第80話 伊之吉、住民提訴に成功す!
峰一郎は住民運動から一歩身を引いて教師に転じ、教育に生き甲斐を感じる一方で教育の現状に悩みます。その間も住民の上申活動は続き、佐藤伊之吉は予定通りにいよいよ裁判提訴に踏み切るべく動き始め、警察の監視の目を縫って道なき山中を突き進みます。伊之吉の行方を追う郡役所は、警察と協力して伊之吉探索に血眼になりますが、その行方は杳として知れません。留守は伊之吉が山中を走破して迂回を策しているものと考え、捜索の網を広げにかかります。
和田徹郡書記が直接に乗り出した佐藤家への立ち入り調査ではありましたが、伊之吉の動きに関する書付も何も見つかることはありませんでした。
もちろん、伊之吉の父親である戸長・佐藤直正に対して、いくら脅しすかしても、知らぬ存ぜぬで押し通されて、手掛かりはまったくつかめませんでした。
更に、荒谷村の村形宇左衛門など、反対運動に加担していると目されている天童地区の主要人物への家々にも、巡査を同道した郡役所郡書記が聞き込み調査の名目で家探しまでもしましたが、手掛かりになるようなものは何も見つけられませんでした。
また、山形警察署全署を挙げての必死の探索にもかかわらず、佐藤伊之吉の行方は、依然、杳としてつかめませんでした。
天童と山形の間を流れる馬見ヶ崎川や須川の検問のどこの網にも引っかからず、遠く西の朝日連峰を越えた白鷹地区方面まで、最上川流域を中心に警備の網を広げましたが見つかりません。同様に、郡役所から派遣された山野辺地区の山間部集落巡回に当たった者たちからも、何の有益な情報ももたらされません。
鬼塚警部は、伊之吉が街道を避けて山中を踏破し、山形の南側方面に迂回してくることまで予想して、山形の南側の上山方面にまで探索の網を及ぼしました。しかし、それでも伊之吉の姿を見つけられることはなく、また、山間部での不審な人物の目撃情報もまったくありません。
「どこに、消えおったとじゃ!クソ!いまいましか!」
山形の警察署では、連日のように鬼塚警部の咆哮がこだましていたのでした。
**********
伊之吉が姿をくらましてから十日以上たった11月28日、伊之吉の盟友、村形宇左衛門が荒谷村戸長として東村山郡役所に現れました。この日、宇左衛門は、荒谷村全住民総意として上納拒否の上申書を提出するために郡役所を訪問したのでした。
(伊之吉、俺たちもこっちで役所のやつらにせいぜい揺さぶりをかけてやる。お前だけに苦労はかけさせねえぞ。)
宇左衛門が戸長を務める荒谷村では、東村山郡役所に対する最初の上申書について、村民107名が佐藤伊之吉への委任状を提出していました。それは、10月2日の第一回上申に向けて作成されたもので、9月末頃には、ほぼ取りまとめられていたと考えられます。
しかし、その後に展開された郡役所の圧力により、個別に委任状回収を願い出て、反対運動盟約から離脱した住民が9人いました。この減少した9人の内、7名は荒谷村の村会議員です。
守るべき地位を持つ者は、どうしても官からの圧力には弱いと言うことが宇左衛門にもよく分かりました。いえ、宇左衛門が戸長を務める荒谷村はまだましな方でした。よその村の状況はもっと深刻で、巡査を伴った郡役所の威嚇や圧力に怯えた住民たちが、続々と委任状回収を戸長に願い出て、半分以上の住民が脱落した村さえありました。
また、伊之吉や宇左衛門たちがひた隠しにしている西村山郡議員団による負担金肩代り仲裁案が、どこから情報が漏れたものか、いつの間にか郡内に広まりつつあり、それが住民間に疑心暗鬼と亀裂を産みつつありました。
(これ以上の離脱者が出ない内に、人数を揃えられる内に、そして、まだ、力のある内に、何度でも、どんな形でも、郡役所への揺さぶりをかけなきゃいかん。それこそが、遠く離れて一人で戦っている伊之吉のために俺たちが出来ることなんだ。)
全郡民を背景にした佐藤伊之吉と安達久右衛門が行ったこれまでの三回の上申の場合とは異なり、一村単独で行う上申には、非常な危険が予想されました。宇左衛門はそれも覚悟の上での上申でした。事実、あの住民上申でさえ危うい場面があったことを、その場にいた彼も知っています。
しかし、宇左衛門には結果として幸運なことに、彼が郡役所に赴いた時、既に全力を挙げて伊之吉捜索と郡内巡回に全力を傾注していた郡役所には、留守に残された下級郡書記が1人いるのみでした。
その郡書記は、宇左衛門の上申書の重要性にも気付くことなく、唯々諾々とその上申書を受け取ったのでした。
「なんと!上納拒否!……拒否、だと!……いち戸長の分際で、我々を愚弄するにもほどがある!郡役所の権威を虚仮にしおって!」
伊之吉捜索に疲れ果てて郡役所に帰ってきた上級郡書記たちが、怒り心頭に達したのは言うまでもありません。彼らのやり場のない怒りの矛先を向けられた留守番役の下級郡書記こそ、たまったものではありませんでした。
**********
東村山郡の住民に不穏な空気が流れつつあるこの時、遂に鬼塚警部にとっての凶報がもたらされたのは11月30日でした。それは鬼塚警部だけでなく、高木課長・留守郡書記にとっても意外な方面からの連絡によってもたらされたものでした。
山形県庁の会議室に、鬼塚警部の咆哮が響きます。
