表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
90/104

第89話 新道建設負担金反対運動の終焉

 住民運動は裁判へ進むかに見えましたが、県側は弾圧強行で裁判自体の不成立を狙います。荒谷村民の誓願を県警が力で鎮圧し、これを知った久右衛門は仮処分申請を狙いますが、その手続きの最中に再び郡役所に郡民四百名が頓集します。郡役所では警察力を背景に、様々な手練手管で住民達の切り崩しを図る一方、久右衛門宅には郡書記留守永秀が足を運びます。留守は一切の妥協はしないことを暗に伝えるとともに、久右衛門の実祖父の身柄を郡役所にあずかることをほのめかします。

 留守を門前まで見送った久右衛門は、家に戻ると上がり框に腰を掛けて息をつきます。そこへ峰一郎が無言で近づいてきました。


「峰、あのお方が郡役所を切り盛りしった留守様だ。わしゃ、背中に冷や汗ばかいだべ。」


 久右衛門が顔を上げて峰一郎を見ながら言いました。


「あれが、郡役所の一番偉い人だが……。顔だば笑ったっけげんと、……なんだがおかねっけ。」


 それは、口元に笑みをたたえてはいても目は笑ってはいなかったということだったでしょう。峰一郎にも留守のその底知れない怖さは感じられました。


 そう言った峰一郎が見た久右衛門の横顔は、いつもの力強い自信に溢れたものではなく、峰一郎が初めて見るような悄然とした顔をしていました。


 無理もありません。留守の言葉は丁寧で含みの多いものでしたが、久右衛門には郡役所の毅然とした明確な方針が十分に伝わりましたし、郡役所との歩み寄りの余地はまったく期待できないことが分かりました。


 しかし、峰一郎の視線に気づいた久右衛門は破顔一笑して言葉をかけます。


「峰一郎、これがら何が起ぎでも、お前は山野辺学校の教師の勤めば第一に、子供達ば守ってげ。わしや伊之吉さんの身に何があっても、お前は村の子供達のためだけ、考えでろな。」


 久右衛門は峰一郎に不安を与えないように言ったつもりだったのでしょう。しかし、峰一郎にはどうしても行末への心配が拭えませんでした。


**********


 その後、東村山郡の状況はどんどん悪化の一途をたどりました。裁判所への提訴を実現して、いよいよ法廷闘争に移るつもりであった久右衛門にも、この流れにはあらがいようもありませんでした。


 12月8日、留守が言ったように、郡内各町村の戸長が郡役所に召喚されます。


 まず、五條郡長の栄転と、北村山郡中山高明郡長の東村山郡長を兼務する辞令が、12月14日付けで発令することが発表されました。同時に、久右衛門が懸念した通り、山野辺村戸長渡辺庄右衛門と天童村戸長佐藤正直の郡書記採用が、住民の意見を郡政に反映させるためとして、郡長人事と同日付けで行われることが公表されました。


 そして、この日に戸長たちを集めた真の目的が語られます。すなわち、11日までに新道建設負担金の賦課を完納することが郡役所から一方的に通告されました。更に、村民が不納の場合は戸長がその責任において代納することも併せて通告されます。


 しかも特にひどかったのが、以上の件について、郡役所があらかじめ作成した「上申書」に署名捺印を強要されたのです。「上申書」と言うからには、住民側が郡役所に申し出る形式の文書です。それを役所が役所の都合のいい内容で勝手に作成して、それを住民に署名捺印させるのです。


「では、戸長の皆様、お手許に用意しました書類への署名捺印をお願いいたします。」


 いつものように司会役を務める和田郡書記の淡々とした声が講堂の中に響きます。


 既に荒谷村の顛末を知っていた戸長たちは、抵抗することの無意味さを知り、ほとんどの戸長が唯々諾々と署名せざるを得ない心理的な状況にありました。しかし、誰もそれを率先して行おうという者もいませんでした。


 戸長たちは、ある者は廻りを伺い、ある者はうなだれてうつむいています。最初から反対運動に組していなかった数少ない長崎地区の戸長数名は一角にかたまり、さも迷惑そうに手持無沙汰の様子です。


(ふん、まだ、状況が理解できんのか。我々は一向に構わんがな。先日のように夜中仕事になってもお前たちには署名するしか道は残されていないのだ。)


 和田は講堂を見渡します。しんと静まり返った講堂には、時折、戸長たちの溜息が漏れ聞こえてきます。


 その時、不意に戸長たちの側の一角から、何者かの嗚咽が聞こえてきました。静まり返った講堂の中、その嗚咽は空間の隅々にまで響き渡ります。


「う……、ううっ……、みんな、すまね……、ううっ……、伊之吉、すまね……。」


 その声は、荒谷村の戸長、村形宇左衛門のものでした。そこからしばらくの間、宇左衛門の嗚咽だけが戸長たちの耳朶に届きます。戸長たちは瞑目して、それぞれの思いを浮かべながら、その嗚咽に聞き入ります。宇左衛門の苦衷は盟約に参加した戸長たち全員に共通するものだからです。


