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第72話 少年教師の誕生と母の思い

 住民と郡役所との狭間で、峰一郎は『国民の法律』という概念を知ります。落合の渡しで郡の捕り方と対峙した危機に、親友たちが現れ窮地を脱します。その際、和田書記から世の中の正義を調整し百年先を見据えて決めるのが役所の役目だと言われますが、久右衛門からはだからこそ『法律の正義』が大事であり、人民の代表が法律を決める制度を作り上げなければならないと教えられます。しかし、同時に久右衛門は峰一郎に新たな務めとして、学校の教師になることを薦められました。

「お、俺が……学校の先生?」


 峰一郎は驚きました。ここに前代未聞の数え歳12歳の教師が誕生しました。教員養成を目的とした山形師範学校創立は明治11年、どこの学校も資格を持っている教員が少なく、無資格の助手を任命している場合が多かった時代とはいえ、異例中の異例の人事といえます。


 この異例の人事が実現した背景には、父親の安達久が同じ山野辺学校の教師をしているということと、学校の運営資金の少なからぬ部分を本家の安達久右衛門が支援していたという周辺環境が、預かって力となっていたものと思われます。とはいえ、現実に峰一郎が衆目が認める程に学業優秀な生徒であったということが少年教師として実現できた最大の理由であったことでしょう。


 いずれにせよ、ここに、満11歳、数えでも12歳の少年が、教壇で教鞭をとることとなったのです。


 もちろん、10月1日付けに遡って辞令を交付したということは、峰一郎が天童と往還した事実を糊塗する意味合いがありました。


 当然ながら、このような小手先の小細工はすぐにばれるのは久右衛門や久も承知の上でした。しかし、これは、郡役所に対して、峰一郎による天童との連絡往還を中止するとの暗黙の意思表示ともなります。


 須川で峰一郎と相対した和田徹郡書記は、東村山郡役所でただひとりの学務勧業担当専任の郡書記であり、この人事発令は恐らく和田の目に止まることでしょう。そして、その人事に込められたメッセージは確実に郡役所上層部、留守永秀筆頭郡書記までに伝わるものと久右衛門と久は判断したのです。


 久右衛門としては、是が非でも少年たちには危害が及ばないように、少年たちの安全を担保したかったのです。また、学校の運営費用が、原則的に教育を受ける子弟を持つ住民側の負担とされていたため、結果的に実質的運営に多大な支援をしていた久右衛門などの地元地主の意向を行使しやすい側面も、峰一郎を教師として採用させるための一助となったかもしれません。


 しかし、最初に少年たちの助けを仰いだのは大人たちでした。少年たちの熱意にほだされたと言えば聞こえは悪くありませんが、それを進めたのはやはり大人たちです。虫がいいと言われれば久右衛門も反駁は出来ません。しかし、身勝手を承知で久右衛門たちは敢えてそうしました。そうしなければならないほどに、相手は強大であり、自分たちは無力でした。


「……。」


 長い沈黙が親子の間に流れました。囲炉裏のパチパチとはぜる音だけが、しみわたるように閑かに空間に響いていきます。


 久は父として峰一郎の無念さをよく理解しています。むしろ、親として峰一郎にもっと働き所を与えてやりたいとも願っていました。しかし、「子供たちを踏み台にした住民運動に正義はない」と喝破した久右衛門の正論には、恐らく、久ならずとも、誰も反論は出来なかったでしょう。


 しかしながら、峰一郎にはまだそこまでは考えが至りませんでした。峰一郎は運動の行く末はもちろん、佐藤伊之吉の力になりたい、娘の梅を守りたい、その強い思いを押さえようもありませんでした。


 長い沈黙を破り、峰一郎が言葉を紡ぎ出します。


「俺さは、ほんてん、もったいねぇ話しで、ありがでぇ事だげんと、伊之吉さんやお梅ちゃんが危ねえ時、俺だげ学校の先生なんか、やってらんねっす。」


 峰一郎のその返事を当然に予想していた久が、にべもなく答えます。


「伊之吉さんは大丈夫だ、伊之吉さんの娘の事も、お前が心配すっ事でねえ。とりあえず、お前は教員の助手どして務めでもらう。学校さ行ったら教務課の先生ど相談すっさげ、どういう風にすっかは、明日、学校さ行ってがらだ。」


