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第79話 伊之吉、山中を奔る!

 住民運動での活動が官吏の知る所となった峰一郎は学校教師に転じ、教育に生き甲斐を感じ始める一方で教育の現状に悩み始めます。その間も住民の上申活動は続く中、天童警察分署の落成式が挙行され、官側は今後の住民運動弾圧方策を話し合います。同じ時、佐藤伊之吉は盟友村形宇左衛門と別れを惜しんでいました。伊之吉は予定通りにいよいよ郡住民連判の裁判提訴に踏み切るべく動き始めるのです。

 明治13年11月下旬、冬の訪れが近い中、佐藤伊之吉は奥州の山中を歩いていました。道なき道の山中の森を、踏み分け、踏み分け、歩いています。既に紅葉で色づく山々は、鮮やかな赤や黄色の葉に彩られ、美しい光景を現出しています。しかし、伊之吉にはそんな景色を愛でる余裕はありません。


 まだ、奥州の山岳地に初冠雪はありませんが、あと数日、十二月の声を聞く頃には、山岳部は薄っすらと冬化粧を施し始める……そんな季節です。雪はなくとも東北地方では寒さが厳しくなってきています。伊之吉は足全体を藁で組んだ草靴と言われる草鞋を履き、足には同じく藁で作った脚絆を巻き付け、身体全体を藁でくるんだ蓑を着て体温を守り、更には頭には稲藁で編んだ傘をかぶるという、頭から爪先まで完全な冬装備で歩いていました。


 稲藁で作った蓑は、古くは日本書紀にもその記録が残るほど、古くから地方の民の防寒具として愛用されてきました。その歴史は農家の米作りとともに始まり、「草鞋切れても粗末にするな、藁はお米の親だもの」と、蓑・草鞋作りは農家の冬場・農閑期の大事な作業でもあり、貴重な現金収入の方策でもありました。


 伊之吉は、そんな完全な冬装備のもと、傾斜の急な稜線を踏破し、鬱蒼と茂る奥州の森林を縦断し、更には冬眠前に餌を集める野生動物たちと遭遇する危険をも顧みず、山岳地帯を猛進していきます。人の往来のある街道を避け、人目を避けて道もない木々を切り開いて行くのです。それは、現在のように国土全体に人の手が入った、多少なりとも開発の進む山中とはわけが違います。想像を絶する樹海を行かねばなりません。


(梅、待ってろ。お父ちゃんは、お前たち皆の幸せを守るため、頑張っている。お前との約束だものな。お父ちゃんの無事な帰りを、お母ちゃんとお爺ちゃんたちと一緒に待っててくれ。どんなことがあっても、お父ちゃんは梅のもとに帰るからな。)


 父親の瞼には、人買いの横行する貧しい農村の中、突然、わけも分からず友達をなくして、泣いて家に帰ってきた幼い娘の姿が焼き付いています。あの時から、伊之吉の戦いは始まったのかもしれません。


 伊之吉は、そんな悲しむ娘との約束を忘れたことはありませんでした。自分の行動が、村の娘たちを守ってやれることにどれだけ繋がっているのか、そこまでは分からない伊之吉ですが、村の住民たちの貧困を救うための行動が、多少なりともそこに繋がることを信じているのです。


 伊之吉は、愛しい娘、愛する家族の笑顔を胸に思い描きながら、晩秋の山岳地帯を一心不乱に突き進んでいくのでした。


**********


 天童警察分署の落成式の二日後、11月19日、東村山郡役所の従僕の詰所で、和田郡書記の驚きに満ちた怒号にも近い声が響き渡ります。


「なに!伊之吉の姿が見えんだと!いつからだ!」


 和田書記の叱責を受けた従僕のひとりが、恐る恐る答えます。


「おどどい、分署の落成式の日は間違いなぐ家さいだのば見だっけっす。んだども、昨日は一日中、その姿が見えねぐなて、夜まで見張たげんとも、朝さなても家さ戻る様子が見えねっけす。」


 状況を理解した和田の行動は素早いものでした。新道開削反対運動を起こしている最大の住民グループを率いている指導者が、姿をくらましたのです。その意味するところは和田にもよく理解できました。


「なんと!……よし、わたしはすぐに留守書記にこのことを報告してくる。お前たちはすぐにでも出られるように準備をしておけ。」


「え?出がげるって、どさだべっす?」


 とぼけた従僕の返事に、和田の叱責が再び飛びます。


「天童村戸長佐藤直正の家に決まっておろう!わたしが直々に戸長に詰問する。お前たちは分署に行って巡査の応援をお願いしてこい。すぐに出るぞ、急げ!」


 和田の命令を受けて、慌てたように従僕たちが動き始め、叱責を受けた従僕は詰所を飛び出して天童警察分署へと駆け出して行きました。


**********


 和田の通報を受けた留守は、この日の来ることを予期していたように落ち着いて考えをまとめ、対応を命じました。


「ふむ、いよいよ動いたか。しかし、まだ、どこにも引っかかった形跡や取り押さえたとの報告もない。……直ちに、県庁の鬼塚警部のもとに使いを送り、山形・天童間の全域の警邏を一層厳重にお願いすることにしよう。」


