第82話 県庁謀議
峰一郎が教師に転じる中、伊之吉の提訴の動きを察知した県側は捜索の網を広げますがその行方を掴めません。天童では宇左衛門が上納拒否上申を提出し官を揺さぶります。そして、伊之吉が警戒網の裏をかいて、遂に宮城上等裁判所への提訴に成功、県庁を震撼させました。法律上の瑕疵に基づく議員身分欠格を突いてきた住民側の主張は正当なものであり、県側の不利は免れません。関山新道工事そのものの執行にも関わる問題でもあり、県側は直ちに対策を協議します。
県庁に不利なこの危機的な状況をいかに打破すべきか、高木課長の頭脳がフルに回転を始めます。
「電報の文面によれば、原告は『東村山郡1町40ヶ村3660名』とあります。これが天童地区の加盟原告だと考えられます。翻って、10月2日の第一回の住民上申では、天童地区においては『1町67ヶ村、士民7069人』の委任状が住民総代の手にありました。」
高木は自らの手帳を取り出して、過去の上申経過をひとつひとつ確認しながら、ゆっくりと話しを続けます。
「この二ヶ月で住民側の反対運動加盟人数は間違いなく半減しているようですね。これは、……恐らくは、留守殿の指揮で住民たちへの巡回活動をしてきた郡役所の成果でもあります。」
郡役所筆頭書記の留守永秀が先頭に立って、住民たちに圧力と威嚇をかけ続けてきた効果が目に見えて数字に現れて来ていることを、高木は正当に評価しました。その言葉を聞く和田書記は、頬を弛め、かすかに喜びを表します。
この留守郡書記が先導した郡民への慰撫と恫喝は巧妙でした。荒谷村戸長の村形宇左衛門が懸念していた通り、彼は意図的に西村山郡議員団の仲裁案を流布し、役所に逆らうよりも北郡や西郡の負担金肩代わり提案を受け入れた方が良いとの空気を、自然に醸成し広めていきます。
「お役人さ楯突いでも、かなうわげねえべした(かなう訳がない)。ほだなより、金ば出してけるて、ゆてけでんだがら(金を出してくれると言ってくれているのだから)、出してもらたらしぇえべ。」
「んだ、西郡と北郡が便利になんだがら、あいづださ(あの方たちから)、うがぐ(多く)払てもらうな、当だり前だべず。」
そういう意見が出回ると、当初はあれだけ隠密理にことを運び、強い団結を誇った東村山郡住民たちの結束が、急速にほころび始めてきたのです。仲裁案には何らの公的裏付けも保証もないのに、将来への不安と目先の生活苦に呻吟する中で、目の前に良い条件を提示されると、人は、深く考えもせずに飛びついてしまうのです。
しかし、その人間の弱さを責めることは誰にも出来ないでしょう。責められるべきは、そのような卑劣で狡猾な手法を考え実行したのが、役所の人間と、役所に連なる公的身分を持つ人々であったということです。
今、住民たちは勝利の栄冠に片手をかけながら、同時に、自らの結束が瓦解する危険性を自らの中にはらむと言う、非常にもろい危うさの中にいたのでした。
高木は手帳から目を外し、鬼塚警部に視線を向けて語ります。
「ここは鬼塚警部に出馬を願い、住民への圧力を一層かけてもらうのが上策でしょう。戸長がだめなら村会議員、地主へと説諭して、盟約からの離脱を促すのです。原告がいなくなれば裁判はできませんから。」
我が意を得たりといった満足気な顔で鬼塚警部が頷きます。その鬼塚警部が行う「説諭」がどのようなものか、高木や和田にもよく分かっています。
「それに悪いことばかりではありません、今回の提訴のお蔭で、我々はその全力を天童地区に的を絞って行えば良いことが分かりました。山野辺地区は捨ておいても構わないでしょう。」
その言葉に、鬼塚警部はまるで生気を取り戻したかのように勇躍します。
「よっしゃ!そうと決まれば事は簡単じゃ!」
騎虎の勢いで思いをほとばしらせる鬼塚警部でしたが、苦笑気味に高木課長が言葉を継ぎます。
「警部、しばし、お待ちを。もうひとつ警部にはお願いしたいことがあります。他でもない、仙台にですが……。」
鬼塚は悪戯な笑顔でニヤリとします。
「みなまで言いない、わかっちょる。罪名はなんでん良か。あん男がどこに潜伏しよっと、必ずあぶり出して山形に連行しちゃる。」
打てば響くような警部の答えに、高木課長は、彼にしては珍しく、フッと笑みを浮かべたように見えました。
「県庁の方からも内々に宮城県庁へ通報しておきます。松平閣下なら大概のことには目をつぶってくれるでしょう。」
当時の宮城県令は元福井藩士の松平正直でした。彼は戊辰戦争では会津攻めに従軍して越後口軍監を務め、維新後は主に内務畑を歩きます。宮城県での在職期間は長く、権令期間も含めて13年もの長期間に及びました。
この松平県政時代において、野蒜築港に伴う東日本広域インフラ整備事業は、松平県令の熱烈なバックアップを受けます。つまり、松平県令は、山形の三島県令と考えをまったく同じくする同志でした。後に、彼が熊本県令となった時、死傷者まで出す激しい選挙干渉を主導したことからも、三島同様の苛烈な側面すら垣間見える人物なのでした。
「本署の高崎どんな、おいとは良く知っちょる仲じゃ。喜んで捜査協力に応じてくいる。なんの、首魁ばあげちゃれば、後は烏合の衆じゃっで。」
当時の宮城県警察本署の高崎親章警部もまた、鬼塚警部と同じ元薩摩藩士でした。しかも、西南戦争では、中原尚雄と共に川路大警視の密命を帯びて鹿児島に潜入し、西郷軍に捕らえられると言う数奇な運命を辿った人物でもありました。
