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第65話 人民の権利を保護する制度

 住民と郡役所が上申と回答で応酬している一方、三島県令は栗子貫通の瞬間に立ち会います。その頃、高楯村の安達宅を西村山郡議員団が訪問しました。仲裁案を受けた久右衛門は、その狙いを見抜き、同時に三島県令が一筋縄ではいかぬ強大な敵であることを感じ、峰一郎と共に、これからの厳しい戦いに臨む決意を新たにします。同じく天童村の伊之吉宅にも西村山郡議員が来ていました。

「伊之吉、なじょする(どうする)?」


 西郡の県議たちが帰った後、佐藤家の囲炉裏端で、村形宇左衛門が伊之吉に尋ねました。


 心配顔の宇左衛門に対し、伊之吉がニヤリと笑って答えました。


「心配すんな、宇左!いよいよ役所も追い詰めらっだみでぇだ。俺だも正念場だげんど、こっからが本当の勝負だべ。」


「なしてや?さっき来たのは県議たべ?……役所は関係ねぇべ?」


 宇左衛門は伊之吉の言う意味がつかめずに聞き返しました。伊之吉は、安達久右衛門と同じく、この状況の真意を見抜いていたのです。


「あれだば苦し紛れの役所の差しがねだ。役所だば法律も道理も捨てで、西郡ば使て揺さぶり掛げできっだんだ。」


「ええ!あいづら、役所の差しがねで来ったなが!」


 伊之吉の思いがけない分析に、宇左衛門も驚きを隠せません。


「んだべ、……たどえば、この話しが天童の村さ広またら、どうなっど思う?」


「新道こさえんので楽になんなば西郡と北郡だべ、なしても道ばこさえっだいんだべがら、西郡と北郡で金ば出すのは当然だど、みんな思うべ。この話しば聞いだら、あだり前に『西郡と北郡から金ば出してもらうべ』て話しになっべずな。」


「んだ、誰でもそう思うべ。んだら何する?」


「んだげんど、今まで出した上申書や委任状ば引っ込めだら、それごそ郡役所の思う壺だべ。俺だは四郡連合会ば認めねて言ったのさ、『金ば出してもらうんだごったら言う事きぐ』なて言ったら、俺だ、おがすぐねぇが?」


 宇左衛門がその矛盾に頭をひねります。


「ほいずが役所の狙いだべ。俺だがほれば受げだら『んだら連合会の決議ば認めんだな』って役所から突っ込まッで、西郡からも金なもらわんねぐなっべ。」


 伊之吉の説明に合点のいった宇左衛門が気色ばみます。


「汚ねぇ!西郡の野郎だ、役所の手先さなて、俺だば騙すなが!」


 憤りを隠せないような宇左衛門でしたが、そんな激昂する宇左衛門をたしなめるように、伊之吉の父親の直正が静かに言いました。


「いや、西郡の住民も俺だど同じだ。役所から踊らさっでだだげだ。西郡の衆ば恨んではならね。弱い住民同士でいがみ合ったら、ほれこそ俺だの負けだ。」


「戸長さんの言う通りだべげんと、したら、俺だ、なしたらしぇえなや?」


 年長者の直正からやんわりとたしなめられた宇左衛門は、ばつの悪そうに聞き返します。それに対して伊之吉が答えます。


「役所だ自分で墓穴ば掘ったんだ。西郡の住民ば使うすか、他に手がねぐなたんだな。自分だの手の内がなぐなった証拠だ。」


 伊之吉の推測は半分は当たっていましたが、半分はまだまだ役所というものを甘く見ていました。


 確かに郡役所には手詰まり感が出ていましたが、それは表向きの規則に縛られてのことでした。いよいよ三島県令が本腰を入れてかかるとなると、そんな甘い予測でことが通じるわけもありません。


 しかし、今まで予想以上にスムーズに計画が推移していました。確かに1回目の上申では際どい場面もありましたが、2回目の上申はまったく穏やかに推移しました。役所側の2回目の反論は日限を切って厳しく言いたててきましたが、それとて伊之吉の想定の範囲内でした。


「んだら、……いよいよだが?」


「んだ、いよいよ俺だが裁判所さ提訴すっ時だ!役所の不法ば世の中さ鳴らす時だ!」


 伊之吉は嬉しそうに宇左衛門の肩をつかんだのでした。


 **********


 翌日、再び峰一郎は天童村の佐藤伊之吉の家に現れました。郡役所の2度目の反論に対する対応についての確認は当然ながら、今回は西村山郡選出県会議員団による仲裁提案についての対応もありました。


「やっぱり久右衛門さんのどごさも来ったっけが」


 伊之吉は書状を読みながら、頷いています。離れてはいても、伊之吉の読みと久右衛門の読みはピタリと符号していました。


 久右衛門いわく……、


《西村山郡の仲裁案は、東村山郡住民の団結を分断するための官側の策略である。》


《この目先の負担金肩代わりという甘言に乗るのはもちろん論外である!》


《これを恨んで西郡と反目したり住民が分裂したりしては官側の思う壷である!》


《自分たちの相手は飽くまでも郡役所であり、その後ろに控えている県庁であることを見誤ってはいけない!》


 ……と、おおよそ、そのような趣旨でありました。


「峰一郎、そっだな心配顔すんな。久右衛門さんの考えはまったぐ俺ど同ずだ。」


 伊之吉は峰一郎の肩を、バンバンと勢い良く手のひらで叩きながら、思い切りの笑顔で峰一郎に顔を向けるのでした。


 **********


 伊之吉は、囲炉裏を挟んで峰一郎と向かい合いました。二人の間には伊之吉の父親の直正がいて、同じように囲炉裏に向かい合っています。土間には梅もいましたが、いつにない張りつめたような不思議な空気に入り込めぬような感じを受け、梅は峰一郎を不安げに見つめているのでした。


