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第70話 峰一郎 対 和田書記

 住民と郡役所との応酬の中、伊之吉は峰一郎に法律へ人民の意思という『魂』を入れてこそ、真の『国民の法律』ができると語る。天童の帰りに峰一郎と梅は許嫁の約束を交わしますが、落合の渡しで郡の捕り方が現れ容赦なく峰一郎と梅に襲い掛かります。見かねた船頭が峰一郎に助け船を出すものの絶体絶命の窮地に陥ります。そんな峰一郎の前に峰一郎の親友たちが現れて窮地を救います。対岸から峰一郎を援護する中、定之助が峰一郎を舟に導き、確治と清十郎が梅を助けます。

 峰一郎は、親友の猛き思いを込めた諫言を、その瞳の中に感じました。その定之助の瞳を見つめた時、峰一郎は、瞬時に定之助の強く純粋な思いに気付かされました。また、こうして自分の仲間たちが、危険を顧みず、自分を見守ってくれていたことに、改めて気付かされました。峰一郎は、自分の肩に多くの人々の善意と期待が掛かっていることを痛切に思い知ったのです。


「わがた、定ちゃん。待だせで、われっけ。」


 峰一郎は、後ろ髪を引かれる思いでしたが、親友の心からの諌めを受け止め、意を決して舟に乗り込みました。


 **********


 舟の上の峰一郎が岸辺を振り返った時、土手の上に確治や清十郎、そして、梅の3人の姿が見えました。梅は峰一郎に心配をかけまいとしているかのように、峰一郎に笑顔で大きく手を振っていました。そして、確治や清十郎も峰一郎に手を振ると、3人は土手の反対側へと姿を消していったのでした。


 定之助も船頭のおじいさんも、その土手を見つめる峰一郎の背中に目をやりつつ、しかし、峰一郎に掛ける言葉が見つかりませんでした。


(お梅ちゃん……)


 峰一郎は、その誰もいなくなった土手から、ずっと目が離せないままに同じ場所を凝視し続けているのでした。川幅の短い須川でしたが、その僅かな短い舟旅が、まるで長い長い時がかかっているかのように、定之助には感じられました。悲しみに満ちているであろう親友の背中は、定之助の目にはそのように感じられたのです。


 定之助には、峰一郎と梅の関係性や事情なぞ分かりはしません。しかし、峰一郎がその少女の安全に対して、強く責任を感じていることくらいは容易に察しがつきました。


 対岸へと向かっていく舟の中、三人はずっと無言のまま、短い舟旅を過ごすのでした。


 **********


 峰一郎は舟を降りると岸辺に立ち、対岸を臨みます。その峰一郎の後ろには、三浦定之助・垂石太郎吉・武田泰助といった面々が並びます。峰一郎は川の水が流れる岸辺の際まで近づきます。


 一方の反対側の岸には、ヨロヨロとして立ち上がれないでいる4人の男たちがいました。そして、その後ろから、無傷の和田徹郡書記が前に出て来ました。和田もまた岸辺まで近づき、川を挟んで峰一郎と対峙します。


 峰一郎は怒りをあらわにして和田を睨みます。一方の和田は、肝心の峰一郎を取り逃がしたというのに、何故かにこやかな笑みを浮かべています。


「面白いものを見せてもらった。楽しかったぞ、小僧!」


 和田の言葉に対して、峰一郎は憤りも隠さずに応えます。


「なして、こだなひどい事ばする!」


 峰一郎の問いに対して、ふと驚いたような顔になった和田でしたが、すぐに余裕のある笑みを浮かべて答えます。


「ひどい事?……ふんっ!われわれの方が散々な目にあっているようにしか見えんがな……。」


 そう言いながら、部下のありさまを見ている和田の表情は、むしろ楽しそうでした。


「貴様の言いたいことは分かるつもりだ。……何が正しいか、何が正しくないか、小僧が大人になれば分かる。本当にひどい事というのはだな、……いや、小僧にはまだ分かるまい。」


 和田にとって本当にひどい悪政というのは、官のためのみの民からの一方的な収奪であって、それはすぐ最近の封建制の時代まで、当たり前に行われていたことを意味しています。


 しかし、和田にとって、自分たちが今やっていることは、地方の持続的な発展に寄与する開発行為のための恩恵であって、金銭的な負担はあってもそれは一時的であり、少なくとも一方的なものではなく双務的なものです。和田は確固たる信念をもって、自らの使命感に支えられてここに来ているのでした。


