第81話 揺れる山形県庁
峰一郎が教師に転じる一方、裁判提訴に動く佐藤伊之吉は監視の目を縫って山中を突き進みます。郡役所・警察は探索に血眼になり捜索の網を広げますが、その行方は掴めません。天童では伊之吉の盟友村形宇左衛門が上納拒否上申を提出し、官への揺さぶりを開始します。そのような中、伊之吉の消息が意外な所からもたらされます。伊之吉が山形警察署の警戒網をすりぬけ、鬼塚警部たちの裏をかいて、山形地方裁判所ではなく宮城上等裁判所への提訴に成功したのでした。
「提訴内容は、どういうものです。」
高木課長は落ち着いた声で和田に尋ねます。
「原告の東村山郡住民3660名、ほとんどが天童地区住民です。山野辺地区住民からの提訴は、ごく一部にとどまっています。」
和田が説明した提訴内容は以下の通りでした。
東村山郡1町40ヶ村3660名の郡民が原告となり、佐藤伊之吉は原告代理人、そして宮城県の代言人、現在で言うところの弁護士である遠藤庸次が原告代言人となっています。訴状では、東村山郡長五条為栄を相手に「道路開鑿並修繕費徴収不服之訴」を宮城上等裁判所に提出していました。
この原告代理人に安達久右衛門が名前を連ねることはありませんでした。この訴えは即日受理され、判事小松弘隆が担当することになりました。今回の通知はこの小松判事からの通知であり、後日、正式な内容証明が郡役所に届くことでしょう。
この原告代言人遠藤庸次と担当判事小松弘隆については、少々説明の必要があります。
まず、遠藤庸次は戊辰戦争にも従軍経験のある元仙台藩士であり、後に仙台市長・衆議院議員も努め、議員時代には政友会にも所属していました。思想的には自由主義的民権思想に理解のあるスタンスであったものと思われます。
一方、小松弘隆は、司法権独立を守った名裁判官として名前が残る児島惟謙と親交が深く、児島の三男を自らの養子に迎えていることからも、その親交の深さがうかがえます。つまり、彼もまた、政治的な判断よりも法の番人としての信念に基づく法曹人であることがうかがえます。
つまり、東村山郡住民としては、これ以上はない最強の布陣で法廷闘争に持ち込むことが可能な状況でありました、……そのように言っても過言ではなかったと申せます。
「訴状の内容は、新道路線に関係のない町村の議員まで召集して一律負担としたこと、そしてその議員の身分自体がすでに失効していること、それを眼目としています。従来、住民どもが上申していた通りの内容です。」
高木課長は、和田郡書記の説明に納得したように頷きます。
「なるほど、路線にかかるかどうかは位置的、距離的な相対的感覚ですから、どうにでも戦いようはあります。しかし、法律論での議員身分失効を押し通されたら、裁判所としては政府の決めた法律を論拠にした違法性を認めざるをえませんね。」
飽くまで冷静に分析する髙木に対して、興奮の色を隠せぬ鬼塚が叫びます。
「とすっと、どげんなっとじゃ!」
高木課長は飽く迄も淡々と説明をします。
「まぁ、工事執行の差し止めが裁判所命令という形で通告されるでしょう。その上で今後の方針としての住民との和解案を策定し、その方針に基づいて改めて住民会議を開催して、相互に納得できる新たな負担割合を決める、……そのような手順になると思われます。」
「まどろっこしか!」
聞いてるだけでもイライラが募る様子の鬼塚警部が叫びます。それに関係なく高木課長が恬淡と話しを継ぎます。
「その間に雪も降りますし、工事再開は早くて来年夏頃に出来れば良い方でしょう。下手をすれば、もうひと冬を越さなければならないかもしれません。いずれにせよ、工期は大幅に伸びるでしょう。」
どこまでも冷静に説明する髙木に対して、鬼塚の憤りはとどまることを知りません。
「そんなこつ、許せるもんじゃなか!させっか!」
しかし、それに対する髙木の未来予測は、より深刻であり辛辣でした。
「いえ、それどころか、住民会議が紛糾して、予算面での折り合いがつかずに、工事費不足となる場合も十分に考えられます。むしろそうなる可能性の方が高いでしょう。……民費がダメということになれば、国費でも県費でもよろしいが、最終的に工事費の手当てがつかないとなると、工事自体が頓挫します。」
「なっ!……。」
鬼塚警部はもはや絶句するしかありません。
既に隧道掘削費で国費支援を仰いでいる上に、全体ルートの新道建設費は県で賄うと大見得を切っておきながら、今更、工事費の都合がつかないからと国に泣きつくわけにもいきません。かといって県予算に工事費を賄えるほどの余剰金があるわけでもありません。
そもそもの住民側の提訴理由のひとつは、区町村会法第8条に違反して、関係しない町村の議員まで召集し、その費用を受益の有無に関係なく四郡で一律に負担する結果となったことでした。
新道路線は、本来は東根から南下して天童を通過し山形に直結する最短路線でした。
しかし、西村山郡議員が県側と密約を交わし、東根から西方へと迂回し、わざわざ最上川を渡って紅花商人の多い谷地郷を通過し、そこから南下して再び最上川を渡って東村山郡長崎地区から山形北西部に連結するという路線に計画を変更したのでした。
つまり、わざわざ西側へ大回りする無駄な路線設定をしていたのです。
