第91話 高橋弥四郎の苦悩
裁判へ進むかに見えた住民運動を、県側は弾圧で裁判自体の不成立を狙い、荒谷村民の誓願を県警が力で鎮圧し、郡役所は警察力を背景に住民達を切り崩します。12月の戸長会議で戸長は負担金納付上申書提出を強要され、ここに関山新道建設負担金反対運動は事実上の終焉を迎えます。久右衛門始め各村戸長は自らの責任において代納せざるをえませんでした。一方、郡役所では新郡長が着任して、早速に郡役所の警備体制の強化を図り、力による威圧政策を隠そうともしませんでした。
峰一郎の家は、親子で学校の教師をしているとはいえ、暮らし向きはそれほど楽ではありません。峰一郎の曾祖父に当たる初代久左衛門が本家から独立した際に分けてもらった田畑もある自作農でもあり、家族がなんとか食べていけるだけの糧はあるものの、江戸時代後半から浸透している貨幣経済は、御一新での租税金納化で一層進展し、各家庭の家計を苦しめていました。
峰一郎の家は、自作農でもあっただけまだましな方でしたが、近隣の山野辺村・大寺村・深堀村・根際村など、どの村も似たり寄ったりの苦しい状況でした。
そんな中、峰一郎をかわいがってくれていた山野辺学校の高橋弥四郎が、この数日、様子が変なことに、峰一郎も気付いて気にしていました。子供が大好きな弥四郎は、毎朝、登校する子供たちに大きな声で元気に挨拶を交わし、学校でも子供たちとよく走り回って遊び相手を務めていました。それが、この数日、どうしたことか心ここにあらずの様子でした。峰一郎は、従兄の貞造先生にも尋ねましたが、貞造先生にも心当たりがありません
12月19日のことでした。峰一郎は夕餉を終えた囲炉裏端で、父の久に思い切って尋ねてみました。
「おとう、弥四郎先生の事だげんど……、最近、元気がないみだいだべ。今日は学校も休んで来ねっけし、何があったんだべが……。」
しばらく、考えあぐねる風の父でしたが、意を決したかのように、峰一郎に顔を向けると答えてくれました。
「お前も同じ学校の同僚だがら、親子でねぐ、同僚どして話しても差し支えねえべな。んだども、教師だば子供さも周りさも常に公正でないどわがらね。んだがらて、不確かな話しで迂闊に人の評判ばしてはならね。ほれば分がた上で聞げ。」
「はい。」
父が自分を一人前の大人として扱ってくれたことに真摯に答えるべく、峰一郎は神妙に返事をしました。しかし、そう前置きをして話しをしてくれた父の話しは峰一郎を驚かせました。というのも、そこにも関山新道の問題が密接に絡んでいたからでした。
元々、高橋弥四郎は、前にも述べましたように、山野辺村の隣村である深堀村の戸長を務めていました。そして、子供の教育に熱心な弥四郎は、深堀村戸長を務めながら同時に深堀学校の世話掛を兼務していました。しかし、その後、深堀学校は運営に行き詰まって閉校となり、学校は山野辺学校に吸収されます。その際、弥四郎は戸長の座を後進に譲り、自らは山野辺学校の学務員となって学校教育に身命を捧げたのでした。
この時、弥四郎から深堀村戸長の職務を託されたのが鈴木助十郎という若者でした。彼は勤勉な自作農ではありましたが、他の村の一般的な戸長のような地主でもありませんでした。しかし、弥四郎が戸長の時から用掛として弥四郎の補佐を務めて来た有能な若者でしたので、弥四郎も彼に村民の暮らしを託すのにまったく不安を感じることはありませんでした。
そこへ降って湧いたのが関山新道建設負担金反対運動でした。決して豊かではない深堀村でしたから、鈴木助十郎戸長もまた安達久右衛門らの運動に参加し、全住民の8割に当たる154戸の委任状を取りまとめます。そして、久右衛門や伊之吉の活躍で、住民の主張は郡役所の主張を圧倒し、更には仙台裁判所への提訴にも成功し、法律にのっとった合法的な住民運動には成功の道筋が見えていました。
しかし、住民運動の最終局面で、県庁と郡役所は非常なる強硬手段に訴えて、住民への力による弾圧を開始したのです。どこまでも法律に拠って立つことを方針としていた住民運動は、権力による力の行使の前に脆くも崩壊せざるをえませんでした。そして、先日の12月8日、郡内全戸長は自ら負担金を納付する旨をしたためた上申書を郡長に提出したのでした。
その上申書の内容が問題でした。そこには11日までに期限を切った納付義務が明記され、更に、村民が不納の場合は戸長がその責任において代納することも併せて明記されていたのです。多少の蓄えを有していた高楯村の安達久右衛門であっても家財を売却して村民の代納を行わざるを得ませんでした。まして、弥四郎の後を受け継いだ助十郎にそんな蓄えのあろう筈もありません。
それが高橋弥四郎先生の苦悩の根源だったのです。弥四郎もまた助十郎への協力を惜しむものではありませんでしたが、戸長としての責任感の強い助十郎は、村民のために金策に走り回っていたのでした。将来頼もしい有能な若者として後事を託した弥四郎でしたが、それが却って彼を塗炭の苦しみに追い込んでしまった結果となり、弥四郎は悔やんでも悔やみきれず、胸が千切れそうな思いに苛まれていました。
「そんな……。」
その話しを父から教え聞かされた峰一郎には言葉がありませんでした。
(俺がもっと伊之吉さんの手伝いを続けていれば、きっと郡の人達は団結を固くして、役人達に法律を守って、もっと話し合いができたんじゃないだろうか。そうしたら、弥四郎先生も苦しむことなんてなかったんじゃないだろうか……。俺は、俺は、本当にこのままで良いんだろうか!)