 とはいえ、峰一郎の言いたいことは和田も理解しています。むしろ、その稚戯に等しいながらも、単純で純粋素朴な正義感の発露に、非常な好感さえ感じるのも事実でした。だからこそ和田はさも楽しそうに応えます。いえ、むしろ和田は峰一郎との会話を楽しんでいるのでした。


 一方で、そのような和田の姿勢は、峰一郎にとって、自分を軽んじもてあそんでいるように感じられて、結果として峰一郎は益々いきり立つのです。


「何が正しいがなんて、ちっちゃな子供にでも分がる!弱い者ばいじめる奴が正しい筈がねぇ!」


 和田は益々楽しそうに笑顔を見せ、自分でも不思議なほど、饒舌に語ります。


「いや、貴様にはまだ見えていないことがたくさんある。……百姓には百姓の正義、地主には地主の正義、新聞屋には新聞屋の正義、……そして、貴様には貴様の正義がある。……正義はひとつではない、世の中にはたくさんの正義があるのだ。そして、誰もが自分こそが本当の正義だと思って譲らないのだ。」


 峰一郎はじっとして睨んだまま和田の話を聞いています。なぜか峰一郎は、その和田の言葉を怒りに任せて切り捨てることができないのでした。いつの間にか和田の言葉に理解を示している自分に、むしろ愕然とするのでした。


「みんなが自分の正義を言い立てたらどうなる?……それを調整し、百年先を見据えて何が一番良いかを決めるのが我々なのだ。我々役人こそが、正しき正義の実行者なのだ。」


「思い上がんな!神様にでも、なた積もりだが!」


 吠えたつ峰一郎に、和田は余裕をもって返します。


「とんでもない。我らもまた未熟な人民よ。貴様らと何も変わらん。……しかし、貴様らとは決定的に違うものがある。それが役人の立場であり、その立場からする視点が、貴様らとは決定的に違うのよ。」


「してん?」


「目先の自分の事でしか考えられない人民に代わり、我々役人が客観的な目で決めるのだ。……百年後、貴様の孫は我々に感謝することになる。」


 峰一郎は和田の最後の言葉に、反射的に反発しました。村のためと信じて動いている自らの行動を冒涜されたように感じたからです。


「嘘だ!ほだなごどにはならねぇ!」


 峰一郎は和田を激しく睨みつけます。しかし、峰一郎は、本当は悔しかったのです。悔しさ紛れの反発に過ぎないことを自分が一番よく知っていました。和田の言っていることに、まともに反論できるだけの知識も経験もまだまだ及ばない自分が、情けなく悔しかったのです。


 和田の言葉はひとつひとつが峰一郎の心に突き刺さりました。しかし、何かが違う、何か間違っている、……その何かを明確に言えない自分のもどかしさが不甲斐なかったのです。


 しかし、一方の和田は和田で、自分でも不思議なほど、最後まで峰一郎との会話を楽しんでいました。


「小僧、貴様にはまだまだ時間がある。じっくりと世の中を眺めていくことだな。」


 その言葉を最後に、和田は峰一郎にくるりと背を向けて、一方的に話しを打ち切りました。


「わ、和田さま、……あの娘は、……いかがいたします?……追いかけますか?」


 体中に痣をつくった従僕の1人が和田に尋ねます。しかし、それを一瞥したのみで顔をそむけた和田の言葉は簡潔でした。


「無用だ。」


 和田は吐き捨てるように言うと、男たちを残し、スタスタと天童に向かい歩き去っていきました。


(これで東西の連携は断ち切った。今更、子供のひとりふたり、ムキになって捕まえても詮無い事よ。ここは留守殿を見習って、住民に対する後々の切り札として取っておくのが上策だろう。)


 和田は、それなりの成果を感じて役所に戻ろうとします。


(しかし、面白い小僧だな。あれだけ堂々として物怖じせんとは。俺もつい熱くなってしまったぞ。)


 和田には、不思議と、してやられた感じもなく、むしろ愉快にも爽快な気持ちになって帰路につくのでした。

 対岸へと渡り窮地を脱した峰一郎は、須川を挟んで和田書記と対峙します。怒りを露わにする峰一郎に対して、和田は峰一郎との会話を楽しむように峰一郎に語りかけます。和田は世の中にたくさんある正義を調整し、百年先を見据えた決定をする者こそが役所の仕事であり、住民はそれぞれに自分の正義を言い立てて全体を見ない者と一蹴します。峰一郎はそれに一言も返せぬ自分を情けなく悔しく思います。

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