第73話 お兄さん先生
住民と郡役所との狭間で峰一郎は村のために活動をし、その活動を通して様々なことを学びます。しかし、峰一郎の活動は遂に官吏の知るところとなり、村の大人たちは峰一郎を学校教師とすることでその身を守ろうとしました。村の子供たちを守ろうとする叔父の久右衛門、息子の成長を感じながらも辛い思いで見守ることしかできない両親、様々な大人たちの愛情に支えられ、峰一郎は天童の伊之吉や梅のことを案じつつも、新たな生活に向かい始めます。
翌日、峰一郎は、父の久と三つ年下の次男・幸治郞と一緒に山野辺学校へと向かいました。弟の幸治郞は、大好きな兄と登校するのが嬉しくてたまらず、はしゃぎ回っていました。峰一郎も、しばらくかまってあげられなかった弟と一緒で嬉しそうにしています。
久はそんな息子たちを眺めつつも無言で歩きます。父親の心の裡は窺い知ることはできません。しかし、峰一郎は父を信じることで、新しい教師の仕事につくことを決心しました。とは言うものの、伊之吉や梅のことが気掛かりであるのは変わりません。しかし、今は自分の出来ることをしっかりと自分に課すべきだと理解できるほどの聡明さを持ち合わせた少年でもありました。
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当時の山野辺学校は、現在のような独立した学校としての校舎はまだなく、浄土宗に連なる浄土寺という寺院に間借りをしている状態でした。浄土寺は山野辺村の中でも南側にあり、山野辺村の北隣にある高楯村の安達家からは、徒歩で約30分程度の道のりでした。
浄土寺の正門は、山野辺村から南側に向かう白鷹街道と、東側の山形に向かう山形街道に面して、東側に向いていましたが、高楯村のある方角の北側に向けても参道がありました。峰一郎たちはその北側の参道から境内に入り、墓地の間を通って行くと、左手に鐘撞堂、右手に本堂が出てきます。その本堂が山野辺学校の講堂でした。
峰一郎は、父とともに本堂の階段を登り、本堂から繋がる御坊の職員室へと向かいます。弟や妹たちは、本堂や境内で友達と遊んで授業が始まるのを待ちます。
職員室と言っても、御坊の一室を間借りしている和室です。廊下で膝をついた久が襖戸を開けると、敷居の前で両手をついて、父の安達久が慇懃に挨拶を始めます。
「おはようございます。こごにおるは、本日より教員助手を拝命した安達峰一郎です。皆さま、よろしぐお引き回しのほどお願い申し上げます。」
父が大声で峰一郎を紹介したのを受けて、父の左隣に控えていた峰一郎が慌てて頭を下げます。
「安達峰一郎ど申します。どうぞよろしぐお願いいたします。」
すると、部屋の中から年配の職員らしき男性が立ち上がり、にこやかに峰一郎に近づいて来ました。
「峰一郎くん、君の話すはよぐ聞いっだっす。学業優秀で前途有望な青年だど聞いでます。わだしは君の卒業ど入れ違いに、昨年がらこごの学務員ばしった高橋弥四郎ど言います。」
峰一郎の見るところ、その高橋弥四郎は鬢に白いものが混じって、父よりも、叔父の安達久右衛門よりも更に年配のように見えました。
「こごば卒業すた君が、今度は教員とすて戻って来っどは愉快極まりねえべす。どうが、生徒皆のお兄さんとして、よろすぐ頼みます。」
弥四郎は、年長を嵩にきるような尊大な風もなく、まだ少年の峰一郎を一人前の青年教師と遇し、丁寧な挨拶を返したのでした。
「こぢらこそ、どうぞよろすぐお願い申し上げます。」
弥四郎はにこやかな笑顔で峰一郎を部屋の中へと招き、今後の服務についての説明を始めました。
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学校とは言っても、実際は寺院の間借りです。建物自体がお寺であれば、学校としての中身も寺小屋の延長線上のような状態で、まだしっかりしたカリキュラムというものがなく、実質的には「読み・書き・算盤」を手ほどきしていました。
