第64話 仲裁
住民と郡役所は上申書と回答書を応酬しますが、この関山新道は2年前の内務省東北7大事業を受けた計画でした。一方、三島県令は栗子工事現場に寝泊まりし、貫通の瞬間に立ち会いました。その頃、高楯村の安達久右衛門宅を訪問する一団がありました。それは、住民と郡役所の仲裁を買って出た西村山郡の議員団でした。
安達久右衛門の家の中、囲炉裏を囲んで久右衛門と安達久が向かい合って話しています。そのすぐ脇の框に峰一郎が座って父と叔父の話しを聞いていました。
「久、とにかく、この西郡からの話し、どだごど思う?」
「……んんっ、しぇえ話しだど……思う。東郡と南郡の負担金の内の1万円ば、北郡と西郡で肩代わりしてけるんだば、ありがで話しだ。んだげんと……」
今回、西村山郡の議員たち一行が、安達久右衛門の家を訪ねたのはこのためでした。彼らは東村山郡住民と郡役所の対立を仲裁するため、北西村山郡で、東南村山郡の負担金総額1万8400余円の内、その半分以上の1万円を北郡と西郡で負担しようというのです。
もし、本当にそうなれば、東南村山郡が実際に負担する金額は当初予定額の半分以下となり、負担金を拒否して無駄に郡役所と対立するよりも、むしろ工事に積極的に協力した方が賢明であると誰もが考えます。
そして、これほどの好条件であれば、それを受け入れるのが当然であり、その機会を逃すべきではないと、誰もが思います。しかし、……。
良い話しであると言いながら、久の言葉は非常に歯切れの悪いように峰一郎には聞こえました。実際、久はどう対処して良いか悩んでいるのでした。
「んだ、……おめの思てる通り、その話しば受げだら、俺だが『四郡連合会の存在』ば認めだ事さなる。ほしたら、俺だが上申した事ど辻褄が合わねぐなっべ」
久右衛門は久の悩みを十分に理解していました。
そもそも、東村山郡住民総代として負担金納付拒否を明記した上申書は、四郡連合会が法的に無効であることを前提にして主張したものです。
しかし、四郡連合会の議決を前提とした負担金割合についての西村山郡の申し出を、もし、久右衛門たち東村山郡の住民が受けるとするならば、東郡住民は四郡連合会の存在を認めたことになります。
そして、その申し出を受諾した時点で、その矛盾を役所が突いてくれば、法律遵守を唱えて上申した筈の東郡住民の主張は、高邁な理想など微塵もない自己中心的な御都合主義であったとして、その主張の唱えるところは地に落ち、泥にまみれてしまいます。
「そんでも、村の事ば考えれば、……俺だの面子が潰れるだげだし、まだ、しぇえ。……んだげんど、『連合会決議ば認めだんだがら約定通り払え』て言わっで1万円の肩代わりもしてもらわんねぐなたら、ほれこそ目も当でらんね。」
久右衛門の話しを継いで、久も、そもそもの疑問を付け加えます。
「西郡の委員が、ほんてんそう思うんだば、なして6月の話し合いん時、もっと歩み寄った話し合いばさんねっけだが……」
久は憤りを隠しませんでした。久右衛門も久の思いをよく理解していました。
「んだな、あの西川さんは自分が連合会の議長してで、議長採決なんて強引に決議ばしておぎながら、今頃、仲裁するったて、久も信用さんねべな」
それも確かに久の憤りの元にありましたが、久には、もっと決定的な原因があったのです。
「ほいづだげでね。……俺だは東南村山郡からの別段建議書ば、直接、あの西川議長さんさ出したんだ。よぐよぐお願いして、頭ば下げで出したんだ。……ほれば揉み消しておぎながら、よぐ仲裁だなんて言えだもんだ」
久の忿懣はもっともなことでした。あの時、東南村山2郡の代表委員は、西川議長によって二重にも三重にも煮え湯を飲まされたのです。
しかし、久右衛門は更に驚くべき考えを次に披露したのです。
「久がごしゃげんのも(怒るのも)よぐ分がる……んだげんと、そもそも、この仲裁案は西郡で考えだんでね、もっと上の方からの指図だべ」
久右衛門は腕組みをして思案をするように話します。久も、意外なことを語り始める久右衛門に顔を向けて、興味深げに次の言葉を待ちます。
「負担金の割合の細かい金額まで県庁さ上がたのば、そもそも、住民だげで後がら勝手に変更なさんね(勝手に変更なんて出来ない)。もっと上、……多分、県令あだりの指図さ間違いね」
最初に住民上申書が提出された10月2日の夕刻、郡書記筆頭の留守永秀が三島県令の官舎を訪れた際、三島が西村山郡の海老名季昌郡長に話しをしておくと留守に語ったことこそが、この西村山郡県会議員らによる仲裁活動でした。
関山工事について東郡の住民が不穏な動きを示していることを知った三島は、自らが栗子に行っている留守の間に、反対派を牽制する必要を感じていたのです。
三島にとってその策が成功するかどうかはどうでも良かったのでした。それにより民費撤回運動を進めている住民たちが混乱し、時間稼ぎが出来るだけでも十分であり、住民側が疑心暗鬼になって混乱し分裂する副作用があればもうけもの……くらいの思惑であったにすぎません。
