第83話 荒谷村村民決起
峰一郎が教師に転じた後、伊之吉の提訴を察知した県は捜索の網を広げますが行方を掴めません。天童では宇左衛門が郡役所を揺さぶる中、伊之吉が宮城上等裁判所への提訴に成功します。法律上の瑕疵に基づく議員身分欠格を突く住民側主張は正当で、県側不利は免れません。県は直ちに対策を協議、高木課長は原告の切り崩しをはかると共に、原告代表の伊之吉捕縛に手を回します。遂に山形県庁は警察権力行使と住民弾圧強化を決意しました。
東村山郡にとっての運命の日、明治13年11月30日の長い一日はまだ始まったばかりでした。
佐藤伊之吉が宮城上等裁判所に訴状を提出した同じ日の昼過ぎ、荒谷村村民95名が郡役所へ押しかけたのでした。県庁の鬼塚警部に届けられた報告はこのことを知らせたものでした。
奥羽山脈を挟んでの東と西で、この日、計らずも住民と役所との戦いの狼煙が同時に立ち上ったのです。
筵旗こそ見えませんし、鍬や鋤などの武器まがいのものを振りかざしているわけでもありません。しかし、その様子は、まるで一揆さながらに、老若男女、百名もの百姓が郡役所の入り口を取り囲むように蝟集していました。
「郡長様にお取次ぎを……、お願いでごぜえます。裁判の判決が出るまで、負担金の上納の猶予ばお願いするっす。」
群衆の先にいる百姓の一人が、叫ぶように、目の前にいる郡書記に哀願します。
「なんじゃ!何が判決じゃ!そんなもん知らん知らん!帰れ帰れ!全員、一揆の疑いでしょっぴくぞ!」
応対に出ている郡書記が大声で叫びます。郡書記の左右を堅めるように、数名の巡査が住民に対峙していましたが、住民たちの数と剣幕に恐れをなしているのか、明らかに腰が引けているのが分かります。
「仙台の裁判所さ、訴えが出っだべ!判決が出るまで待ってけろて言ってんだ!」
群衆の先頭に立つ戸長の村形宇左衛門が堂々と大声で叫びます。
伊之吉との事前の打ち合わせで、遅くとも11月末日で裁判所へ提訴する旨を知っていた宇左衛門は、判決が出るまでの上納猶予を郡役所に願い出たのです。
提訴当日に郡役所への揺さぶりをかけるのは確かに効果的な反面、宇左衛門には焦りもありました。郡役所による最近の巻き返しで盟約からの脱落者が日に日に増えている現状を前にして、このまま座していてもジリ貧に陥るならば、まだ、余力のある内に数をたのんでの示威行動に出よう、そのように彼が考えたのも無理からぬことでした。
しかし、宇左衛門は、唯一、官の冷酷非情な決意と言う一点についてだけは、見誤っていたかもしれません。
紛糾する郡役所前でしたが、しばらくすると、そこへ、新たに別の郡書記が中から出てきました。そして、その郡書記が群衆の先頭に立つ宇左衛門を睨みながら大声で語ります。
「代表者一名のみ、郡役所に入るを許す!他の者は即刻立ち去れ!」
「1人だげだが!」「聞ぐ気、あんだが!」
その言葉に不満を鳴らす群衆でした。しかし、宇左衛門はそんな村民の騒ぎを取り鎮めます。ここで騒ぐより、彼ら村民の数による圧力を背景に、自分が郡長と交渉をすることに望みをかけたのでした。
「皆の衆、皆の気持ちはよっく分がっだ。俺が行ってくっで、おどなすぐ待ってでけろ。皆の希望は、ちゃんと郡長さんさ言てくっさげな。」
そう言うと、宇左衛門は郡役所の扉の中へと入っていきました。
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郡役所の中に入ると、宇左衛門は会議室のような場所に案内されました。そこで待つともなく、すぐに別の郡書記が現れました。玄関で応対していた郡書記や、宇左衛門を案内してきた郡書記とは違い、宇左衛門の前に現れたのは上級郡書記、庶務担当の拜郷直郡書記でした。
顔を見知っている宇左衛門は、これが正式な郡役所回答の使者であることを察して居住まいを正します。礼装の礼は取っていませんが、かりそめにも宇左衛門とて歴とした戸長です。着物の襟を正して居住まいを整えつつ、立ち上がって頭を下げ、礼を取って郡書記を迎えます。
一方の拜郷郡書記は、テーブルを挟んで宇左衛門の前に立つと、そのまま朗々と語り始めます。
「荒谷村戸長、村形宇左衛門に伝える。……先日の上申の儀は、これを即日却下と致す。」
宇左衛門の頬がピクリと動きます。予想された回答とはいえ、皆を代表する戸長として、やはり、無念さに変わりはありません。
しかし、次に続く郡書記の言葉には、宇左衛門さえも驚きを隠せませんでした。
「なお、右上申に付き、上納拒否の申し状、甚だ不届きにつきこれより詮議を行う。また、本日、住民を扇動し徒党を組みて郡役所に押しかける騒擾を引き起こしたること、重々不届き千万。その方、一揆の首魁なるは疑うべくもなし。その儀についても重ねて詮議を執り行う。」
ゆっくりと頭を上げて拜郷郡書記を睨み付けた宇左衛門は、吐き出すように声を絞り出しました。
「……なんと。これが郡役所のやり口でございますか!」