 父の久は、もう峰一郎が教員として勤める前提で話しを進めていました。父もまた山野辺学校の教員をしていますから、話しは早いのです。


 しかし、峰一郎はまだ食い下がります。


「仮の方便でもお梅ちゃんは俺の許嫁だ。んだば、伊之吉さんは、俺さはお舅様だ、父親だ。父親と嫁の事ば心配すんのは、人どして当たり前でねえのがっす。」


 伊之吉はすくっと立ち上がり、峰一郎を見下ろして言い切ります。


「半人前の子供が、いっちょ前の口ばきくな。」


 その半人前の子供を学校の先生にしようと言うのです。これほど矛盾した言いようはありません。しかし、自分の身を心配して守ってくれるため、父親とおじさんが考えてくれたことですから、峰一郎はそんな屁理屈を言うつもりはありません。ただ、人としての情において、忍び難い自分の思いを、せめて父に分かってもらいたいと思うのでした。


 峰一郎は父の足に取りすがるように、両手をついて父を見上げます。


「でも……。」


 しかし、久もまた、峰一郎の思いはよく分かっていました。そして、人としての優しさを知るような子に育ってくれたことに感謝しました。でも、それが分かるだけに、峰一郎のその必死な瞳を久は正視することができません。


 久は峰一郎に背を向け、次の間に続く襖を開けると、振り返らず、横顔で峰一郎に声をかけました。


「つべこべ言うな、この話しはこいで終いだ。もう寝ろ。お前も明日から俺ど一緒に学校さ行ぐさげな。」


 そう言って、父はピシャリと襖を閉じたのでした。


**********


 次の間では、峰一郎の母親のしうが心配そうに夫を迎えます。傍らにはまだ幼い乳飲み子が、スヤスヤと寝息を立ててやすんでいました。


 妻の不安そうな顔を見て、久は心配するなとでも言うように頷きます。


 両親はすべてを知った上で、峰一郎にもう天童には行けぬことを強いていたのでした。峰一郎と梅が伊之吉よりかりそめの許嫁を命じられた時、伊之吉から久右衛門へ宛た文の中にも、その旨、了解をいただきたい旨がしたためられていました。


 久の息子だけに危険な真似をさせるわけにはいかない、自分も娘を遣わし許嫁を装わせるが、万一の場合には自分の身に代えてでも必ず峰一郎を助ける、……そんな伊之吉の覚悟がそこには切々としたためられていました。


 その文は久右衛門から久夫婦にも見せられて、両親ともに峰一郎が伊之吉に可愛がられ、期待されていることを知りました。


 久も、最近では峰一郎の考え方の驚くべき成長ぶりを目の当たりにして、実地の得難い経験を積み、手ほどき教えてくれた叔父の久右衛門や天童の佐藤伊之吉に、父親として感謝しきれない程の恩を感じていました。


「峰一郎の嫁女の顔、おらも見っだいっけな……。」


 目に薄っすらと涙をにじませながら、しうがにっこりと久に微笑んでつぶやきます。


「良い子なんだべな。」


 妻のその哀しそうな笑顔に、久はやや辛そうに笑みを返して答えます。


「んだ、……峰一郎さは、もったいねぇ、働き者の可愛い子だっけな。」


 久も何度か伊之吉の家に行ったことがあります。記憶をたぐると、健気に母親の手伝いをしていた幼い娘御の顔が思い出されます。利発で意志の強そうな大きな黒い瞳と、情に厚そうなぽってりとした唇が印象的な、可愛い娘でした。


「んだが……。」


 しうは満足そうに笑顔で答え、久に向けて顔を上げながらも、その頬には一筋の涙が軌跡を描いていました。


 久は黙ってしうを優しく胸に抱きしめました。しうはそのまま久の胸に顔を埋めます。


「おとさん、大丈夫だ。……峰一郎は賢い子ださげ、ちゃんと分がてける。」


 しうの呟きを、ただ無言で頷く久でした。


 父は、相手が誰であろうと立ち向かう勇気を持った息子を誇りに思い、母は、大切な人を守ろうとする優しさを持つ息子を嬉しく思ったのでした。


**********


(史実解説)


 峰一郎の山野辺学校教員助手の服務については、10月1日付けで任命されたこと以外には何も分かりません。ですので、以上の経緯についてはまったくの筆者の創作とお考え下さい。しかし、関山新道建設問題に伴う住民たちの上申運動のピークにおけるこの時期に任命されたということは、峰一郎がこの運動になんらかの関与をしていたのか、もしくは、積極的な活動を行っていたのではないかと類推できる余地があると考えます。それがために、おじ久右衛門と父の久が、何らかの理由・意図をもって、峰一郎を学校教員にさせざるを得なかったことが可能性のひとつとして考えられるとも思えます。いかに明治の教育創生期とはいえ、また、峰一郎が優秀であったとはいえ、それほどに12歳の学校教師というのは例外的な異常措置ではなかったかと感じられます。

 峰一郎は父から山野辺学校の教員として服務することを命じられました。しかし、峰一郎の思い知る父もまた息子の辛さをよく理解していました。そして、峰一郎のことを案じる母もまた、成長した我が子を信じて見守るのでした。

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