それに学年ごとの教室があるわけでもなく、講堂で幼きも年長も一緒に机を並べる複式学級のようなものでした。複式学級と言えば聞こえは良いのですが、教師も数が足りないし、実情がそうですから、そうせざるを得なかっただけでした。
しかし、峰一郎にとっては、ある意味で教えやすい環境でもありました。各生徒がそれぞれの学力度合いに応じて、読み・書きをしている中、教員助手の峰一郎は、それぞれの生徒の中を歩き回って、個別に気の付いた生徒への手解きをしてあげるのです。
それは、石川尚伯先生の鳳鳴館や東海林寿庵先生の東子明塾で、峰一郎が年少者へ指導していた時の要領と同じでした。また、生徒の方でも、年嵩の先生に聞いて教えてもらうより、歳の近い兄のような峰一郎への尋ねやすさもあって、数日をいでずして、生徒の学業は目に見えて進んで行くのが傍目にも分かることになります。
これには、実際、父の久も驚いたようで、峰一郎には教員としての素質に恵まれているように感じたようです。また、峰一郎もまた、子供たちに勉強を教えるということの楽しさを少しづつ感じるようになります。しかし、それはまた後のことです。
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その日の内から、峰一郎は精力的に教師としての勤めに邁進します。早速、峰一郎が先輩教員の後について講堂に出ると、50~60人の児童を前に教壇に立ちました。
「みんなさ紹介すっべ。新すぐ来だ安達峰一郎先生です。」
「あ~!先生とおんなじ名前だ~!」「先生の弟さんだが~?」
子供たちが大声ではやし立てます。その先輩教員は安達貞造と言い、安達久右衛門の長男になります。峰一郎にとっては従兄のようなもので、小さいころによく遊んでもらったお兄さんでした。
貞造は峰一郎よりも9歳年長の21歳の青年教師であり、既に高楯学校の頃から安達久とともに教鞭を取っていました。そして、この明治13年3月に県の学力試験を受けて「学力証明書」交付をされ、正式な教員免許状を取得した数少ない正教員のひとりでした。
「そうだぞ~、峰一郎先生は、先生の親戚なんだ~。でも、みんなの方が歳が近いからな~!みんなのお兄さんだぞ。何でも、分からないことがあったら、峰一郎先生に聞くんだぞ~!」
「は~い!」「は~い!」「は~い!」
子供たちは新しい若い先生に、興味津々です。先生というよりは、本当に若いお兄さんが来てくれたかのように大喜びではしゃいでいます。無理もありません。年長の児童にとっては、ほんの1年前まで一緒に勉強して、手ほどき教えてくれた本当のお兄さんです。
峰一郎が講堂に居並ぶ子供たちを眺め渡すと、子供たちの中に弟の幸治郞も、山野辺村の清十郎の姿も見えます。二人とも峰一郎先生の紹介に、我がことのように誇らしげにしています。
「よう~し、じゃあ、今日の勉強を始めるぞ。」
子供たちは新しい先生との勉強を、楽しそうに始めるのでした。
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郡役所では、学務勧業担当の和田徹郡書記が、毎日のように各村や学校から上がってくる書類に決裁をしています。およそ百ヶ村ある村々と50近い学校から上がってくる膨大な事務書類を、和田は毎日のように処理しています。東村山郡の教育および産業に関する行政事務は、すべてこの和田書記の専権事項となっているのでした。
淡々と事務をこなしていた和田は、次々と書類の束を決済し、処理していきます。すると、ふと、和田の手が止まります。和田はある学校からの1枚の報告書を手に取り、しばらくその書類を凝視していましたが、フッと表情を緩めました。
それは、山野辺村の山野辺学校から提出された補助教員採用の書類でした。そこには、10月1日付けで優秀な地元青年を教員助手に任命したいとの旨が記載されています。
