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第90話 戸長代納

 住民運動は裁判へ進むかに見えましたが、県側は弾圧強行で裁判自体の不成立を狙い、荒谷村民の誓願を県警が力で鎮圧します。郡役所では警察力を背景に住民達を切り崩しを図る一方、久右衛門宅には郡書記留守永秀が足を運び郡の最終方針を示唆します。12月の戸長会議で郡役所は全戸長に負担金納付の上申書への署名捺印の強要、宇左衛門の嗚咽を背に久右衛門は上申書を提出し自ら運動の幕引きを行います。ここに関山新道建設負担金反対運動は事実上の終焉を迎えました。

 12月8日の出来事は、実質的な有無を言わさぬ郡役所の命令で終わりました。それでも「上申書」というからには署名捺印した住人が自ら郡役所に願い出た形となります。四郡連合会決議も含め、関山新道建設の当初から、すべてがこの形式で進められてきました。反対は許されません。住民全員が賛成し自発的に申し出たというスタイルです。


 これは、一党独裁を標榜する某人民共和国や、選挙で選出された独裁者の率いる某共和国連邦など、21世紀の現代でさえ、世界中の至る所で堂々と行われている権力者側の手法です。こうして官に都合の良い民意を作り上げて、先進的な民主国家を偽装するのです。明治日本の場合で言うなら、欧米に比する文明国家たらんとする対外的な偽装でした。


 経緯はともあれ、結果的に賦課金完納について郡内全戸長が「上申書」に署名捺印したことで、事実上、東村山郡住民による新道建設負担金反対運動の崩壊はここで決定的となりました。


 武装蜂起たる一揆手段を廃して、どこまでも合法的・平和的に上申提訴の方針を貫いた住民たちは、その主張内容では支配者層の論理を完全に打破していましたが、それなるが故に為政者側の論理による非合法的・暴力的な実力行使の前にもろくも崩壊したのです。


 しかし、彼らが唯一成功した偉業がありました。それは、小鶴沢川での騒動後に久右衛門が安達久や三浦浅吉、石川理兵衛に語り聞かせ、7月の戸長会議の後、久右衛門が伊之吉や宇左衛門と天童村で話し合いをしたあの夏の夜、彼らが申し合わせたことです。


 それは、村の大人として、決して子供たちに対して恥じる行いはすまい、堂々と筋を通していこう、と誓い合ったことです。


 久右衛門たちは最後まで合法的に運動を続けました。衆を頼んでの請願は行いましたが、そこから打ち壊し等の非合法行動には発展させませんでした。徹頭徹尾、一揆や強訴などの力による現状変更を求めるような行動は決して行いませんでした。それが久右衛門たちには譲れない一線でした。


 彼らのその運動は、住民自治の意味をもちながら、近代民主化運動の先駆けと言えるものでした。しかも、それを実行したのは地方の名もなき農民たちだったのです。東北の片隅で巻き起こった早すぎた開明的近代民主化運動は、封建制の名残を残した前近代的専制体制の実力行使と威嚇によって頓挫させられたのです。


 今回の住民運動は、10月2日の第1回目上申での久右衛門の口上に始まり、そして最後も12月8日の官製上申での久右衛門の口上で締めくくられることになりました。


 これは、見方を変えるならば、仙台で法廷闘争を準備している伊之吉に対する裏切りとも取れることかもしれません。しかし、久右衛門は、自分にしかその役目を担う者はいないとの自負から、後世の批判を敢えて甘受してでも、これ以上の惨禍が郡内で起きることを防ぐしかありませんでした。


**********


 12月12日、先だっての上申書に書かれた納付期限である11日の翌日、早速に郡役所からの達が各村々に届きました。


「久右衛門さん、役所から何事だべっす。」


 郡役所からの急使が届いたのを知って、安達久が学校から帰るなり、安達本家に伺いました。久右衛門の長男である安達貞造先生はもちろん、一緒に帰途についていた峰一郎も父に同道して訪問をしました。


