しの我慢だ。今日、明日を、どうか辛抱してくれ。)
伊之吉は、遠く天童の村々を思い、心からそう願うのでした。
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明治13年12月21日夕刻、遠藤代言人との打ち合わせを済ませ、また、裁判所の仮処分命令の見通しが立ったことで、気持ちも晴れやかに、佐藤伊之吉が、仙台の仮住まいとしている仙台立町の長屋に戻ってきました。
そこは出羽総之助という元仙台藩下級士族の家で、遠藤代言人の依頼で伊之吉を匿っている協力者の住まいでした。
そこは、土間から上がってすぐに四畳半の小部屋があり、奥の襖を隔てて次の間の四畳半の小部屋が続いて、その奥にまた土間があり、その土間に竃・流し・水甕・勝手口を備えた台所機能が備わっています。簡素ながらも、標準的な長屋造りになっていました。
下級士族とは言え、御内儀の性格が行き届いた空間は、何もないながらも綺麗に整頓がなされていました。しかし、家族は既に奥の間で床についているようで、襖の奥からは子供たちの寝息が聞こえています。
「伊之吉さん、首尾はいかがでした?」
長屋の引き戸を開けて、伊之吉が土間に足を踏み入れるや否や、待ちかねたように室内から総之助が声をかけます。
伊之吉は生返事を返しながら、しぱらく戸の隙間から外の様子を窺い、ようやく安心したように上がり框に腰をついて草鞋をほどきます。伊之吉は代言人との打ち合わせの帰り道には、官憲の尾行がないかどうか、回り道をしながら、いつも注意深く神経を研ぎ澄ましていたのでした。
「遠藤先生のお陰で、なんとか裁判所の仮処分命令が出そうです。それも間もなく、明日か、明後日中に。」
部屋に上がった伊之吉は、笑顔で総之助に報告をします。
「おお!それは重畳!これで村の皆さんも役所の不当な取り立てに怯えずに済みますね。本当にそれは良かった。」
総之助はわがことのように喜びをあらわにします。
「これも皆、総之助さんやご家族の皆様が、わたしを匿ってくださり、仙台の不慣れな土地でも動きやすいようにお骨折りくださったお陰です。ありがとうございます。」
「いやいや、それもこれも世の中の正義を糺すためです。威張りくさった増長慢の薩長を百姓平民が懲らしめる、あの西郷さんでも出来なかったことをやる、こんな痛快なことはありません。我々仙台の士民も伊之吉さんの後に続き、宮城県令松平正直の肝を冷やしてやりましょう。御親藩福井松平家の一門でありながら、徳川を見限って薩長に尻尾を振る犬めに、目にもの見せてやりますよ。」
県令の松平正直の出自は福井松平家です。徳川幕府の縁類の松平家であるだけでなく、その当主松平春嶽は幕府の政治総裁職を務めて、かつての大老さえも凌駕する権限を持ちながら、最後には幕府を見限って薩長に組し、今や維新政府で重きをなしています。
松平正直自身も春嶽公の用人を務め、源太郎を名乗っていた当時、坂本竜馬が福井に来た折りに竜馬本人と面談した人物です。戊辰戦役では会津征討越後口軍監として会津攻めに参陣し、維新政府では内務省が民部省と呼ばれた時代から内務畑を歴任し、明治11年に宮城県令として赴任してきました。
どこまでも徳川幕府に殉じて、奥羽越列藩同盟の盟主として維新政府に抵抗した仙台藩伊達家中の者にとって、現在の松平県令は、幕府を裏切って薩長に擦り寄った卑劣な変節漢というイメージがどうしても払拭できないのでした。
総之助は前祝いとばかりに伊之吉に盃を勧めます。伊之吉もまた、この日ばかりは緊張の糸が切れてしまったようです。これまでが故郷の状況を案じている日々が続いていただけに、久しぶりの朗報につい気が緩んでしまったようです。
塩気の強い東北の漬物を肴に、二人は早めのささやかな祝杯を上げました。伊之吉は、久しぶりの酒に気持ちよく眠りに入ったのでした。
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日頃の緊張感からくる疲れか、対して深酒もしない内に、伊之吉はそのまま眠り込んでしまったようです。
