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第67話 梅との契り

 住民と郡役所との応酬の中、高楯村と天童村を西村山郡議員が訪問し仲裁を提案します。伊之吉は、天童村に来た峰一郎に、法治国家の何たるかを教え、形だけの日本の法律に、人民の意思を反映させて『魂』を入れてこそ、真の『国民の法律』ができる、そのためにこそ、官の横暴を何度でも繰り返し訴えねばならないと語るのでした。

 峰一郎がいつも梅の身を案じているということに、梅は驚きました。


「峰一郎さん……」


(そんなに私のことを心配してくれていたんだ、いつも、私のことをそんなに気にかけてくれていたんだ……)


 梅は、嬉しさとともに、今までに感じたことのない胸の痛み……のようなものを激しく感じました。どうしてこんなにも胸が痛むのか、自分でも経験したことがなく、わけが分かりません。


 でも、峰一郎が自分のことをずっと思っていてくれた、そのことを知った今、なぜか胸がすごく痛むのです。そして、同時にすごく顔が熱くなってくるのを抑えようもありませんでした。


 梅もまた、勇気を振り絞って峰一郎に応えます。


「峰一郎さん、おらだがお父ちゃんから許嫁にさっだ日の事、おぼえっだ?」


「忘れるわげないべ。」


 峰一郎は振り返り即答します。


「あん時、お父ちゃんはおらば心配したっけげんど、おら、お父ちゃんさ言ったの、一人じゃねぇがら大丈夫……って。峰一郎さんば送た帰りも、おら、一人じゃねっけ。おらは峰一郎さんの許嫁、おらにはいづも峰一郎さんがついで、ずっと見守てけっだ。」


 そう話す梅の顔は、本当に幸せに満ち足りた顔に峰一郎には見えました。


 顔を真っ赤にした峰一郎は、恥ずかしさを隠すかのように、急いでまた前を向きました。


「ありがど、お梅ちゃん。俺ば信じでけで。……んだから、……俺、……。」


 峰一郎は、言葉が出ないような気分になる程、喉がカラカラに乾いてしまい、舌もうまくまわりませんでした。しかし、峰一郎は言葉を続けねばなりません。


 梅もまた、極度の緊張の中で峰一郎の次の言葉を待っていました。


「俺……俺……ほんてんの……お梅ちゃんの許嫁さなて、お梅ちゃんば、守っだい。」


「え?」


 梅は驚きました。今、確かに峰一郎は『本当の許嫁になりたい』……そう言ったように梅には聞こえました。今のふたりは官憲の眼をくらますためだけのかりそめの許嫁、嘘の許嫁……しかし、峰一郎は……。


「お梅ちゃん、俺じゃ迷惑だべが。俺、これがらも伊之吉さんからいろいろ教ぇでもらうだいし、お梅ちゃんとずっと一緒にいで、お梅ちゃんば守っていぐだい。」


 梅とずっと一緒にいたい、梅を守りたい……峰一郎のその言葉に梅は驚きました。梅もまた、峰一郎とずっと一緒にいたい、そう思っていたからです。でも、それに続く言葉は、梅をより驚かせるに足るものでした。


「今は仮の許嫁だけど、……ほんてん……ほんてんの、許嫁になんのは……だめだべが……。」


 先程の峰一郎の言葉は、梅の聞き間違いではありませんでした。峰一郎は、確かに『本当の許嫁になりたい』……そう言ったのです。


 あまりの驚きに梅の身体は硬直させてしまい、思わず足を止めてしまいました。そして、梅は立ち止まったままうつむいて、両手で顔を覆ってしまいました。顔の熱いほてりが、梅の小さな白い手のひらに伝わってきます。


 振り向き気味に話していた峰一郎は、立ち止まった梅の様子にすぐ気づきました。それで、峰一郎もまた足を止め、あわてて振り返りました。


 そして、同時に、まさか先走ってしまったのではないかという失敗の予感で、猛烈な後悔の思いが峰一郎を襲います。


「な、なしたの。……へ、変な事、言って、ごめん。……め、迷惑だっけよな。お梅ちゃん、われっけ!忘っでけろ!……ごめん!」


 峰一郎は驚き、焦りも隠せぬほどにうろたえてしまいました。自分勝手な思いを梅に押し付けてしまったのかもしれないという後悔が、じわじわと胸の内に広がっていきます。梅と心が通じ合っていると過信した自分の思い上がりを、おもいきり反省する峰一郎でした。


 しかし、一度、口から吐き出した言葉を取り返すことはかないません。石合戦でも、小鶴沢川でのあの官吏との戦いでも、どんな窮地に追い込まれてもくじけなかった峰一郎が、これほどにうろたえたのは生まれて初めてでした。


