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第68話 郡役所の捕り方

 住民と郡役所との応酬の中、西郡からの仲裁提案もありました。伊之吉は、天童村に来た峰一郎に、形だけの日本の法律へ人民の意思を反映させた『魂』を入れてこそ、真の『国民の法律』ができるのであり、そのために官の横暴を何度でも繰り返し訴えねばならないと語る。天童村からの帰り、峰一郎は梅に本当の許嫁となって梅を守りたい、ずっと一緒にいたいと話します。思いがけぬ申し出に驚く梅でしたが、梅もまたそれを望みました。心の通い合ったふたりは幸せを感じていました。

 峰一郎と梅は落合の渡しに到着しました。ふたりはお互いの心が通じ合っている喜びを噛み締めて、今まで以上に幸せを感じていました。


 これまでは役所や警察の目をくらますための嘘の許嫁でした。しかし、今は違うのです。まだまだ子供ではありますが、心も通い合った契りを交わした仲です。


「坊主、来たが。嫁こど別れば惜しんできたが。」


 顔なじみになった渡し守のおじいさんが峰一郎に声をかけます。


「いづも、ありがど、ごぜえます。」


 峰一郎は渡し守のおじいさんに丁寧にお辞儀をしました。渡し守のおじいさんも孫のように可愛い二人に目を細めて笑顔を返します。


 いつもの渡し場での別れでした。次はいつになるか、それは状況の変化次第です。峰一郎が来たいと思った時に自儘で来られるわけではありません。


 今までは梅の身を案ずるばかりの峰一郎でしたが、ここにきて更に不思議な感情が湧き上がるのを感じました。それは、梅と別れたくない、ずっと一緒にいたい、そして、またすぐにでも会いに来たい。そんな思いでした。


 **********


 その時です。渡し場の上流側と下流側から、峰一郎たちを挟み込むように5人の男たちが土手の上に現れました。


「待っていたぞ、ガキども!」


 その声に驚いた峰一郎は、声のする土手の方向へ振り向きます。上流側に三人、下流側に二人の男が立っています。上流側の男の一人は官吏らしい洋装に身を包んでいます。


 洋装のその男はゆっくりと土手を降りてきましたが、その他の四人は、峰一郎たちを挟み込むように土手を駆け下りてきました。


「な、なんだ、お前らは。物取りか!」


 峰一郎は、お梅をかばうように一歩前に出て叫びます。しかし、峰一郎にはすぐその正体が分かりました。警官の服装でないことは一目瞭然ですが、こんな見事な洋装姿をしているのは役所の上級役人に間違いありません。


 果たせるかな、その男は峰一郎が睨んだ通り、郡役所の次席書記である和田徹その人でした。和田は、朝から渡し場を監視していた者からの通報を受け、自ら現場に出張って来たのです。


 和田はニヤリと笑いながらゆっくりと土手を降りてきます。


「物取りだと……ふふっ、まぁ良い。……それにしてもこんな子供にしてやられていたとはな、よくもわれらを愚弄してくれたものよ。」


 既に峰一郎の両側には、書生風の姿をした四人の男が取り囲むようにして近づいてきます。


「さあ、おとなしく懐の物を出してもらおうか、天童の伊之吉から、高楯の久右衛門に宛てた書状を持っているはずだ。」


 峰一郎は緊張感の中、額に汗をにじませつつ抗弁します。


(駄目だ駄目だ!これには村の未来を賭けた伊之吉さんや叔父さんの策が書いてあるんだ。殺されたって渡すものか!)


「書状だの何だの、いったい、何ば言ってっかわがらね、人違いだべ!」


 しかし、和田はそれをせせら笑います。代わって、4人いる従僕の一人が叫びます。


「しら切っても無駄だ!にさ(お前)が小鶴沢川で役人さ狼藉したガキ共のひとりっつうのは、もう面が割れっだ。ほん時に書記様のお供ばしった俺が、この目でにさの顔ばしっかり見っだわ!」


 それは、およそ4ヶ月前の6月30日、大寺村と高楯村の境目を流れる小鶴沢川での出来事でした。その時、郡書紀に付き従っていたのが、この留造でした。


 留造の証言を受けて、和田が勝ち誇ったように笑って言いました。


「そういうことだ。さあ、観念して懐の書状を渡してもらおう。ついでに、次はどんな企みをしているのか、貴様の身体に聞いてでも、洗いざらい白状してもらうぞ。」


 和田は楽しそうに話しを続けます。一方の峰一郎は悔しさに唇を噛みます。後を付けてきたのならば、既にふたりともある程度の素性はばれていると考えた方が良さそうであり、圧倒的に不利な状況なのは一目瞭然でした。


