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第86話 郡民四百蜂起

 峰一郎が教師に転じた後、伊之吉が宮城上等裁判所への提訴、県は直ちに対策を協議して住民弾圧を決意します。翌日、荒谷村村民百名が上納猶予を願い郡役所に押しかけますが、山形警察本署精鋭部隊により鎮圧され、住民は郡役所に拘留され責め苦を受けます。翌日、四回目上申に郡役所を訪れた久右衛門一行は荒谷村村民の惨劇を知り、状況の厳しさを思い知りますが、久右衛門は理兵衛にひとつの策を授けて宇左衛門のもとに見舞いに行かせたのでした。

 前日の郡役所内での村民詮議の中、荒谷村戸長の村形宇左衛門は、最後まで委任状取り下げは拒み続けました。しかし、戸長として村人を守るため、結果的には納付金の支払いを約束せざるを得ませんでした。一方で、少なからぬ村民が脅迫と暴力に屈して、納付金支払いの誓約をしたため、訴訟委任状の取り下げまでをも承諾させられたのでした。


 この日も、理兵衛が訪ねて来ている目の前で、何人かの村民が村形戸長の家を訪ねて、訴訟委任状の取り下げを申し出てきていました。どの村人も、体中に痛々しい痣を作り、腕や足の傷口や頭部を汚れたぼろ布で巻いているという、正視に堪えない有様でした。


 理兵衛は、宇左衛門の言葉だけでなく、その村民の痛々しい有様と悲痛な声を、その目で見、その耳で聞いてきたのでした。理兵衛は宇左衛門の言葉を久右衛門に伝えます。


「……久右衛門さんには、本当にすまねぇと思っている。だども、役所の連中や巡査までが、おなごや年寄りさまで警棒や鞭ば振るて、一晩中、脅しにかがてきた。俺だけならしぇえげんど、村のおなごや年寄りが泣いで俺さ助けば乞うんだ。『戸長さん、助けでけろ……』て。んだげど、俺さは何も出来ねっけ。助けらんねっけ。」


 その言葉を、宇左衛門は畳に手をついて、涙をこぼしながら、自分に頭を下げて言っていたと理兵衛は報告しました。


「村の皆ば守るなさ、もう納付金ば払うしか、……そうするしか、他に方法がねっけ。今朝、やっと帰ってきたばりで、これから金ば準備して、取りあえず、あるだけの銭ば掻ぎ集めで役所さ出すしかねんだ。こうしった今も、村の皆の家々さ、巡査と役人が回って、脅しながら金ば搾り取ってんだ。」


 その宇左衛門の言に、理兵衛は何も返す言葉がありませんでした。言いよどみながらも絞り出すごとく辛そうに話す理兵衛の報告に、久右衛門以下、皆が瞑目し粛然としていました。


(宇左衛門さん……あの人も伊之吉さんの家で、俺に色んな話しをしてくれた。がっしりした大きい体をしていたけど、笑うとすごく優しい顔をする人だった。あの人が、あの人が……手をついて、泣いて謝っていたのか!いったい、どんなひどい目に合ったんだ!)


 峰一郎は、自分の知っている天童の人たちが、自分を可愛がって色々と教えてくれた人たちが、とてつもなく苦労しているのを知り、自分がのうのうと学校で教鞭を取っている現状にたまらなくなっていました。


「峰一郎、お前がほだな顔ばしてなじょする(お前がそんな顔してどうする)。宇左衛門さんも、伊之吉さんも大丈夫だ。心配すんな。」


 久右衛門はショックで固まっている峰一郎に声を掛けると、再び理兵衛に向き直って尋ねます。


「……で、伊之吉さんさの使いの首尾はどうだっけ?」


 久右衛門は、そもそも理兵衛を使いに出した目的について尋ねたのでした。理兵衛は、今度はよどみなく宇左衛門の言葉を伝えます。


「宇左衛門さんも、今、伊之吉さんがどさ居っかは分がらねげんと、代言人の先生のどごは分がてっさげ、久右衛門さんの提案さ賛成して、すぐ、村の用掛ば仙台さやるって言ってだっけっす。」


 伊之吉の居場所については、宇左衛門さえも分からないながら、弁護士たる代言人の住所ははっきりしています。宇左衛門は、自らの実弟でもある村用掛の村形忠三郎をすぐに仙台に派遣することを了承しました。


「うん、ほれは良がった。なんとか判決までの間、役所の人もなげな横暴ばやめさせで、裁判所から、納付金の徴収停止処分ば引ぎ出してけるぐ、代言人の先生さ、おすがりするしか、もう俺ださ打つ手がねえ。もし、それがうまぐ行げば、宇左衛門さんの村も、これ以上の無体な取り立でば受げずに済むべ。」


 久右衛門は、前日に荒谷村村民に対してなされた郡役所と警察の弾圧に対して、総代人を通じて裁判所に徴収停止の仮処分を願い出ることを宇左衛門に助言したのでした。


 仙台にいる伊之吉も、まさか、自分が不在の天童地区において、これほどあからさまな弾圧行為が行われているとまでは知りえない筈です。久宇衛門は現在で考えられる最善の策として、この仮処分申請をはかって裁判審理開始までの時間稼ぎと原告団たる住民の結束維持を図ろうとしたのでした。