テーブルに両手をつき、身体を前屈みにして拜郷郡書記に詰め寄ろうとする宇左衛門でした。が、それを両脇から従僕が抑え込み、力づくで椅子に座らせます。
抵抗むなしく、二人がかりで取り押さえられた宇左衛門は、椅子に後ろ手にされて身動きできないようにされました。その様子を見た上で、拜郷郡書記はテーブルを回り込み、椅子に押さえつけられた宇左衛門に近づいてきます。
「おのれは戸長という職分にありながら、住民を慰撫することもなく、逆に扇動して、かえって騒擾を巻き起こした。その所行、郡役所として許しがたし。……これを見逃してもらえるとでも思うたか!」
宇左衛門を真上から見下ろしながら、拜郷郡書記は侮蔑するかのように言葉を吐き捨てました。
これこそが郡役所側の言い分であり、これが当時の地方官僚の本性でした。
「まもなく、天童分署より巡査が参る。それまでおとなしくしておることだ。意地を張っても誰も助けには来んぞ。」
せせら笑うように言いながら、拜郷が部屋の扉を開けて外に出ていきます。その後ろ姿を睨み付ける宇左衛門は、従僕に取り押さえられたまま、麻縄で椅子にがんじがらめに縛りつけられてしまいました。
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郡役所の外では、いつまでたっても郡からの回答もなく、役所の中に入った戸長の音沙汰もないままに時が過ぎていました。そして、はや、陽も西に傾いて、朝日連峰の上方で黄色い残照を照らし始めた夕方、再び群衆が騒ぎ始めました。
「いづまで待だせっだ!」「戸長ば返せ!」「役所の人でなしが!」
「はよう帰れ帰れ!」「お前たちの戸長はまだ役所の中で話し合いの最中じゃ!」
「どんだけ時間がかがる!」「戸長さんは無事なんか!」
昼からの騒動を聞きつけて、既に天童分署の巡査十数人が郡役所に到着し、郡役所の玄関前で群衆と対峙しています。とはいっても、押し問答を繰り返すのみで一向に埒があきません。
しかし、その膠着した状況がまもなく劇的に変化します。鬼塚警部以下、山形警察署本署巡査隊の到着です。山形警察署の中でも、選りすぐった精鋭30余名の巡査で構成された選抜部隊が、鬼塚警部直率のもと、突如として郡役所前に蝟集する群衆の後背に姿を現したのです。
しかし、最初は住民たちも自分たちの背後に、恐るべき集団が隊伍を組んで現れたということに気付きませんでした。
「総員、警棒よ~い!かまえ~!」
鬼塚警部は夕陽に照り輝くサーベルを高々と頭上に立て掲げます。その号令一下、巡査全員が整然と右手に警棒を構えます。
その警部の大声での号令を耳にして、ようやく群衆も何事かと、背後の異様な雰囲気に気付きました。背後を振り返った群衆でしたが、彼らはそれを天童分署から来た加勢の巡査たちだろうと、まだ軽く考えていました。確かにそれは天童分署の巡査と同じ制服制帽の巡査たちでありました。しかし、その中味はまるで違ったのです。
しかし、たとえ彼らがその違いに気付いたとしても、それはもはや遅すぎたのでした。
「全隊、突っ込め!暴徒を排除せぇ!チェスト!行け〜!」
警部が勢いよくサーベルを振り下ろし、群衆に向けてサーベルの切っ先を突き出して咆哮します。
「うお~!」「うわ~!」「お~!」
警部の裂帛の気合を受け、喊声とともに巡査隊が突進を始めます。
ここにおいて、遂に官憲の権力が、武器を持たぬ無辜の人民に対して向けられたのでした。明治という御代が始まり、近代の扉が開かれて、もう13年もの時間が過ぎていた時でした。しかし、日本は、まだ、近世の残滓の中からは抜け出せてはいなかったのかも知れません。
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(史実解説)
当時、「騒乱罪」という名称はまだ存在せず、『新律綱領』『改定律令』において「兇徒聚衆」に関する規定というものがありました。これを継承する形で明治15年施行刑法において「兇徒聚衆罪」として罪科が設定されました。これは、元老院の刑法草案審査局の要求により、過激化の一途を辿る自由民権運動や社会運動の鎮圧を目的として明文化が必要となったものでした。その後、明治40年制定刑法で「騒擾罪」に変わり、平成7年刑法改正で現在の「騒乱罪」に変わったものです。
明治13年当時の巡査の装備には、まだ拳銃もサーベルもありません。現場の二等巡査以下にもサーベル着用が認められたのは明治16年からとなります。拳銃にいたっては、その配備までに、大正年間となるのを待たねばなりませんでした。ですので、明治13年当時の巡査の実力行使手段は、もっぱら警棒・警杖という装備が一般的でした。
伊之吉の仙台での活動を支援すべく、宇左衛門は村民を引き連れて郡役所へと押しかけて、役所への圧力をかけます。一方の役所は、宇左衛門を住民から切り離し、郡役所内で彼を拘束するという非常手段に打って出ますが、宇左衛門の身を案じる村民は役所へ再び押しかけます。そこへ鬼塚警部の率いる山形警察本署精鋭部隊がいよいよ姿を現します。