「書状なんか知ゃね!」


 峰一郎はそう言うしかありませんでした。


「にさが天童の伊之吉の家から出できったなは、お見通しだべ!」


 恐らく、顔を見知っていることで見張り役を兼ねていたであろう留造が、吐き捨てるように言いました。峰一郎は留造を睨みつけるように叫びます。


「俺だは許嫁同士だ、どさ行ぐべ、どごで会うべ、俺だの勝手だ、お前ださ関係ねぇ!」


 峰一郎が睨みつけた留造が、峰一郎に怒鳴り返します。


「どこまでも生意気なガキだべ、神妙に観念すろ!にさだが天童と高楯のツナギなのは、とっくにお見通しだべ!」


 峰一郎は唇を噛み締めたまま、悔しそうに留造を睨みつけます。しかし、それが仇となりました。


「きゃあ!」


 目の前の留造に気を取られた僅かな隙に、背後から忍び寄った別の従僕が、梅を羽交い締めにして抑え込みました。峰一郎がそれと気づいた時には、もう遅かったのでした。


「やめろ!お梅ちゃんは俺の許嫁だ!俺の嫁さ乱暴すんな!大人だば恥ば知れ!」


 それを聞いた男たちは顔を見合わせると、途端に下卑た笑い声を上げました。


「嫁だと!ハッハッハッハッ!……このマセガキが、偉そうな口ばきくべ!大事な嫁ば助げっだいごんたら、おどなすぐ俺ださ付いで来い!」


「だめ、こんな人だの言う事な聞いでだめ、おらさ構わねで逃げで!」


 梅の決死の悲鳴をも、男たちは嘲るように笑い飛ばします。


「けなげにいっちょ前の口ばきくでねぇが。乳臭いガキのママゴトが。にさが、言う事、聞がねなら、大事な嫁っこの身体さ聞いでけっぞ。裸にひんむいで水責めしてやっべ。その方が楽しそうだべ、グワッハッハッ!」


 男たちの高笑いに峰一郎は悔しさを滲ませながらも、何も出来ず立ちすくむのみでした。


 梅は恐怖に震えながらも、男たちを睨みつけ、気丈にふるまっています。峰一郎にはそれがたまらなく切なく、何も出来ない自分の不甲斐なさを歯痒く思うのでした。


「くっそぅ……。」


 これでもはや勝負は決まったかに見えました。抵抗の姿勢を崩した峰一郎に、対峙していた留造が近寄ります。


(もっと手こずるかと思ったが、案外、あっけなかったな。所詮、子供よ……。)


 和田もまた、ゆっくりと留造の後ろから近づいてきました。


 和田たち役所の者たちが、すべては片が付いたと安堵したその時でした。


(ガンッ!)


「うわっ!なっ!なんだ!」


 渡し場の船頭が、見るに見かねて、舟の櫓を振り回し。梅を取り押さえていた従僕の頭をぶん殴ってやったのです。頭を殴られた男は、堪らず梅を押さえた腕を離し、頭を抱えて転倒してしまいました。


「お前だ、しぇえ大人が、寄ってたがて子供ばいじめで何しった、みだぐない(みっともない)!」


 船頭の爺さんが吠える中、従僕の腕を振りほどいた梅が峰一郎のもとに駆けて来ました。峰一郎もまた駆け寄り、梅を抱き締めます。


「お梅ちゃん!」「峰一郎さん!」


「な、なんだ!じじい!お上に逆らうなが!」


 仲間の従僕が新手の出現に驚き身構え、官の権威をかさにきて船頭の爺さんに吠えたてます。


「お上が怖くて酒ば飲むいが!役人だがらて舐めんな!」


「ば、ばがもの!俺だは公務で来ったんだ!邪魔立でこぐんだば爺いでも容赦すねぞ!」


 従僕仲間はうろたえながらも役人の権威を振りかざして抵抗します。しかし、警察でもないただの地方官吏に人民を逮捕拘束する権利はありません。


 興奮した年寄に官の権威は通じません。


(面倒な……子供と侮ったか……ふむ、警官のひとりでも同道してくれば良かったか……。)


 ひとり臍を噛む和田でしたが、思うほどには深刻に問題視はしていません。たかが子供ふたりに年寄りひとりが加勢したところで何程のことがあろうか、力づくで取り押さえれば済むことと、たかをくくっていまし。


「子供ばしぇがめで、恥ずがすぐないなが!この木っ端役人が!」


 船頭の爺さんが立ちはだかる隣で、峰一郎は梅を自分の後ろに移してかばいます。新たな加勢を得て、なんとか態勢を立て直した峰一郎でした。


 しかし、和田の見立て通り、峰一郎の置かれた状況は何ら改善されてはおりません。


 窮地に陥った峰一郎とは対象的に、河原の茂みからは、のどかな小鳥のさえずりが聞こえてきます。絶体絶命の峰一郎に起死回生の策はあるのでしょうか。


 ✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽


(史実解説)


 江戸時代、地域の行政を担った奉行•代官は、警察権と司法権も管掌しておりました。その名残か、明治初期の地方行政単位に『県』ではなく『裁判所』という名称が使われていた時期があります。慶応4年1月からの僅か4ヶ月の臨時的な措置で、閏4月の政体書公布による府藩県三治制まで使用されました。『奉行所』といい『裁判所』といい、言葉自体が行政と司法の未分化を端的に表しています。


 日本における警察制度は明治4年に邏卒制度が創設されたところから始まります。ですので、物語の舞台となっている明治13年当時、既に近代警察制度は日本国内に定着しています。逮捕には『緊急逮捕』『現行犯逮捕』等、様々な形式がありますが、往来の通行人を検束勾引する権利は、当然ながら、いかな明治の官吏とて持ち合わせてはおりません。

 落合の渡しに来た峰一郎と梅の前に、郡役所の和田書記が率いる捕り方が現れました。峰一郎は抗弁するものの、最初から言い分を聞くつもりのない役所の捕り方は容赦なく峰一郎と梅に襲い掛かろうとします。見るに見かねた船頭のおじいさんが峰一郎に助け船を出しますが、ふたりは絶体絶命の窮地に陥ってしまいます。

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