 留守は自分なりに状況を分析し、伊之吉の行動経路について考察を深めます。


(丸二日も行方が分からんと言うことは、西側の白鷹方面に大きく回り込んでいるやもしれんし、いや、鬼塚どのもそれは当に承知だろう……。)


 白鷹地区は、地理的に村山郡ではなく置賜郡に属します。寒河江方面から最上川を下り、山野辺地区の西側山岳地帯の奥を流れる最上川沿いに南下すると、朝日村を過ぎた先に白鷹地区から長井、更には米沢へと繋がる盆地へと出ます。


 その昔、南の米沢方面から北の山形に向かう場合、直線距離で北上するには山岳地帯の難所が隘路となっているため、西側に大きく迂回して、比較的なだらかな長井・白鷹地区を経て、小滝峠を越えて朝日連峰を踏破し、山形盆地へと出るルートが一般的でした。つまり、留守書記は、頭の中で伊之吉の行動ルートを予測して、山形から南西方向にある、その小滝峠方面から山形に侵入するルートを想定したのです。


 もっとも、最上川の船着き場にはすべて山形警察署の目が光っているため、最上川を船で遡上することは考えにくいものがあります。まさか朝日連峰を縦断して白鷹側の小滝峠に出るとは誰にも思いもよりません。しかし、朝日連峰縦断となれば経路の山間部集落は、すべて新道開削反対派の山野辺地区の村々でもあり、伊之吉の隠密行動への住民の支援も期待でき、あながち無謀な経路とも言えません。そう考えれば、県側の裏をかいて出し抜くには格好のルートであるとも言えます。


「部下の郡書記に命じて従僕たちを分署に回し、馬見ヶ崎川と須川の境目の警備に協力させたまえ。それと、万が一に備えて、山野辺地区山間部の村々にも、手分けして従僕を派遣するんだ。ひょっとしたら我々の警備の裏をかいて、西側に大きく迂回しているやもしれん。いずれにせよ、伊之吉の顔を知ってるものは筆生も訓導も全部動員して警察への協力に当たらせろ。手の空いている郡書記も総動員するのだ。」


 和田は、留守の意図を正確に察知して、伊之吉が迂回策を取った可能性も瞬時に理解しました。留守の命令に対して打てば響くように答えます。


「了解しました。その手配を済ませ次第、わたしは、直接、天童の佐藤家に赴き、父親である戸長を尋問し、家探しして、奴らの委任状や手掛かりになりそうな書付などもないか調べてまいります。……それと、現状、実施中の戸長・地主などへの巡回はいかがしますか。」


 和田の言う「巡回」とは、村々の視察といったものではなく、圧力を伴った住民運動弾圧行動であり、負担金徴収のための威嚇的な督促です。その和田の問いに、留守は考えるまでもないかのように即答し、更には佐藤家探索についても、念のため、指示を忘れることはありませんでした。


「巡回は継続しなければならん。その配置と人選は君に任せる。なお、山野辺地区の巡回は山間部集落を重点に行い、併せて伊之吉の探索も行わせたまえ。……それと、承知だろうが、佐藤家に行くなら巡査も同道したまえ。必要なら少々手荒なことも必要だろう。伊之吉が提訴に動いたのなら、委任状などはすべて持ち去って帯同してるだろうが、やれるだけのことはやっておかんとな。」


 明治初期、為政者側にとっての警察とは、建前はともかく、実態は自分たちの望む状態での治安を維持するための武力組織でした。治安という概念は、為政者側にとって恣意的に判断されるものであり、その警察力はいつでも人民を弾圧する装置に切り替えが可能なものであったと言えました。


**********


(史実解説)


 現在、山形県を南北に縦断する国道13号線は、山形市から南へ上山市・南陽市を経て米沢市までを直線的に結ぶ県の大動脈となっています。しかし、かつては上山市と南陽市を結ぶ鳥上坂と呼ばれる隘路が難所となっていました。実は、この鳥上坂ルートの開削も三島県令の行った土木事業のひとつでありました。


 しかし、それ以前においては、この直線ルートではなく、南陽市の西側を迂回するように最上川に沿って北上するルートが一般的に使用されていました。それは、米沢市の北西にある長井市から白鷹町を経て、そこから小滝峠を越えて山形市の南西部で山形盆地へと出る国道348号線のルートになります。


 関ヶ原の戦いの折、西軍に属した上杉景勝の軍勢が、東軍側の最上義光を攻めた時も、この白鷹地区からの小滝峠越えを行い、最上氏の拠点である山形を窺いました。この時、直江兼続率いる二万五千の上杉勢は、山中の要害である畑谷城を陥落させ、山形盆地の入り口となる要衝の長谷堂城で最上勢と激戦を繰り広げました。

 伊之吉は警察の監視の目を縫って、裁判提訴に向けて道なき山中を突き進みます。伊之吉の行方を追う郡役所は、警察と協力して伊之吉探索に血眼になりますが、その行方は杳として知れません。留守は伊之吉が山中を走破して迂回を策しているものと考え、捜索の網を広げにかかります。

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