「んだば……」
「んだ、最初っから1万円な払う気もね。この話しざ、村さ広またら、今まで総代一任で一枚岩でまどまってきたなさヒビ入いて、郡のみんながバラバラなる」
「ほだな……」
久右衛門には分かっていました。
翻って、関山隧道建設認可のため、北郡と西郡の住民を使嗾して伊藤内務卿に直訴させ、伊藤卿の関山視察をお迎えした際も、県令自らはまったく表に出ず、北郡と西郡の住民を集めて歓迎させた挙げ句、住民をして仙台まで卿をお見送りさせたのです。
すべてにおいて三島県令はその場に関与せず、飽くまで住民が自発的にしたこととしています。
「今回も同じだべ……今上陛下の山形行幸ば、住民が願い出て、郡長が陳情に東京さ行ったて話しもある。福島の河野広中先生からも手紙ば寄越して俺だの活動ば心配してけっだっけ」
「おっかねぇお方だ……」
久は改めて三島県令の政治力の恐ろしさを実感したのでした。その三島の行動力とそれを実現する様々な手練手管の政治力は、過激ながらも飽くまで直情径行的な幕末の長州藩の単純さに比べ、薩摩藩のマキャベリズム的政治力の凄まじさを彷彿とさせます。
「んだな……恐ろしいお方だ……あわよくば俺だ住民の仲ばバラバラにする気だがもすんね。……んだげんと、俺だは今更引き返さんね。久、峰一郎さ、これ以上、危険な真似させらんねげんど、もう少し、もう少しだげ、頼まんねが」
峰一郎の助力を久に頼み込む久右衛門に対して、久は苦笑いしながら顎で峰一郎の方をしゃくります。
「俺などうでもしぇえ、だども、こいづが承知すね。俺が行ぐなて言ても聞かねべ」
久が示したその先には、それまで上がり框に腰かけていた筈の峰一郎が、いつの間にか土間に立ち上がり、久右衛門と久の方をじっと見つめていました。それと気付いた久右衛門が峰一郎を見つめ返すと、峰一郎はその決意を示すかのように大きく頷くのでした。
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同じ頃、天童村の佐藤伊之吉のもとへも、同じ仲裁案を携えた西村山郡の県会議員らが訪れていました。
佐藤家を訪問したのは、松浦吉三郎・柴田弥・細矢厳太郎の三人の県議たちでした。細矢は連合会の副議長を勤め、松浦・柴田も同じく連合会議員でした。
安達久右衛門を訪れた2人を含めて、この5人全員が西村山郡選出県会議員であり、同時に四郡連合会を運営した事実上の中心メンバーでした。
西郡の県議たちが帰った後、佐藤家の囲炉裏端で、村形宇左衛門と伊之吉の二人が囲炉裏を囲んで向かい合っていました。伊之吉のすぐ後ろには、伊之吉の父親で、天童村の戸長である直正も腕を組んで控えています。
三人とも真剣な面持ちで無言のままに佇み、囲炉裏で炭のはぜるパチパチとした音のみが閑かな空間に音を響かせていました。
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(史実解説)
安達久との会話の中で、久右衛門の言葉の中に「河野広中先生からの手紙」という言葉がありました。河野広中は三春藩の郷士出身ながら、早くから民権思想に傾倒し、東北での自由民権運動のさきがけ的な存在で、明治13年の国会期成同盟にも関与していました。当時の東村山郡住民による三島県政への抵抗運動にも関心を持ち、安達久右衛門とも度々書簡を交わしていました。その後、福島県令に転じた三島通庸と、今度は河野自らが直接対決をすることになります。これもまた奇縁と言わざるを得ません。
今回、高楯村と天童村を訪れた西村山郡選出の県議たちは、生糸という輸出産業振興の国策にのっとり、紅花から養蚕業へと地域産業の転換振興を志向していました。その点において、利害の一致する三島県政への協力姿勢を表明しておりました。全体的に地主制が発展していた山形において、地主豪農ネットワークが三島県政を地域において支える基盤となっていた側面が見て取れます。県会において民力休養や冗費節約で県と対立姿勢を取りながら、産業振興と物資流通にメリットを感じる関山隧道を含む新道開発にあたっては、積極的な県政与党でもあり、進んで民衆利害の調整にも当たったと思われます。彼ら西村山郡議員団を中核とした谷地郷の政治勢力は、翌明治14年には、特産物振興と百般共同の公益をスローガンとした特展社という政治結社を発足することとなります。
仲裁案を受けた安達久右衛門は、その狙いを的確に見抜いていました。そして、同時にこれから相対するであろう三島県令が一筋縄ではいかない強大な敵であることを感じ、峰一郎と共に、これからの厳しい戦いに覚悟を持って臨む決意を新たにします。また、同じく天童村の佐藤伊之吉のもとにも西村山郡の議員たちが来ていたのでした。