「おお、久さん。峰一郎も来たが。念のいったことだべ。きんなが期限だがらて、早くて、ちゃんと納めろやて言ってきた。」


 そう言って久右衛門が差しだした書面を久が食い入るように見つめて読み上げます。


『今より上納致さずは、はなはだもって不都合の至りにそうろう条、明13日にはいささかも相違なく、みな納めそうろうよう致すべく、もしいまだ人民において不服の者、これ有りそうらわば、その書面、披見次第、昼夜を論ぜず、惣代の者、引き連れ、即刻、出頭致すべし』


 つまり、まだ未納の者がいるなら、それは非常にけしからんから、明日13日には全員が完納するようにしなさい。それでもまだ文句を言う者がいたら、戸長は、この書面を見てすぐに、その不届き者を引き連れて郡役所に出頭せよ……とあります。


 役所に連れて行ってどうするかなぞ書いてはありませんが、どうせろくなことにはなりません。


「第1期の上納金で、高楯村でまだ足りね分、28円とちょっと、何とか都合ついだどごだ。これがら納め行ぐべど思ったんだっけ。」


 まるで他人事のように飄々と話す久右衛門に、久が声を上げます。


「全部、久右衛門さんの代納だべした。」


 そう言えば、久右衛門の床の間の掛け軸がかかっていません。部屋の中も調度品がちらほら見えなくなっているものもあります。それも、螺鈿細工・象牙細工などの高価そうな物ばかり。恐らくは自慢の茶器なども……。


 本来、高楯村の戸長は、山野辺村戸長をしている渡辺庄右衛門の兼務でありました。しかし、山野辺村も金策で大変な時、久右衛門としては父親である先代久右衛門の実家筋でもある渡辺家ばかりに苦労をかけることをよしとせず、自らの責務において村人の代納をするつもりであったようです。現に、実質的に高楯村の代表として戸長代理としてその重責を担ってきていました。


「なあに、村のみんなが大変な時だ。こだな時にみんなの役に立だんなねのが俺だべ。」


 そういった久右衛門の笑顔は、まったく何の屈託もない、心からの笑顔で応えていました。もちろん、その根底には、自分が村人のためにすることが当然だとの思いがあります。久も峰一郎も、そんな久右衛門に何も掛ける言葉が見つかりませんでした。


「俺だはしぇえ。天童辺りの村だば、竹槍かまえで、筵旗ば揚げらんなねて騒ぎだすのもいで、戸長さんだも苦労しったみだいだべ。」


 そう言って、久右衛門は眼を細めて遠く東の空を眺めやります。


 実際、村形宇左衛門の荒谷村では、裁判準備中であるにもかかわらず、不当な督促を行い続ける郡役所への不満が高まっていました。


 久右衛門が危惧したように、賦課金納付に反対する天童地区の住民たちが12月14日に郡役所付近で再び集会をもよおしましたが、これまた再出動した杉村警部以下の巡査隊の前に解散せしめられたことが22日付け陸羽日日新聞に掲載されています。記事では五條郡長と杉村警部が「説諭に尽力」して解散せしめられたとなっています。しかし、真実はどうだったか、その場にいた住民自身のみがよく知っていることです。


 この14日の五條郡長の活動が、対外的には五條為栄にとっての郡長としての最後の仕事となりました。翌12月15日、五條為栄は山形にある西洋式官立病院の済生館幹事に「栄転」しました。在任僅か9ヶ月、一年にも満たない郡長在任でした。郡政は既に留守郡書記が切り盛りしており、引継事務も問題なく、17日に初登庁した後任の中山高明が諸帳簿目録を受け取って引継は完了しました。


 しかし、天童地区の不穏な動きは12月下旬に至るまで続きます。中山新郡長の初仕事は、まず、郡役所の警備を強化することから始められました。


 今までは郡民の集会がある都度、天童分署や山形本署からの出動を仰いでいましたが、中山新郡長は、着任するや、まず交番詰所を郡役所前に設置したのでした。これにより、東村山郡役所へは山形警察署より毎日、巡査6名づつの出張が続けられ、交代で常時番をする、いわゆる交番制度がスタートしました。