峰一郎は、心から慕う弥四郎先生のことだけに、まるで自分のことのように身につまされ、自らに責任を感じ、深い悲しみに包まれてしまいます。
「弥四郎先生は、いだぐ責任ば感じでな。したば、助十郎さんは天童の金貸しさ48円もの借用ば頼んだそうだ。弥四郎先生も我慢さんねくて、ほさ同道して頼み込みさ行ぐて、今日、学校ば休みもらて天童さ行ったなだ。夕方、ちぇっと学校さ顔出したがら聞いだら、天童の方も事情ばよく分がてけで、無利息で受げでけだそうだ。」
最終的に金策が出来たということを聞いてほっとする峰一郎でしたが、事実はもっと厳しいものでした。
弥四郎は他の先生方に余計な心配はかけまいと詳しくは話しませんでしたが、実際に負担金を工面しなければならない苦労は深堀村だけではなく天童村も同じことで、天童村の人々も金策に喘いでいるのです。ですので、この借用もまったく一時的なもので、僅か一ヶ月のみの借用期間でした。つまり、一か月後には返済する約束での一時的な無利子借用であり、金策の根本的な解決にはなっていないのです。
父親の安達久もそこまで詳しくは知らないことであり、弥四郎の悩みは当分は続きそうでした。
しかし、表に出ている現象に違いはあれど、郡内のどの村でも状況は同じようなものでした。郡民等しくこの降って湧いた負担金に喘いでいるのです。もちろん、西郡議員団の提案した一万円肩代り案なぞ、最初からなかったものとして、中山新郡長始め郡役所は知らぬ存ぜぬを決め込んでいます。
「峰一郎、お前はたくさんの人だがら色々ど学ばせでもらた。お前の目さは、まだまだ世の中の理不尽な事ばり映ってだがもすんね。んだども、これがらは今まで見聞きした事ば糧に、自分で考え、自分の歩ぐ道ば自分で決めねばなんね。」
「はい。」
峰一郎は神妙に畳に両手をつき、答えます。
「うむ。ほいが、今までお前さ教ぇでけだ方々さ報いる唯一の道だべ。」
これからの厳しい暮らしを暗示するかのように、冷たい北風の風を巻く音が戸外からしてきます。東村山郡に、もうすぐ厳しい冬が訪れます。まもなく、雪が降り始めることとなるでしょう。
しかし、東村山郡住民の唯一の、そして最後の希望はまだ消えていませんでした。それは、仙台で法廷闘争に備えて準備を進めているであろう佐藤伊之吉の存在でした。
今、伊之吉はどうしているのか?仙台での裁判はうまくいっているのか?そして、天童村の梅は無事に暮らしているのか?久右衛門さんや弥四郎先生のことが心配になっている今でも、折に触れて、どうしてもそれが気がかりになってしまう峰一郎でした。
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(史実解説)
深堀村戸長鈴木助十郎の金銭借用証文は、実物が貴重な歴史資料として現存しています。上納期限も既に過ぎており、関係者達の身悶えする苦しみや悲しさが行間から読み取れる生々しくも貴重な歴史の一次資料です。しかし、これと同じような苦労や、それ以上に悲惨な状況が、東村山郡内各所であったであろうことは想像に難くありません。
『深堀村戸長鈴木助十郎、郡役所の強硬な納入督促に、借用して代納した借用証書』
『拝借証券
一銭印紙四枚
一金四拾八円拾弐銭六厘、但、無利息相対
右者、関山新道開削費上納期限モ、既ニ過キ去リ上納方差悶候ニ付、前書之金員正ニ拝借仕処確実也。然ル上、返済之義ハ十四年一月十五日限リ取立屹度返済可仕候。為後証拝借証券差上申処仍テ如件
東村山郡深堀村
借用人鈴木助十郎
明治十三年十二月十九日
天童村佐藤官兵衛殿』
各戸長の責任において戸長代納までもが強要される事態となって、元深堀村戸長であった高橋弥四郎は、村の世話を託した後任の鈴木戸長に対する道義的な責任を深く感じていました。そして深堀村では天童の金貸しに借用せざるを得ない状況にまで追い込まれてしまいます。その事情を父から聞かされた峰一郎は、自らの及ばぬ力を不甲斐なく思うとともに、天童の伊之吉や梅の無事を祈らずにはおれませんでした。




