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第85話 久右衛門の策

 峰一郎が教師に転じた後、伊之吉が宮城上等裁判所への提訴に成功、住民側主張は正当で県側不利は免れません。県は直ちに対策を協議して住民弾圧を決意します。宇左衛門が村民を引き連れ郡役所に押しかけると、役所は宇左衛門を住民から切り離し拘束、そこへ鬼塚警部率いる警察本署精鋭部隊が姿を現します。警察権力が遂に住民に対し牙をむき、武器を持たぬ住民が権力による暴力にさらされ、その後、住民たちは郡役所に拘留されて責め苦を受けます。

 荒谷村村民の惨劇から一夜明けた明治13年12月1日、安達久右衛門以下、三浦浅吉・石川理兵衛の三名が東村山郡役所に四回目の上申書を携えてやってきました。


「浅吉よ、どう思う。二回目・三回目と違って、天童衆のいねなさ、大丈夫だべが。やっぱ、峰一郎さ、も少し頑張てもらえっだらな。」


「んだずな。なんだかんだ言って、委任状の一番、うがいなが天童ださげな。役所のやろが手の平返して、俺だば相手すねがもな。」


 不安を口にする三浦浅吉と石川理兵衛でした。それを聞くともなしに耳にした安達久右衛門が笑いながら答えます。


「なあに、今頃は伊之吉さんがあっちで首尾良く進めっだべ。俺だは伊之吉さんが動ぎやすぐ、せいぜい役所ば振り回してやれればしぇえ。この冬だげ、辛抱強く越したら、春には俺だの勝ちだ。」


「んだずね。あど少すだべ。」

「んだんだ、もうひと踏ん張りだ。」


 久右衛門の答えに、浅吉も理兵衛も気持ちを奮い起こします。三人は足取りも確かに郡役所への道をたどります。


**********


「な、なんだべ、これは……。」


 郡役所の前に到着した安達久右衛門らの一行は、様子の一変した郡役所前の雰囲気に慄然としました。


 いつもなら郡役所前は綺麗に整地され、街道から入る導入路が施され、簡単な柵で仕切られていました。しかし、今、久右衛門の目の前には、大勢の人々が大騒ぎしたような跡がそちこちに見てとれました。


 踏み荒らされた芝生……、


 あちこち折られ傷付けられた立木……、


 ところどころに壊された跡のある柵……。


 そこには常ならぬ何かがあったことを示す痕跡が、いくつも見られました。


「久右衛門さん、こいづ、見でけろ!」


 理兵衛が壊れた柵に引っ掛けてあったボロ布を取ってきました。それはどう見ても着物の切れ端に見えます。


「なして、こだなが……。」


「この黒ぐなったな、……血?」


「まさが……。」


 しかし、それ以外にもあちこちに何かの切れ端が見られます。布切れだけでなく、片方だけの脱ぎ捨てられた草鞋や引き千切れた数珠、守り袋までがあちこちに散乱してありました。


 それは昨日夕方の荒谷村村民たちの惨劇の跡でした。村民たちが巡査隊の制圧行動から必死に逃げ惑った結果の痕跡が、そちこちに残っていたのです。


 ここで、何かがあったのは間違いがありません。3人が想像もしたくないような、何かが。3人は呆然として、そこに佇んでしまいました。


「きんな(昨日)聞こえだ半鐘さ、なんか関係あんだべが……。」


 山野辺学校にいた峰一郎たちの耳にも聞こえたように、高楯村にも天童の半鐘の音は風に乗って聞こえていました。三人は獏とした不安感にさいなまれつつ、恐る恐るといった体で郡役所の正面玄関に向かい、混乱の跡が残る中を歩いていきました。


**********


 石川理兵衛や三浦浅吉がいみじくも不安を口にしたように、せっかくの4回目の上申書は、郡役所からけんもほろろに扱われ、受け取りさえしてもらえませんでした。結局、役所の中にも入れず、郡役所の対応は文字通りの門前払いでした。


 いきり立つ理兵衛や浅吉を押さえて、久右衛門はうやうやしく、応対に出た下級郡書記に尋ねました。


「時にお役人様、郡役所前のこの有様はいかがした事でございましょう?いつもならば手入れも行き届いた広場が、無礼講のお祭り騒ぎの後のようですが。」


 しかし、その返答は居丈高なもので、前日の出来事の説明にもなってはいませんでした。その郡書記は鼻白んだように答えます。


「知らんな。最近は身分もわきまえぬ上に、お場所柄も考えずに郡の差配に不満を申し立て、自分のことしか考えぬ不逞の輩が多くなった。大方、そんな者共であろう。」


 そう言った郡書記は、久右衛門をじろりとひと睨みして続けます。


「その方らも、そんな間違いで警察から睨まれることのないように、早々に立ち去るが良い。つまらんことで役所に来ている暇があるなら、はよう納付金を工面することだ。」


 郡書記は久右衛門へ暗に警告しつつ、追い立てるように言うと、正門の玄関扉を閉めました。あとには役所前に立ちすくむ三人が残されたのみでした。


「久右衛門さん、なじょする?この上申書、改めで県庁さ持てぐが?」


 その問いに、しばらく思案した久右衛門でしたが、第一回目の上申の時とは状況が違います。あの時は郡長以下の郡役所首脳に上申内容をしっかりと伝えた上で、役所側が内容を承知しながら上申を却下しようとしたからこそ、久右衛門は対抗措置として県庁への上申を口にしたものです。


 しかし、今回は受け取りもしてもらえぬ本当の門前払いです。これが、伊之吉による裁判所への提訴の結果による郡役所側の反応であれば、しばらく様子を窺うべきかもしれません。