 山形新聞には「山形県より杉村七等警部殿・荒賀五等属殿、其他戎服ヲ着サレタル官吏4、5名、郡役所へ御出張相成タル事ハ私ニ於テ確乎見留メ申候」との村形宇左衛門の証言が、12月27日付け新聞記事として記録されています。


 しかし、この時点における住民達の活動は、その住民の核となる人物を欠いていたがために、その動きが大きな運動に盛り上がることはありませんでした。なぜなら、既に全戸長が上申書に署名捺印をしていたからです。


 経緯がどうであれ、上申した以上、それは民と官に交わされた契約となり、契約履行の義務が生じます。つまり、契約を一方的に不履行した側が罪に問われることとなります。それゆえ、もはや戸長自身が反対運動の先頭に立つことが出来なくなったのです。


 つまり、12月時点における住民達の集まりは、組織化された集団による目的を持った運動ではなく、不平不満を持つ者たちが自然発生的に寄り集まった無秩序な群衆でしかなかったのでした。


**********


(史実解説)


 済生館は、現在の山形市立済生館病院にあたりますが、そのスタートは明治6年に天童村に開設された民間病院施設でした。明治11年、山形県が所管すると同時に医学校も併設し、山形県庁の脇に済生館本館が建設されました。この時に正式に「済生館」という呼称になりましたが、その名称は当時の太政大臣三条実美の命名と伝えられています。明治21年に一時民営となりますが、その後、明治37年に山形市営病院となり現在に至ります。


 五條為栄の前任者である筒井明俊もまた東村山郡長から済生館に転じましたが、筒井の場合には一等属の官位と済生館館長の身分で転出しました。一等属は、明治10年に改訂された官制によるもので判任官の最高位に当り、地方官においては県令・大書記官に次ぐナンバー3の地位にあたります。ですので、筒井の場合は功績が認められての順当な栄転と言えます。しかし、五條の場合、同じ済生館への転出とはいえ官位はそのままの二等属で、館長でもない幹事職であることから、明らかな更迭人事であると言えます。


 なお、彼の場合、明治2年に陸軍少将に任じられましたが、それは戊辰戦役従軍に対する後付けの官位であり、実質的に陸軍に奉職したことを意味するものではありません。ちなみに、明治10年改訂の官制では、陸軍少将は判任官どころか奏任官でもない勅任官です。中央省庁のナンバー3である少輔にも相当する重職であることからも明らかにバランスを欠いていますので、彼の陸軍少将の地位は多分に褒章的なものと言えることが分かります。


 明治4年に、明治政府は東京府で邏卒を採用し、屯所を中心に治安維持パトロールなどを行なわせるようになりました。明治7年には東京警視庁が設置され、邏卒を巡査に改称し、巡査を東京の各「交番所」(交番舎)に配置するようになります。巡査を交代で屯所(後の警察署)から「交番所」へ行かせ、立番などを行なう場所にしたのでした。同年8月に「交番所」に各種設備を設置して、立番だけでなく周辺地域のパトロールなどを行う拠点として整備しました。


 この12月の記録から、山形警察署から郡役所に巡査を派遣するにあたり「交番」という字句が表記されます。これは、立番および周辺パトロール活動の拠点として、天童分署とはまた別に、郡役所もしくはそのごく近い地点に「交番」を設置したものと考えられます。時期的に、中山新郡長の着任時期とも符合しましたので、対住民政策方針を端的に表す象徴的事象として、交番設置を新郡長の具体的施策と捉えました。

 郡役所への上申を提出した各村の戸長は、期限までに全村民の第1期分納入を行うために、戸長の責任において納入を完結せねばなりません。高楯村の久右衛門もまた高楯村の村民の為に、自ら代納の準備をしています。決して暮らし向きが楽ではない村民が圧倒的多数であり、同じような光景は東村山郡全域で見られたことでしょう。一方、郡役所では新郡長が着任して、早速に郡役所の警備体制の強化を図り、力による威圧政策を隠そうともしませんでした。

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