総之助は、伊之吉に上掛けをかけると、行燈の灯を消して、妻子の寝ている隣の部屋に行きました。天童村に比べればいかに雪の少ない仙台とは言え、寒さの厳しい奥羽の地にあって、既に師走も間近の12月の下旬は真冬です。
七輪の時折パチパチはぜる音の中、隣から聞こえる子供たちの寝息を子守唄に、伊之吉は久しぶりの心地良い眠りに入ろうとしていました。夢の中で愛する娘と出会うことを心待ちにしているであろう伊之吉でした。
まもなく、とろとろとまどろむ伊之吉の瞼の裏に、最愛の娘の姿が現れてくることでしょう。
(梅、おっとうだ。元気にしったが。爺様、婆様、おっかあ、みんな元気に仲良ぐしったべな。)
瞼の奥に見える娘は、無言のまま伊之吉に微笑みを返します。
(峰一郎ど添わせでやっでぇな。……梅、お前も、峰一郎ば好ぎだべ、おとうには分がてっぞ。峰一郎さだば、お前ば、けでやても、しぇえな。天童さ帰たら、お前だのむがさり、挙げでやっでぇな。)
※「むがさり」は、祝言、結婚式の意。
伊之吉は一般的な親として、娘の幸せな将来を願うただの平凡な一人の父親でした。僅かひと月にも満たない別れではありましたが、もう、長く一年以上も愛する娘と会っていないような気分です。今のこの仕事を終えたら、懐かしい天童村に飛んで帰り、愛する娘をこの腕で抱き上げたい、そう願う伊之吉でした。
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(史実解説)
出羽総之助という人物について、詳細は不明です。「でわ」の読み方の場合には、旧国名の関係から山形県・秋田県由来の可能性が高く、「いずは」と読ませる場合には山口県・島根県の地名に由来している場合が多いようです。この姓を「でわ」と呼ぶ場合、歴史上の有名人に「出羽重遠」という明治の海軍軍人がいます。彼は日清日露の両戦役に第一線で活躍した人物ですが、彼の出自は会津藩士です。宮城県にも少数ながら出羽姓が確認されますので、本編では素直に元仙台藩士といたしました。旧山口藩士、もしくは旧会津藩士とした場合には非常に興味深い話しになりそうな期待が膨らみましたが、どうしても他に彼の存在を示す資料が見つけられませんでした。もっとも、仙台藩の姓名録には見当たりませんので、下級士族といたしました。
ちなみに、「民部省」という聞き慣れない役所名が登場しますが、この役所は内務省の前身といえる役所です。明治2年、民部省と大蔵省が合併し、内政・財政を一手に握る強大な権力が集中した中央官庁が出来、木戸孝允の支持のもと、大隈重信・伊藤博文・井上馨などの開明急進派がその首脳部を占め、広大な権限のもとに開明的施策を推進しようとはかります。しかし、この急激な開明政策の推進は地方の実情にはそぐわないとして、地方官には不評でした。明治3年、その声を背景に緩やかな改革を目指す漸進派の大久保利通・広沢真臣・副島種臣らが民蔵の分離を主張します。結局、大隈重信の参議登用という妥協が成立して、民蔵分離が実現します。この一連の政争は民蔵分離問題として歴史に記録されます。大蔵省分離後の民部省は、殖産興業政策を推進所管する工部省を更に分離して、残余の政務は大蔵省に吸収、再合併されて消滅します。その後、プロイセン等を手本とした強力な内行政全般の所管官庁として、明治6年、大久保利通が内務省を設立しました。内務省は戦後のGHQによる解散まで存続し、現在は総理府・警視庁など、各省庁に所管事務が分割されています。
今回の裁判の意義を説きおこす遠藤代言人より、裁判所の仮処分命令がまもなく出ると聞かされた伊之吉は愁眉を開きます。用心深く仙台での潜伏先に帰った伊之吉は、裁判での勝利を確信した仙台での協力者と一足早く祝杯を上げました。そして、心地よく眠りについた伊之吉は、懐かしき故郷の愛する娘を夢の中に思い描くのでした。