「なんじゃっと!!!」
顔を真っ赤にして目を血走らせた鬼塚の前には、東村山郡役所筆頭書記留守永秀から使者を命じられ、県庁に報告に訪れた和田徹郡書記が直立しています。和田は淡々と報告を続けます。
「はい、本日、宮城上等裁判所よりの電報にて、本早朝、東村山郡民3660名が東村山郡五條為栄郡長を工事修繕費徴収不服につき提訴した旨、被告五條郡長宛に報知がありました。」
既に、裁判所からの電文には「被告」という文字が記載されています。
「くっそ!宮城じゃったか!まさか隣の県に行くっとは!くそ!くそ!くそ!」
結果的に裏をかかれたことになった鬼塚警部の怒りは収まりません。厳しい警戒態勢を敷いていただけに、彼の怒りはより激しいものがありました。もちろん、高木課長とても驚きを隠せませんでしたが、彼は既にその冷徹な頭脳をフル回転させ、今後の対応策の検討に入っていると思われました。
では、伊之吉は一体どのようにして仙台に辿り着いたのか。彼は天童村より南東方向にある山寺村に向かい、物々しい山形警察署の警備体制をあざ笑うがごとく、まったく無警戒の高瀬川添いに奥羽山脈に分け入りました。
山寺村は、天童地区への水源地となっている高瀬川流域の村であり、松尾芭蕉が紀行文『奥の細道』で「閑けさや岩にしみいる蝉の声」と俳句に読んだ名刹・立石寺があり、現在では有数の観光地になっている場所でありました。しかし、この当時は閑散としたさびれた山村に過ぎません。
この山寺村からは宮城県側の秋保村まで続く、ひと一人がやっと通れる程度の細道からなる二口峠があります。伊之吉は、工事関係者で人流の多い関山峠ではなく、この二口峠ルートを選んだのです。
伊之吉はその峠道さえも警戒して、道から外れた山岳地帯を何日もかかって踏破し、宮城県側の秋保村に出ました。現在も秋保温泉として有名なその温泉地で、彼は湯治客に紛れて温泉につかり山越えの疲れを取りました。そして、そこからは悠々と街道を通って仙台の街に入ったのでした。
宮城上等裁判所とは、明治8年8月に福島上等裁判所が仙台に移転して設置されたもので、山形地方裁判所を管轄する上級裁判所です。明治22年公布の大日本帝国憲法下でも再審制度は採られており、本来であれば山形地方裁判所での判決に不服がある場合の控訴審として審理がなされる場所との役割については現在の裁判制度と同じです。
しかし、今回の住民提訴について、宮城上等裁判所では即日受理の手続きを取りました。まだ大日本帝国憲法公布以前でもあり、規則的にはまだ緩やかな時代であったのかもしれません。組織上、山形裁判所の上位に位置する裁判所ではありましたが、訴訟に対する門戸は開いていたもののようです。
**********
(史実解説)
委任状の作成収集過程については東村山郡長尋問に対する荒谷村用掛村形忠三郎の証言が残っています。同姓であることから戸長村形宇左衛門の親族かもしれません。その証言によれば、まず、隣村の山元村戸長からの通知を受けて村民に伝えたところ「私共も各村並みに全委任致し度き旨、申すに付き止むを得ず小前之者に任せ、委任致させ」、その通知は「兼ねて御談示開鑿費之義に付き、尚又、別紙之通り、私村、委任状差出し候ろう約定に相成り、その御村方も差出シ候らいても宜敷き哉と存じられ候ろう間、別紙相廻し候ろうなり」として、これに委任状雛形を添付したというものでした。その雛形は荒谷村全員の上申委任状や提訴委任状と同文で、このように戸長役場間の廻状を通し、村毎に原告側町村民が組織化され、そこには戸長・村用掛の直接的間接的な役割が大きかったことがうかがえます。なお、10月2日上申参加者と11月30日裁判所提訴参加者の数字には資料により若干の違いがあります。本作では、上申参加者を『天童市史編集資料20号』、裁判提訴参加者を『山形県史資料編19』に依拠しました。
佐藤伊之吉の仙台への行動ルートについては不明です。当時は仙台に向けて関山峠・二口峠・笹谷峠という複数ルートが存在していました。関山峠は既に工事中でもあり、官吏側の人間も多数いて人目に付きやすいものと考え、笹谷峠は馬見ヶ崎川を越えての山形側からのルートになり、現実的ではありません。結果、消去法で二口峠ルートを選択したものと考えましました。蛇足ですが、山寺村を通るこの高瀬川流域では紅花作りも盛んで、スタジオジブリ制作のアニメ『おもひでぽろぽろ』はこの場所が舞台となっています。
この時代の地方裁判所は、現在の地方裁判所とは名称は同じでも別物です。明治5年の司法職務定制と明治8年の大審院諸裁判所職制章程にもとづいて設置された府県裁判所が、明治9年に地方裁判所として名称を変更したものです。ちなみに、明治14年に始審裁判所と名称が変更され、明治23年の裁判所構成法に基づき、再び地方裁判所という名称に変わりました。
佐藤伊之吉の行方がつかめぬ中、盟友の村形宇左衛門は、伊之吉を支援するために上納拒否の上申を郡役所へ提出し、官への揺さぶりを開始します。そのような中、伊之吉の消息が意外な所からもたらされます。伊之吉が山形警察署の警戒網をすりぬけ、鬼塚警部たちの裏をかいて、山形地方裁判所ではなく宮城上等裁判所への提訴に成功したのでした。