原告代言人や担当判事が住民側に有利にも思える半面、宮城県庁や宮城県警察本署はどこまでも統治者の論理で動く「官」でありました。ここに官民双方の役者は出揃いました。
行政裁判を起こした住民を、警察が威嚇・脅迫して訴えの取り下げを強要し、その原告代表者を警察が捜索し逮捕する……現在では考えられない権力の蛮行を、県庁舎において県庁首脳部が当たり前のように平然と協議しているのでした。
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「当面の対策としては、こんなものでよろしいでしょう。和田書記には直ちに留守殿に復命していただき、巡査隊の受入れや巡回協力の準備をお願いします。」
高木課長の要請に否やはありません。和田は上半身全体を傾けて答礼しました。そして、その高木の言に、もはや五條郡長の名前はありませんでした。
「以上の方針でよろしければ、わたしは、これから三島県令閣下にくだんの件を報告して参ります。」
高木課長が和田書記に目をやると和田は再び軽く頷きます。次いで、高木が鬼塚警部に視線を向けると、警部は頷く代わりに声を上げてそれに応えます。
「所詮は百姓じゃっで、赤子の手をひねるようなもんじゃ!おいに任せったもんせ!」
鬼塚警部が水を得た魚のごとく、意気揚々と高木課長に答えます。
しかし、その時です。鬼塚警部の決意の披瀝に、まるで冷水を浴びせかけるような凶報が舞い込んできました。勢い良くバタンと会議室の扉が開け放たれ、県庁職員の一人が駆け込んで来たのです。
「鬼塚警部!天童分署からの電報です。」
その職員が、電文の書かれた紙片を鬼塚警部に手渡します。
「なんじゃっど……なんと!」
その電文内容に驚いた様子の鬼塚警部に、嫌な予感を感じた和田郡書記が尋ねます。
「いかが致しましたか。」
しかし、それに直接答えることなく、怒りの形相で顔を上げた鬼塚警部は、その電文をもたらした県庁職員を睨むように獅子吼します。
「天童の暴民百余名が郡役所に押しかけちょる!すぐ出動じゃ!巡査隊、用意すっど!チェスト!」
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「先生!さいなら!」「先生!また明日なあ!」
「おう、みんな、気ぃつけで、帰れよ。まだ明日な!」
山野辺村にある山野辺学校では、授業を終えた子供たちが学校から帰って行きます。安達貞造先生と安達峰一郎先生も、寺の幅広い玄関階段上の式台から、手を振って子供たちを見送っています。
「おや、峰一郎……何が、聞こえねが?」
ふと言った貞造の言葉で、静かに耳を澄ます峰一郎の耳朶に、遠く天童の方角から半鐘の音が風に乗って届いて来ます。
「あれは、半鐘だべが……。」
「火事でも起ぎだんだが?……東の川向ごう、天童の方がら聞ごえっだな。」
貞造のその言葉に、峰一郎はなぜか胸がざわつくのを覚えました。
「天童……。」
この日、佐藤伊之吉が裁判所に提訴をしたことも、郡役所に郡民百余名が押しかけて騒動になっていることも、峰一郎はまだ知りません。ましてや、県庁において住民弾圧の謀議がなされているなど、峰一郎には知るよしもありませんでした。
(伊之吉さん……、お梅ちゃん……。)
不思議な胸騒ぎを感じながら、東の空を遥かに望むことしか峰一郎にはできませんでした。明治13年11月30日の東村山郡の長い一日は、まだ終わってはいません。
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(史実解説)
宮城県令松平正直は幕末、福井藩用人として福井を訪れた坂本龍馬に面会した人物として歴史に名前をとどめています。天保15年生まれの明治13年当時は36歳、宮城県令および県知事時代においては、道路水路等の社会インフラの整備開発と教育の振興に力を注いだと言われます。県政としては山形の三島県政とほぼ同じ施政方針で、明治初年度の地方政治の眼目が、どの県においても、そこにあった事というがうかがわれます。
宮城県警察本署長高崎親章は、嘉永6年生まれで明治13年当時は若干27歳の若さでした。明治10年に同郷の同僚である中原尚雄らと共に墓参のため帰郷しましたが、実際は西郷隆盛の実情視察という川路利良大警視の密命を受けたものでした。中原尚雄は私学校での拷問で西郷暗殺を企てたとの自白書を取られ、それが私学校党の暴発を誘引したと言われ、弾薬略奪事件とともに西南戦争の直接的契機となったものとされます。高崎もまた中原とともに政府密偵として捕らえられましたが、西南戦争後に救出され、以後は順調に出世を重ねます。内務省警保局長として警察行政のトップまで登りつめた後は、宮城・京都・大阪など全国各地の知事を務めました。
高木課長は現状認識を踏まえて、最終的に住民達原告の切り崩しをはからねば道はないことを理解します。同時に、仙台に潜伏する原告代表の伊之吉捕縛についても検討を重ねました。かくして、遂に山形県庁は、警察権力を行使しての住民運動弾圧の強化を決意したのでした。この事態の急激な進展を、山野辺学校の峰一郎は、まだ、知る由もありません。




