第71話 法律の正義
住民と郡役所との狭間で、峰一郎は、法律に人民の意思という『魂』を入れた『国民の法律』というものを知ります。峰一郎が梅と許嫁の約束を交わした帰路、落合の渡しで郡の捕り方と対峙します。そんな峰一郎の危機に親友たちが現れて窮地を救ってくれました。須川を挟んで和田書記と対峙した峰一郎に、和田は世の中にたくさんある正義を調整し百年先を見据えた決定をする者こそが役所の仕事だと語ります。峰一郎はそれに一言も返せぬ自分を情けなく悔しい思いをします。
須川を挟んでの郡書記との初めての直接対決は、峰一郎が一方的に和田書記からの主張を聞かされて終わりました。しかし、峰一郎の長い1日はまだ終わったわけではありませんでした。
峰一郎を迎えた高楯村の安達久右衛門は、役所の対応の素早さに驚きを隠せませんでした。そして、同時に天童地区との連携した活動が、今後は非常に困難になったことを知りました。
囲炉裏を挟み、安達久右衛門が正座する峰一郎と向き合っています。峰一郎を救出した三人の少年たちも同じく正座していました。
「……そうか、郡書記の方がそのように言っておったか。」
峰一郎や少年たちの報告を聞いた久右衛門は、その話しの内容から、渡し場に姿を現した郡書記が和田徹であることを確信しました。和田は、学務勧業および庶務を担当する東村山郡役所では実質的に留守書記に次ぐナンバー2の郡書記でした。
(和田様が峰一郎にそこまで話しをしてくれるとはな、……峰一郎も果報者よ。)
「おんつぁま、あの役人が言った事は間違ってだずね。俺だこそが正しいんだべ、俺だは間違てねよな。」
峰一郎は和田から言われたことにまだもやもやしていましたし、どうしても納得ができませんでした。ですので、自分の感じた疑問を、そのまま素直に久右衛門に尋ねました。
「峰一郎、昨日、西郡の議員さんだが、こさ来たなは、おべっだな(おぼえているな)。」
峰一郎は頷きます。西郡の議員が来た時、峰一郎の父である久が、どうしようもなく苦しい表情をしていたのを、峰一郎は忘れる事は出来ません。
「西郡の住民さは西郡の住民の正義ざある。んだが、ほれは必ずしも俺だ東郡の正義どは同ずではね。西郡には西郡の、東郡には東郡の、それぞれの正義ざある。」
「え!……ん、んだば……。」
じっと久右衛門と峰一郎の話しを聞いていた三浦定之助が、思わず叫んでしまいました。自分たちは自分だけの我儘で運動をしてきたのか?あの役人の言ったことは正しかったのか?定之助はそう受け止めてしまいました。
しかも、続く久右衛門の言葉は更に少年たちを驚かせます。
「お役人の言われる事も正しいがもすんね。」
「ほだな!」
4人の少年たちは声を揃えて叫びます。しかし、驚く少年たちを尻目に久右衛門は淡々と言葉を続けます。
「んだども、ほれはお役人の言うどごの正義だ。住民の正義ども違う。」
峰一郎は、もう何が何だか分からなくなってきました。頭がこんがらがりそうです。
「おんつぁま、俺、分がらねぐなてきた!」
久右衛門は優しく峰一郎に答えます。
「ほのお役人の言う通り、正義さはいろんな正義がいっぺえある。んだがらて、ほごさは法律てぇもんが必要になる。俺だは、そのいっぺえある正義ば、この法律で調整すんだ。役人が調整すんでねぇ。ほれは役人の立場での正義、役人の正義だ。それは本当の正義では、ねぇ。」
峰一郎は頷きながら静かに久右衛門の言葉に聞き入っています。
「俺だが目指すなは『法律の正義』だ。住民も役人も、みんなが納得して、言う事ば聞ぐい正義だ。……んだからてこそ、役所の都合で決めだ押し付けの法律でねぐ、人民の代表が話し合って法律ば決めらんなねんだ。」
「法律の正義……。」
『法律の正義』……峰一郎はその言葉を何度も反芻します。そして伊之吉から聞いた話しを思い出しました。
「ほれが……形だけの法律さ、魂ば入れる……て、事だべが。」
久右衛門は、的を射た峰一郎の言葉に喜びました。そして、笑顔で峰一郎に答えます。
「伊之吉がほう言ってだっけなが。……んだ、ほの通りだ。俺だは官の不正ば糾弾し、官の不備不正ば指摘し、ゆぐゆぐは俺だ人民自身の代表で国の法律も決めるい国作りば目指さねばなんねんだ。ほれが、魂ば入れるって事だ。」
峰一郎は驚きました。いえ、感動していたとも言えます。久右衛門の言っていることは、伊之吉が言っていたことと同じでした。
和田の言葉に言い負かされながらも、心のどこかで何かが違うと感じていた何かが、久右衛門の話しを聞くことで、峰一郎にもピタリとそれが胃の腑に落ちて収まりました。その「何か」こそが『法律』だったのです。たくさんある人それぞれの立場での正義、それを調整し、より良い暮らしを作るもの、それこそが『法律』でなければならない、それが峰一郎の中ではっきりとした形となりました。
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そこに峰一郎の父の安達久がやってきました。久は、久右衛門に一礼すると、座敷には上がらず、框に腰を下ろしました。
すると、久が来るのを待っていたかのように、久右衛門は姿勢を改めて少年たちに向き直ります。
「峰一郎、定之助、今日までよぐやってけだ。礼ば言う。こごさはいねげんど、確治さも感謝しった。……ほして、太郎吉に泰助、ほれに清十郎もだよな、……高楯村でもねえお前だも、陰ながらこの3人ば助けでけでありがど様な。お前ださも礼ば言うだい。」