「今日は無理すねで帰っべ。道々、村の人さ、きんな、何があったか、聞いで回てぐべ。」


 久右衛門一行は、なんらなすことなく帰路につかざるを得ませんでした。しかし、道々天童の村人から昨日の惨劇を聞いた三人は、そのあまりの非道さに言葉を失いました。


 警察による一方的な鎮圧行動、そして深夜まで及んだ村民の拘束……、郡役所の中で何が起きたか、勾留された村人がどんな目にあわされたかまでは窺い知ることはできません。しかし、厳しい詮議が行われたことは想像に難くありません。


 久右衛門たち一行は、暗澹たる思いで高楯村への帰途についたのでした。


(この役所の態度の豹変は、伊之吉さんが遂に裁判所への提訴をやり遂げた結果による反応に違いない。)


 久右衛門は、この役所の対応の変化の裏には、伊之吉による郡役所提訴が役所側に衝撃を与えたためと考えました。確かに、それは久右衛門の推測通りでした。しかし、……。


(……しかし、役所は遂になりふり構わぬ暴挙も厭わないことになったか。我らも正念場だが、逆に役所もどうしようもない所まで追い詰められた結果、強硬策を取らざるを得なくなったとも見える。)


 久右衛門は、考えを巡らすとひとつの策を思いつき、付き従う二人のうち、石川理兵衛に声をかけます。


「理兵衛、ご苦労だが、こごまで来たんだがら、俺の使い、頼まっでけねが?……荒谷の戸長さんさ、見舞いに行ってけろ。」


 久右衛門は思いついた策を理兵衛に託し、荒谷村戸長の村形宇左衛門へ遣わすこととしました。


(よし、伊之吉さんに幾らかでも応援になるよう、俺たちは俺たちで今迄通り役所に揺さぶりかけてやるか。)


 厳しい状況を理解した上で、更なる決意を新たにする久右衛門でありました。


**********


 その日、荒谷村に使いに行った石川理兵衛は、日暮れを待たずに久右衛門の宅に報告に帰ることができました。荒谷村は天童村のすぐ南側にある村でしたので、帰路は高瀬川の舟に乗れば須川に出て、峰一郎がよく使っていた落合の渡しに着くことができます。


 久右衛門の家には峰一郎の父の安達久も来ていました。山野辺学校から戻っていた貞造と峰一郎の二人の青年教師も、共に理兵衛の帰りを待っていました。しかし、理兵衛の報告は皆を驚愕させるに足る内容でした。久右衛門や峰一郎を始めとする高楯村の皆が、状況が非常に厳しくなったことに衝撃を受けました。


(なんで、……なんで、急にこんなことに。……俺が、俺がもっと頑張って伊之吉さんの力になれていたら……。)


 伊之吉の家で何度か顔を合わせて話しもした村形宇左衛門や村人たちが、役所からひどい目に合っていることを知った峰一郎は、あまりの状況の悪化に愕然としました。


(仙台の伊之吉さんは……、天童のおうめちゃんは……、大丈夫だろうか……。)


 峰一郎は落合の渡しを最後に、別れたままの梅のことを思い出していました。あの時、最後に見た梅の姿は、須川の土手の上で、笑顔を見せて峰一郎に手を振っていました。しかし、今の峰一郎は、何もできないもどかしさの中で、伊之吉や、梅のことが気がかりで仕方ありませんでした。


 佐藤伊之吉や梅は大丈夫なのか、久右衛門が理兵衛に託した策とは?裁判所に提訴はしたものの、まだまだ予断は許されない厳しい状況が続きます。


**********


(史実解説)


 高楯村安達久右衛門による第4回目の上申については東村山郡役所の公式記録には残っておりません。そのため、本編では門前払いされたものとして、役所側の不受理としました。では、どうして第4回目の上申が行われたと筆者が判断したのには理由があります。実はその第4回目の上申書の記録が、山辺町教育委員会編纂の「深堀村文書」に「11月26日付草稿」として上申書本文が残っているのです。以上を踏まえ、本作では上申は行なったが受理はされなかったといたしました。


 なお、「11月26日付草稿」から窺われる第4回目上申の内容は以下のようなものでした。「郡長が会議無効を言うのならば会議の前に論ずるべきだったというが、会議の通知は戸長に来たのであって、一般人民は会議があろうことすら知らなかった。故に、会議前に論ずべきであったということは成り立たない」として、会議が住民総意に基づく代表委員で構成されたものとの認識を根底から覆し、会議自体の正当性を真っ向から否定する主張でした。


 役所側には本気で住民上申を取り上げる気がありませんので、これはどこまでも平行線の水掛け論で歩み寄りは期待できません。しかし、裁判に於いては、住民の上申が重ねて行われた事実の積み重ねこそが大事なのであり、裁判での審理の中で、住民の上申と役所側の回答の経過と内容が、最終的な判決に決定的な意味を持つものとして住民側は考えていました。故に、久右衛門は、伊之吉が提訴した裁判審理に資するために、飽くまでも上申に拘ったのでした。

 四回目の上申に郡役所を訪れた久右衛門一行は、郡役所前のただならぬ雰囲気に驚きます。郡役所の反応はけんもほろろで門前払いとされ、上申書も受け取ってもらえませんでした。一行は、帰路に近隣住民より昨日の住民弾圧の惨劇を聞き驚愕します。状況の厳しさを思い知った一行でしたが、久右衛門は理兵衛にひとつの策を授けて宇左衛門のもとに見舞いに行かせたのでした。

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