「ほだな事、出来んだが!裁判所が、郡役所さ、徴収ば止めろって、言てけんだが!」


 峰一郎が驚いたように尋ねます。


 現在なら、緊急性が高い審理中の事案について、裁判所が暫定的な仮処分命令で民事保全をはかるのは当たり前です。しかし、裁判制度がスタートしたばかりで、運用側も国民も手探りだった当時、末端の地方住民にとっては知らないことがまだまだありました。


 そして、この久右衛門の策は見事に当たりました。


 宇左衛門が仙台へ向かわせた忠三郎は、無事に遠藤庸治代言人にのもとに到達しました。現地での事態の切迫を知らされた遠藤は、すぐに宮城上等裁判所への仮処分申請を行います。そして、一週間後の12月8日、天童村の佐藤直正戸長のもとに、「徴収差し止め命令が出る筈」との遠藤代言人からの電報が到達します。佐藤戸長は翌日9日、早速にこの旨を原告団住民のいる各町村に廻文したのでした。


 しかし、その電報が住民たちに伝わる頃には、安達久右衛門や佐藤伊之吉の予想を超えて、事態は更なる急展開を見せて行くのでした。


**********


 翌日、明治13年12月2日、宮城上等裁判所への提訴を聞きつけた郡民が、郡長に嘆願することがあるとて、東村山郡役所に押し掛けました。彼らもまた、先日の荒谷村村民の惨劇は承知の上でした。そのため、郡内の複数の村々に呼び掛け、22ヶ村の戸長たちがそれぞれの村民を付き従え、総勢400人に及ばんとする大群衆を集めることができました。


 二日前の荒谷村村民による郡役所への嘆願では百名にも足りぬ人数しか集まりませんでした。しかし、今回は違います。実に20を超える村々から、二日前の四倍もの人数の郡民が郡役所前に押しかけたのです。


 郡役所門前は朝から黒山の人だかりとなりました。まさに、数は力です。まさしく今にも郡役所の扉を打ち破って中に押し入りそうな気配までしています。二日前の荒谷村の惨状を聞きつけていたのか、この日の群衆は男衆が中心となって、手には鍬や鍬を携え、まるで百姓一揆さながらの様子です。


 その外の様子を、留守永秀郡書記は、腹心の和田書記とともにガラス窓の奥から眺めていました。


「いかがいたしましょう?」


 この群衆を前にして、和田の声はいつになく自信のないものになっていました。しかし、和田のその問いかけに、留守は泰然自若として答えます。


「いや、何もせんよ。騒がせておけばいい。しかし、もし、彼らがガラスの一枚、立木の一本でも折り壊したら、すぐに逮捕するだけだ。」


「しかし、今、役所にいる巡査は僅か、この数では、とても逮捕なぞ……。」


 和田は先日の荒谷村村民の騒動に数倍する群衆が目の前に押し寄せている現状に緊張を隠せません。しかし、留守は余裕の表情で窓外を眺めているのでした。


 二人の背後には、先日、荒谷村戸長村形宇左衛門はじめ村民たちへの詮議という名の脅迫・強要行為の指揮を執った拜郷直郡書記が、青ざめた様子で佇立しています。


 先日の本署巡査隊は僅かに30人でした。しかし、今、郡役所を取り囲む群衆は400名にも及んでいます。たとえ、山形警察本署や天童分署を空にして、巡査を総動員したとしても、とてもその数には及びません。


 まさしく、現状は官民の全面衝突、一揆前夜を思わせる様子です。裁判所での仮処分手続きを申請している中、東村山郡の状況はまさに混沌としていくのでした。


**********


(史実解説)


 当時の村の役職については、現在の首長に相当する戸長、副首長に相当する副戸長が公選で選ばれ、その他に村用掛という役職がありました。村用役・村用懸とも呼ばれます。「用掛」はそのまま「ようがかり」とも言われますが、正しくは「ようけ」と呼びます。用掛は公選ではなく戸長の任用で選ばれました。職務は実際の多岐にわたる村政雑務全般を管掌するために、当時の用掛はかなりの激務でした。具体的には戸籍調査管理・租税徴収事務・学制事務・徴兵事務など様々な分野に及び、その他、地理・交通・勧業・土木工事などの郡役所からの指導に伴う政務が、随時委託されて、仕事は膨らむ一方でした。実際に、その激務に耐えかねて病気療養を理由に依願退職するケースが全国的に数多く見られました。もちろん、東村山郡内の町村では、関山新道建設に伴う納付事務全般も管掌していたものと思われます。


 なお、荒谷村用掛村形忠三郎については、第80話の史実解説でもご紹介しましたが、実在の人物です。荒谷村戸長の村形宇左衛門と同じ姓であり、用掛は戸長の任意による任命が可能であったため、戸長の親族である可能性が高いと思われます。戸長の意を受けて、住民たちの委任状を取りまとめるなど、住民運動の実務全般を任せていたようですので、親族でも戸長にかなり近しい親族であったと考えられます。そのため、本編では実弟と設定いたしました。

 理兵衛からの報告を受けた高楯村の久右衛門以下の面々は、荒谷村で起きている困難な状況を知らされます。一方、久右衛門が理兵衛を通して宇左衛門に授けた仮処分命令の策は、直ちに実行に移され、宇左衛門は実弟を仙台に遣わします。しかし、その仮処分申請手続きをしている中、再び郡役所前に郡民四百名が頓集し、さながら官民衝突の一揆前夜を思わせる急展開を見せ始めるのでした。

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