 伊之吉は峰一郎に話しを始めます。いつになく真剣なその表情に、峰一郎は表情を硬くして真剣に一語一語聞き取ろうとしていました。


「明治の御一新で幕府がなぐなて、この国だば法治国家となったべ。法治国家てのは、みんなで法律ば決めで、みんなが法律ば守て暮らしてぐ国の事だ。その法律はみんなが幸せに暮らすいぐ話し合てみんなで決めんだ。」


 伊之吉は峰一郎に話し始めましたが、あまりにも大きな話しから始まって、峰一郎は面食らいます。しかし、この前と同じように、伊之吉は法律について話しをしようとしているのは分かりました。


「今までだば、幕府も藩も、ぜんぶ『お上が民ば裁ぐ』てな考えだべ。お上の言う事ばきかね百姓町人ば、お上が懲らしめで罰ば与える、他の見せしめさする考えだ。」


 幕藩体制下では、為政者側がどんなにひどい命令をとしても、悪いのはお上の命令をきかぬ百姓でした。それは、奉行所にしろ代官所にしろ、行政官と司法官の分離がされていない前近代的な制度にも問題がありました。住民側の権利擁護が、行政官としての自己否定になりかねなかったからでもありました。


 しかし、御一新になって幕府も藩もなくなり、新たに『司法省』という法律制度を専門に扱う役所が出来ました。そして、法律解釈と訴訟事務を専門に取り扱う『裁判所』が全国各地に設置されたのです。


「ほの司法省の一番上の長が、言った。『法律は人民のためのもので、法律の制度は人民の権利を保護する制度だ』と。……峰一郎、分がるが?法律は俺だ人民の権利ば守るためのものなんだ。」


(伊之吉さんは、俺に何か教えようとしている!)


 峰一郎は、伊之吉の真意を理解しました。伊之吉は峰一郎に法律について語りながら、峰一郎に法治国家のあるべき姿を教えようとしている、峰一郎にはそう感じられたのでした。


「その人はこうも言ったべ。『役人の横暴どが怠慢で、人民の権利が犯さっだ時、人民は裁判所さ提訴でぎる』と。法律は人民ば守るもの、んだから、役人が人民ばいずめるような事があれば、人民は裁判所さそれば訴える事がでぎるて言った。……んだげど、」


 そこで伊之吉は声を落としました。一度、宙を見上げてひと息ついた伊之吉は、再び、峰一郎の顔を見つめます。


「んだげど、そう言った司法省の長だば、政府の中がら弾がっで、反乱ば首謀したて言わっで処刑さっだ。……この国の法律制度は、今はまだ形だげのものだ。……なじょだが分がっか?」


 伊之吉は表情を硬くして峰一郎に問いかけます。峰一郎は伊之吉の思いを受け止めるため、その話しを必死に聞こうと真剣になっています。二人の激しい熱を帯びた視線が囲炉裏の中で交錯するのでした。


 **********


(史実解説)


 西村山郡議員団による1万円肩代わり案がその後どうなったか、明確な資料が確認できないだけでなく、西村山郡による仲裁活動のその後の経過記録がどこにも確認できませんでした。そのため、本編では、この仲裁案は結果的に採用されなかったものといたしました。


 伊之吉の話した司法省の人物は誰かお分かりでしょうが、初代司法卿の江藤新平です。江藤は就任早々に司法に携わる者の心得として『司法省誓約』を定めます。その中に、「お上が民を裁く」という従来の考え方から脱却し「司法は民のためもので民の権利を保護する制度である」と宣言しました。そして、明治5年11月28日、司法省達第46号で、役人の横暴や怠慢により人民の権利が犯された時、人民は裁判所に提訴できる事を宣明しました。これが日本初の行政訴訟法となります。


 なお、これに関連する有名な事件に明治6年の小野組転籍事件があります。東京に国家の中心が移ったことで、京都に本拠を置いていた小野組が東京に移転しようと京都府に届けを出します。しかし、京都の衰退を案じる京都府ではこの小野組の東京転籍を妨害します。これに対して小野組が訴訟を起こして対抗した事件です。最終的に翌明治7年に小野組の東京府への送籍が実施されて解決を見ますが、その過程での京都府の民間企業への弾圧と司法判決を無視する姿勢には、当時の一般的な官側の前時代的認識が余すところなく出ています。

 伊之吉もまた久右衛門同様、西村山郡議員の仲裁運動の真意を見抜いていました。そして、伊之吉はいよいよ上申運動から法廷闘争へと転換する時節到来を感じます。また、久右衛門からの使命を受けた峰一郎は再び天童村の伊之吉のもとへ向かいます。そして、伊之吉は峰一郎に法治国家というものの何たるかを教えるのでした。

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