教員資格付与は県の専権事項ではありましたが、まだ、正規の教員資格を有している教師が少ない当時、地元の優秀な人材を教員補助に任命することが少なくありませんでした。そのため、間借りしている寺の住職や寺子屋の師匠、また、戸長や地主の知識者を教員助手に採用するケースがままありました。その場合、地元の村や学校からの推薦で任命して、役所が事後承諾をするというケースも少なくありませんでした。
しかも、これは10月1日付け、既に半月も日付の過ぎた書類ではありました。しかし、和田はそこに秘められた意図を正確に見抜いていました。
「留守書記、ちょっとよろしいですか。」
和田は席を立ち上がると、その書類を手にして留守の机に歩み寄り、その書類を留守に見せました。
「山野辺学校教員補助採用願
右ノ者、東村山郡山野辺学校教員補助御差遣相成度、履歴書相添此段奉願候也
(右の者、東村山郡山野辺学校教員補助、御差し遣わしあい成りたく、履歴書あい添え、この段、願い奉りそうろうなり。)
同郡山野辺学校教員補助安達峰一郎
明治十三年十月一日 同学務員佐藤清五郎
山形県令三島通庸殿
履歴書
山形県下羽前国東村山郡高楯村居住
平民安達久長男安達峰一郎
(以下略)」
留守永秀筆頭郡書記はしげしげとその文書を眺めてつぶやきます。
「ふむ、なるほど……。」
それを見た留守は、しばらくして満足そうに頷きました。そして、机の前に立つ和田書記を見上げ、その書類を和田に返したのでした。
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(史実解説)
安達峰一郎が明治13年10月1日に山野辺学校補助教員を拝命したのは史実です。しかし、その任命書、もしくは任命願いに類する文書は残念ながら確認はできませんでした。このため、本文中の安達峰一郎の「教員補助採用願」と題した文書は、山辺町編纂の『山辺町史』所収の明治13年3月11日付山野辺学校五等准訓導安達貞造の「公立学校教員試験願」を元に作者が作成いたしました。その元文書たる「願い書」添付履歴書によれば、安達貞造は明治5年から9年まで、後に峰一郎も学んだ東海林寿庵の門下として漢学を学んだ峰一郎の同門先輩のようです。明治9年1月、17歳で高楯学校仮教師助手拝命、10年5月伝習学校入学、同年5月四等授業生拝命し高楯学校・大蕨学校勤務を経て、12年6月五等准訓導拝命し山野辺学校勤務、明治13年に21歳にて正教員免状を獲得しました。
まだ師範学校卒業の正教員が少なかった当時、それに相当する学力試験を実施し、その合格者に「学力証明書」を交付して県が教員資格を与えていました。その役割を担ったのが、明治8年創設、山形香澄町内に新築の「伝習学校」でした。この伝習学校では、満13歳以上で各学校から推挙のあった者について一定期間の研修を受講させて教員としての学力取得を施し、また、一定期間の実務経験を経た上で読書・作文・算数・終身の試験を行って正教員資格を取得させていました。しかし、峰一郎はまだ満13歳の年限未達のため、教員補助として採用されたものと思われます。
なお、峰一郎の父・安達久も、安達貞造と同じく明治13年に「公立学校教員試験願」を提出して正教員となっています。その添付履歴書によれば、安達久は明治8年7月に26歳で高楯学校事務取扱を拝命、明治10年1月に伝習学校での百日間研修の受講後、三等授業生として仮教員資格を取得、明治12年3月、30歳の時に四等准訓導として山野辺学校勤務、明治13年の正教員資格取得当時は31歳でした。
教員補助として新たな生活の第一歩を記した峰一郎でした。学校では子供の頃から親しくしていた兄のような貞造が先輩教師として峰一郎を暖かく迎え、また、歳の近いお兄さん先生として児童たちも大喜びでした。一方、郡役所においても、この峰一郎の学校勤務は、住民運動に対する一定の成果と捉えられたものか、その首脳部からは好意的に受け止められたもののようでした。