久右衛門は少年たちに深々と頭を下げました。4人の少年たちは驚いて威儀を正しました。
「皆のお蔭で、伊之吉さんどの連絡もうまぐ行った。こごまで来らっだのは、確治や定之助が各村さ回って委任状ばまどめでけで、峰一郎が天童どの連絡ばしてけだお蔭だ。しかも、皆さは危ない目さまで合わせでしまった。村の大人どして、本当に申し訳ね。」
少年たちを代表するかのように、峰一郎が気持ちを表します。それは若者らしい健気にも勇ましい思いでした。
「俺だは村の役さ立だせでもらただけで、すげぇ嬉しいっす。危ねぇなて思わねっけし、まだまだこいがらも伊之吉さんさ連絡役ば務めさせでもらうだいっす。」
その峰一郎の言葉に、定之助や太郎吉、泰助もそろって頷き、同感の意を示します。
しかし、ここは大人の理性的な判断が少年たちの思いを押し止どめます。
「いや、峰一郎、今迄みだぐ役所の目ば潜り抜ける事はもうさんね。今までが思た以上にうまぐ行っただけだ。こいがらは役所の方も、子供だがらて容赦してけねべ。」
「んだども!」
峰一郎の叫びを、久右衛門は左手で制止して、更に話しを続けます。
「いや、峰一郎、特にお前は役所さ目ぇ付けらっだ。今回のお役人は、お前さ話しもしてけだげんと、役人ば甘ぐ見ではだめだ。」
それでも何かを言いたそうにしていた峰一郎でしたが、久右衛門の瞳はそれを許さないような力強い視線を峰一郎に向けています
「お前の身元も恐らぐはもう知られっだべ。これ以上、天童さ行ったら、峰一郎だげでねぇ、峰一郎の家族さも危ねえ目さ遭わせっがもすんね。まだちゃっこい妹や弟ださまで危険にはさらさんね。……お前の気持ちはありがだい。ありがだいげんと、どうが分がて、こらえでけろ。……しぇえな。」
久右衛門の最後の締めで、峰一郎も、他の少年たちも何も言えませんでした。峰一郎は悔しさをおのが拳に託して、膝の上で強く握りしめることしか出来ませんでした。
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その日の夜、家族の寝静まった頃、久と峰一郎の親子は、まだ自宅の囲炉裏端にいました。ここでも峰一郎は端座して父の話しを待っていました。
閑かに秋の虫の声が家の中にまで響いてきます。
長い沈黙のあと、久は囲炉裏の火をくべながら峰一郎に話しを始めました。
「お前の今後の身の振り方は、もう久右衛門さんと相談して決めさせでもらた。当座の間、お前には学校の教師どして山野辺学校さ行ってもらう。10月1日付けで山野辺学校教員助手への任命書も出来っだ。お前さ聞ぎもすねで悪っけども、当面は学校さ勤めながら今後の事ば考えっべ。」
「お、俺が……学校の先生!」
峰一郎はまだ数えでも12歳。現代で言えば小学6年生です。ここに前代未聞の子供先生が誕生することになります。
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(史実解説)
安達峰一郎が山野辺学校を卒業した明治12年、それまで、独立して存在していた深堀学校・高楯学校・大塚学校が山野辺学校に統一されたために、教員不足が当面の問題として浮上した可能性があります。明治5年に太政官から出された「学制」では「小学校教員は男女を論ぜず、年齢二十歳以上にして、師範学校卒業免状あるいは中学免状を得しものにあらざれば、その任に当たることを許さず」と明示しています。しかし、一方で当時の山形県学事年表を見ると「学力もとより教育に任ずるに足らず、へき村教師のごときは、下等教科書を解しかね、生徒へまちがいを教え……」という状況でした。そのため、峰一郎のような優秀な生徒を助手として任命する苦肉の策が取られたであろうことが偲ばれます。
実際に、山野辺学校の教員をしていた峰一郎の父の安達久も教員資格がなかったため、明治9年に高楯学校の事務員の肩書で務め始め、翌明治10年に教員資格を得て正式な教師となりました。表向きの「学制」に現実の実態がまだ追いついていない時代、変則的な制度がまかり通っていたものと思われます。実際、地方の教育事情としては校舎に既存の寺院を間借りするケースが多かったために、教員免許も持たない寺の住職を教員に任命するということもしばしば見られました。
なお、当時の学校経営は、その学校建設と維持と教員給与等の人件費など、もろもろの運営に関わる経費は、原則として教育を受ける者が負担するべきであるというのが文部省の方針でした。政府からの国庫補助金はありましたが微々たるもので、実際に住民の負担は大きなものがあり、せっかく確保した教員に支払う給与も遅配が横行していました。このような状況で明治8年、当時の戸長であった安達久右衛門が自分の田畑6反20歩を抵当にして、学校資本金を借用準備した記録があります。このような背景もまた峰一郎を教員助手として山野辺学校に入れるのに力が預かった可能性もあります。
高楯村に戻った峰一郎を迎えた久右衛門は、和田書記の話しを肯定しつつも、そこにあるのは役所の正義であると語ります。そして、自分たちが目指すのは「法律の正義」であり、そのために人民の代表が法律を決める制度を作り上げなければならないと言います。しかし、同時に久右衛門は峰一郎に天童への連絡使の務めを終了すると言い渡します。そして、新たな務めとして、峰一郎に学校の教師になることを薦めるのでした。