 しかし、次の梅の言葉が、絶望に落ち込んだ峰一郎の心を思いきり救い上げてくれました。


「やんだ……おら、忘んね、忘っだぐなんかね。」


 両手で顔を覆ったままの姿で梅が言いました。


「へ?」


 梅がたたみかけて言葉を続けます。


「おら、峰一郎さんの言葉、忘っだりすね。……ううん、一生、忘んね。」


 峰一郎は梅の言葉を一字一句聞き漏らすまいと真剣な眼差しを、顔を手で覆ったままの梅に向けます。自分の言葉を一生忘れない、とはどういう意味か……。すると……。


「嬉しい。」


 顔を上げた梅は、目尻からの嬉し涙をぬぐいもせず、満面の笑みで峰一郎に応えました。


 その梅の言葉と笑顔は、峰一郎を絶望の淵から救い上げてくれたのでした。色恋には、いかに朴念仁の峰一郎であっても、梅のその涙に濡れた満面の笑みの意味するところは容易に理解できました。


「じゃあ……じゃあ……梅ちゃん、しぇんだな、俺ど一緒になてけんだよな。」


 峰一郎は絶望の夢から目覚めたように、その顔をほころばせます。そして、顔を真っ赤に染めながら、嬉しさのあまりに、つい両手で梅の掌を握りしめました。


 梅はふいに両手を握られたことに、ちょっとびっくりしたようです。それと気づいた峰一郎が慌てて手を引っ込めました。


 つい先日も梅の手を引いて歩いた峰一郎でしたが、危機感を覚えて神経の高ぶっていたあの時と違い、この日の峰一郎は自分の迂闊さについ恥じ入ってしまいました。


 でも、そんな峰一郎の純朴な様子は、梅にとっても、とても好ましいものに思えました。もちろん、峰一郎に手を握られて、不思議に胸がドキドキしましたが、それは梅にとって恥ずかしくも心地よい高揚感でした。


 手をひっこめながら、改めて峰一郎は真面目な表情をして梅に確認しました。


「お梅ちゃん、二人だけの約束でしぇえ。俺のほんてんの許嫁さなてけろす。」


 改めて峰一郎は梅に言いました。


「峰一郎さん、ありがどう、嬉しい。」


 梅もまた、顔を真っ赤にしながらも、心からの笑顔で峰一郎に応えます。


 この時代、親が決めた婚姻というのがほとんどで、好きになった者同士が将来を誓い合うというのは、非常に珍しいことでした。恋愛という概念そのものが極めて薄い認知度でしかありません。


「ふつつか者だげんど、どんぞ、よろすぐお願いするっす。」


 梅は両手を自分の前に揃えて、丁寧にお辞儀をしました。


「お梅ちゃん……ありがど。ありがどお。」


 峰一郎は、再び梅の手を取って握りしめました。


 梅は、今度は驚かず、峰一郎の手を受け止めて、握り返しました。そして、心からの笑顔で峰一郎に喜びを表しました。


 満天の夜空の下で梅と初めて出会ったあの夏の日の夜から、ずっとこの日を夢見て来たように峰一郎は感じていました。あの日から、ずっと梅の姿を追いかけてきたように思いました。そして、その思いはまた梅も同じだったに違いない、そう峰一郎は確信したのでした。


 **********


 峰一郎と梅が落合の渡しに到着しました。ここで二人は別れることになります。それは今までにも何度も繰り返された、いつものことでした。


 峰一郎は、ここで別れる梅が、天童まで一人で行く帰り路を心配していると言いました。もちろん、今も心配な峰一郎です。しかし、この日はちょっと違いました。梅のことが心配なことに変わりのない峰一郎ですが、心配であると同時に、梅と心で強く繋がっていると自信を持つ峰一郎でした。


 それは梅にしても同じことでした。いえ、梅の思いはそれ以上だったかもしれません。大好きな峰一郎と許嫁の約束を交わした。それは、今はまだ二人だけの秘め事かもしれません。しかし、梅にはそれだけで幸せでした。


 この土手を越えると落合の渡しが見えてきます。しかし、その手前で峰一郎は立ち止まり、梅に振り返りました。


「お梅ちゃん、ありがど。俺、お梅ちゃんば守るいぐ、もっともっと頑張る。ほして、伊之吉さんさ認めでもらえるような大人さなって、お梅ちゃんば迎えに行ってみせる。」


 まだちょっとぎこちなく、緊張で固さの取れない峰一郎でしたが、嬉しそうな笑顔を見せて、峰一郎が梅に誓いの宣言をしました。


「峰一郎さんは今のままで立派な大人だ。おら、峰一郎さんのそばさいるだげで幸せだべ。」


 梅はにこやかに可愛い笑顔を峰一郎に見せました。それは嘘偽りのない梅の本心であったことでしょう。


 峰一郎は、幸せだと言ってくれた梅の言葉だけで満足でした。そして、この梅の笑顔を心から守りたいと思うのでした。


 **********


(史実解説)


 今回は史実の解説はありません。すべて作者が書きたかった創作です。悪しからず。

 天童村からの帰り、峰一郎は、梅に本当の許嫁となって梅を守りたい、梅とずっと一緒にいたいと話します。思いがけない峰一郎の申し出に、梅は驚いてしまいました。しかし、梅もまた峰一郎とともに歩むことを望んでいました。今、心の通い合ったふたりは幸せをこよなく感じているのでした。

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