結果的に、東村山郡の人口密集地域である天童地区を通らず、無駄に路線距離を延伸し、あまつさえ最上川を無駄に二回も渡河しなければなりません。将来的な架橋も考えなければならず、経費的にも距離的にも時間的にも、すべてに無駄な路線計画であると指摘していました。
更には、その路線計画のままでは恩恵も少ない天童地区・山野辺地区の議員をも召集して、一律に工事費負担を求めるという非合理的な計画であることを主張していました。これが、住民側の第一の主張です。
かつて、安達峰一郎たち高楯村の少年らの義憤を誘い、小鶴沢川での決起を促したのも、この路線と負担金の問題が直接的なきっかけでした。しかし、……。
「路線の遠近はどうとでも話しはつけられましょうが……」
高木課長が一番注目し危険視していたのは、路線の問題よりも、住民側の第二の主張でした。
つまり、住民代表者の代議権失効の点です。この点は、これまでの上申書でもたびたび主張されたところでありましたが、政府の定めた法令を論拠として四郡連合会の違法性を明らかにするものであり、法令に基づいて審議する裁判所にとって、理は明らかに住民側にありました。
「ふむ、これは困ったことになりましたね……。」
冷静かつ客観的に検討を重ねる高木課長の目から見ても、第二の論点は争いようのない法律論であり、役所側の不利は免れません。結果的に役所側が権力にものを言わせて、住民側にゴリ押しした事実は明白です。裁判官の心証がどちらに傾くかは明らかでした。
この主張を行政裁判に持ち込んだ伊之吉たち郡民は、論理的には、ほとんど合法的に勝利する可能性を手中にしたものと言えました。法律論において住民側の主張は、明らかに県側を圧倒していたのです。この時点で、これは明らかなる住民側の勝利であり、裁判における住民勝訴は約束されたものでした。
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「どげんする?」
高木課長の冷徹な未来予測を聞いている内に、鬼塚警部もより深刻な事態になっていることを理解したのか、声のトーンを落とし、現実的な対応を考え始めます。
しかし、鬼塚警部の不安をよそに、高木課長の答えの意味するところは簡潔明快でした。
「問題はありません。まだ、われわれに打つ手はあります。あまりことを荒立てることはしたくはありませんでしたが、こうなっては仕方ありません。」
高木の考える帰結は、当時の役所としては当然のものでした。
「ほいでん、いよいよ、おいの出番じゃな。」
嬉しそうに語る鬼塚に、高木は無表情のまま、小さく頷くのでした。
法律のみによってすがる東村山郡住民たちに対して、いよいよ、権力による激しい鉄の嵐が吹きすさぶとでも言うのでしょうか。それとも、住民の期待をのせて、宮城上等裁判所での審理が何事もなく粛々と進められることが出来るのでしょうか。
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(史実解説)
裁判所提訴に名前を連ねたのは、資料により41町村3620名とも3660名とも言われますが、その内、山野辺地区から提訴の訴状に加わったのは、大塚村94名・三河尻村29名の2村123名となっています。他に、天童地区と山野辺地区の間にある長崎地区より3村288名も提訴に加わっています。これらは比較的天童地区に近く、連携の取りやすい立地条件にあったためと、当該村の戸長自身が安達久右衛門よりも佐藤伊之吉に比較的近い関係にあった等の事由により、提訴に名前を連ねたのではないかと見られます。いずれにせよ、提訴参加者の約9割近くが天童地区を占めていました。
東村山郡住民側の弁護士に立った遠藤庸次という人物は、元仙台藩士で藩校養賢堂に学び、戊辰戦争にも従軍しました。その後、弁護士、宮城県議会議員、県議会議長を経て、明治22年に初代仙台市長となります。その後、政友会に入り衆議院議員となり、最後に再び仙台市長を務めました。弁護士としての経歴は不明ですが、東村山郡住民の弁護士を務めたことから見て、佐藤伊之吉とも何らかの接点があり、自由民権運動にも近いスタンスであったかと思われます。
また、担当判事となった小松弘隆は、司法権の独立を守ったとされる児島惟謙とも親交があったと言われています。児島は、山形県庄内地方のワッパ騒動で住民側勝訴の判決を下し、大津事件でロシアのニコライ皇太子に切り付けた巡査を一般傷害事件として審理を続け、皇室への不敬罪をこれに適用させようとした政府からの不当干渉を排除し、最後まで司法権の独立を守ったものです。子供に恵まれなかった小松は、その児島の三男を養子に迎えており、両者の親交の深さがうかがわれます。このような事情から見ても、担当判事である小松は住民側への一定の理解者であったと考えて良いかと思います。
佐藤伊之吉による宮城上等裁判所への住民提訴は県庁を震撼させました。関山新道経路についての問題以上に、法律上の瑕疵に基づく議員身分欠格を突いてきた住民側の主張は正当なものであり、県側の不利は免れません。関山新道工事そのものの執行にも関わる問題でもあり、それに震撼した県側は直ちに対策を協議します。