 その時、戸長席の別の一角から、おもむろに立ち上がった者がいました。その人物に戸長たちだけではなく、郡役所の面々も驚きの目を見張って見つめます。


 それは高楯村戸長代理として出席していた安達久右衛門でした。正式な戸長は山野辺村戸長と兼務していた渡辺庄右衛門でしたが、高楯村を代表する者として戸長代理の名目で久右衛門も出席していたのでした。久右衛門は講堂の中の注目を浴びつつ、宇左衛門のそばに近寄ります。


 そして、悲嘆に暮れる宇左衛門に短く声をかけました。


「宇左衛門さん、みんな、分がてだ。」


 そう言って、久右衛門は宇左衛門の背中に自分の右手を添えました。


 そうです。彼にはなんの責任もありはしません。むしろ、東村山郡の住民を代表して、見せしめに無道な権力の暴力を受けた一方的な被害者でした。東村山郡の住民皆がそれを分かっています。


(宇左衛門さん、お前だけに辛い思いをさせて悪かった。これは俺から始めた運動だ。最後の尻拭きも、俺がしなきゃならないんだ。)


「ううっ、……ああっ、……うっ、ううっ、……うぁぁぁ、……。」


 顔を僅かに傾け、久右衛門の足許を見るなり感極まった宇左衛門の嗚咽がひときわ大きくなりました。


 そこへ更に二人、役所に身柄を押さえられることになった、山野辺村戸長渡辺庄右衛門と天童村戸長佐藤正直がゆっくりと近づきます。久右衛門が宇左衛門から離れると、二人は宇左衛門の両肩をがっしりつかみます。すると宇左衛門は床に突っ伏したまま、ますます大きな声で子供のように泣いてしまいました。


「ひっ、……ひっく、……すまね、すまね、……うううっ、……。みんな、すまね……。」


 宇左衛門のもとを離れた九右衛門は、まっすぐに郡役所首脳部の居並ぶ正面にゆっくりと向かいます。


 居並ぶ郡役所の郡書記数名が、すわ手向かい致すか!とばかりにガタッと腰を浮かします。しかし、彼らの目の前に留守がゆっくりと腕を伸ばし、部下たちの挙動を制します。


 そして、留守は視線をまっすぐ久右衛門に向けます。久右衛門もまた、留守に視線を向けたまま、ゆっくりと近づいていきます。


 郡役所の面々も、戸長たちも、この二人に視線を釘付けにしていました。


 そして、遂に、久右衛門が五條郡長の眼の前に到着します。どうして良いかわからぬ五條郡長は隣席の留守や他の郡書記たちに助けを求めるかのように、顔をキョロキョロさせて挙動が定まりません。


 久右衛門は、五條郡長に向けて慇懃に頭を下げました。そして、そのまま、大音声で声をあげます。


「高楯村戸長渡辺庄右衛門が代理、安達久右衛門!」


 あまりの大音声に五條郡長が「ヒィッ!」とのけぞります。しかし、久右衛門は構わずゆっくりと口上を続けます。


「高楯村住民を代表し、署名捺印の上、謹んで郡長閣下に上申書を奉呈いたします!」


 そう言うや、久右衛門は両手で上申書を捧げ持ち、郡長の眼の前に突きつけました。


 その時、久右衛門の上申書の両端を握る彼の両手がブルブルと震えていたことに留守も気付きました。果たして、その震えが久右衛門の悔しさを表していたのか、悲しみを表していたのか、それともまったく別の何かであったものか、それは久右衛門以外の誰にも窺い知ることはかないません。


 しばらく、静寂が講堂を包みます。


 留守とは反対側の隣席にいた津田郡書記が、見かねて郡長に声をかけ、ようやく五條郡長がその上申書を受理いたしました。


「うむ、上申ご苦労!」


 最後は、留守郡書記の言葉で締めくくられました。


 こうして、久右衛門の上申が呼び水となり、全戸長の署名捺印は滞りなくスムーズに進んでいったのでした。


**********


(史実解説)


 12月8日の戸長召集は、恐らくは月例の戸長会議で、特別に緊急招集をはかったものではないと思われます。しかし、その内容については窺い知ることはできません。もちろん、郡役所の公式記録には何も記載はありません。『山形県史』において、上申書への署名捺印と11日までの完納日限の発表が記されています。安達家文書や村形家文書のような在野の記録から判明した記録であると思われます。今後、このような在野の記録が解明されて、関山新道負担金反対運動についての真実が明らかになることを期待します。


 なお、留守永秀が安達久右衛門の宅を訪問した事実を窺わせる記録はありません。悪しからず。


 ちなみに、今回の宇左衛門の慟哭は、映画『二百三高地』で仲代達矢演じる乃木希典が、明治天皇に戦旅奉答をしたラストシーンを知らず識らずイメージして書き上げました。

 12月8日の戸長会議で、郡役所は全戸長に負担金納付の上申書への署名捺印の強要をします。慟哭する村形宇左衛門の嗚咽を背に安達久右衛門は上申書を提出し、自らの責任において運動の幕引きを行いました。ここに三ヶ月にわたった東村山郡の関山新道建設負担金反対運動は、事実上の終焉を迎えることとなりました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