第63話 栗子から関山へ(改1203)
住民が上申書を出し、郡役所は回答書布告で納付強行をはかります。遡る事2年前、内務省東北7大事業を受けての関山計画でした。そして今、三島県令は栗子貫通まであとひと息のところまで迫りました。工事現場に寝泊まりして工事を見守る三島のもとに、高木課長も合流して貫通の一瞬を待ち受けます。遂に栗子は貫通を果たします。歓喜の万雷の「万歳斉唱」で男たちは栗子の貫通を祝うのでした。
深夜の栗子貫通で興奮醒めやらぬ三島県令ではありましたが、ひとしきり人夫たちの労苦をねぎらうと、高木課長を伴って工事事務所へと引き返してきました。中村技師は早速に現場での測量を行いつつ、現場での作業指導のために坑道内にとどまりました。
工事事務所に戻ったものの、外はまだ暗闇の中にあります。とはいっても興奮で目の冴えた三島も高木も眠るどころではありませんでした。
しばらくすると、三島が子供のようなはにかんだ笑みを浮かべながら、高木に声をかけます。
「高木君、こんなのを詠んでみもしたが、どげんな?」
三島は懐紙にさらさらと筆を走らせたものを高木に手渡しました。
「拝見いたします……」
高木はうやうやしくその懐紙を受け取って手元におしいただき、ランプの光に透かして文字に目を走らせました。
『ぬけたりと よぶ一声に夢さめて 通ふもうれし穴の初風』
(貫けた!との貞吉の声でまどろみを醒まされたが、多くの人々の苦労の末、山形と福島の境に風を通すことが叶い、これほど喜ばしいことはない……)
『突貫し 錐と錐とのゆき逢は むすひの神の恵なるらむ』
(目の前に聳える山に突貫し、山形と福島の両側から土壁に挑む男達の錐と錐が交わる末の開通こそは、結びの神の御加護の賜物・恩恵であろう……)
現場でトンネル貫通を目の当たりにした三島が万感胸に迫る思いを、思わず和歌に詠んだものでした。高木は、声に出してそれを詠み上げます。
「これは良いですな、こちらの事務所だけではもったいない。県庁にも掲示して皆に見せましょう。閣下の感激を職員一同で共有いたしたく存じます。」
その和歌を拝見した高木は、自らの感激も重ね合わせたものか、珍しく饒舌に三島へ喜びを表しました。
これに対して、三島は更に別の紙に書いたものを高木に手渡します。
「よかど、……そいならこいはどげんじゃ?」
高木はそれを受けて、声に出して詠み上げました。
『民のため つくす心は陸奥の……』
詠み上げると、高木は三島を一瞥して微笑みます。そして、改めてその文字と向かい合うと、暫時、思案ののち、サラサラと筆を走らせました。
「閣下、僭越ながら、お返しいたします」
高木は返歌を書き記した紙を三島に返します。それを受け取った三島も声に出して詠じます。
「『……山の穴隧 ふみてこそしれ』……おぉ!見事じゃっど!」
(ひとえに県民の暮し向きのためを思い、政務一筋に尽くしてきた我が心意気、このみちのくの山を貫き通した隧道を踏みしめ通るにつけ、きっとしのばれることであろう……)
共に幾多の困難を排して栗子隧道建設に邁進してきたからこそ、同じ思いを共有して、三島の気持ちを見事に代弁してくれた高木の下の句に、三島は心から喜びを表しました。
栗子坑道貫通に関する和歌3首は三島の作と伝わります。最初の2首は栗子貫通直後の栗子において三島が詠じたものとされていますが、3首目の和歌についてはいつどこで、どのように詠じられたかの正確な記録は詳らかにされてはおりません。
「おんしにも苦労ばかけた。礼を言いもんど。」
三島は高木の肩をがしっとつかみ、しみじみと高木への感謝を言葉に表しました。高木は首をうなだれらせ、意外な三島の言葉に、感激で身体を震わせています。
しばし、二人は時間が止まったかのように固まっていましたが、先に動いたのは三島の方でした。
「よし、夜が明けたら県庁に帰っど。陛下をお迎えする準備に関山の工事もあっで、こいから忙しくなりもんそ。高木君、きばろうで!」
どこまでもエネルギッシュな三島通庸でした。
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明治13年10月19日、はや、昼前に山形県庁に復帰した三島県令は、さっそくに電信で栗子隧道開通を内務省に上申し報告しました。その際、同じ薩摩の出身である内務卿松方正義に、凶刃に倒れた故大久保利通の墓前に報告してくれるよう依頼したのでした。
当時の情報伝達の環境について、グラハム・ベルによる電話の発明は1876年、日本では明治9年のことで、明治政府は早くも明治10年には世界に先駆けてこの電話を輸入しました。しかし、そこから日本に商業電話が普及したのは明治23年に東京~熱海間で公衆用市外電話の取り扱いが開始されるまで待たねばなりませんでした。同年12月には東京~横浜間で電話交換業務が開始されましたが、東北の地に電話が普及するのは、まだまだその先のことになります。
一方、電報がサミュエル・モールスによって発明されたのは、まだ日本が徳川幕府の統治下にあった1844年のことで、日本国内にこの電信機器が初めて入ったのは、1854年に日本に再来航したペリー艦隊より徳川幕府に贈呈されたものが最初となります。その後、電話よりも20年も早い明治2年に東京~横浜間の国内電報が実用化され、以後、電報は新しい通信手段として大変重宝され、日本中に広がっていきました。北海道から鹿児島まで電信線が引かれて、日本を縦貫する電報ネットワークが繋がったのは明治8年頃だといわれています。
記録によれば、三島県令が内務省に栗子の貫通を電話で報告したように書いてある記録も見られますが、以上のような状況から鑑みて、栗子貫通の明治13年当時にはまだ山形県庁にも電話は開通しておらず、三島が使用したのは電話ではなく電報であったと思われます。
栗子隧道は、総工事費のうち、官費3万1944円、民費9万5千円余、地元民は工事人夫として1万五千余人の労役のもとに完成しました。そして、このアジア初の山岳トンネルは、交通運輸上の山形県内最大要路としての役割を果たすこととなります。
坑道貫通からおよそ1年後の明治14年10月3日、明治天皇の巡幸を迎え、栗子隧道は盛大な開通式を行いました。この日こそは、三島の生涯にとって最良の日でありました。
後日、明治天皇は、このトンネルを含めた栗子の新道に『万世大路』の名を贈ったのでした。後々の世まで、末永く山形の栄えを支えてくれるようにとの明治天皇の願いを込めた命名でした。
明治13年10月11日から19日まで西口工事小屋に宿泊した三島は、栗子山隧道が完成しなければ、そこをわが墳墓とする烈火の覚悟で事業を推進しました。
三島の県令在任中、計画および建設したものは、県令退任後の完成も含め、道路23本・橋梁65橋に及びます。明治期における山形県の文明開化・殖産興業に三島の果たした役割は間違いなく多大なるものがありました。三島が山形県の恩人と言われる由縁です。
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三島が最上川を下って、栗子から県庁に戻りつつある頃、東村山郡において三島があらかじめ打っていた布石が動き始めていました。
栗子の坑道が福島側と繋がった同じ10月19日のこの日、高楯村の安達久右衛門の家を訪ねてきた、或る一行がありました。小一時間ほどの間、久右衛門の家にいたその一行は、昼前にはその家を出てきたのでした。
「んだば、久右衛門さん、どうが、頼むちゃ、良い返事ば待ってっからよ。」
そう家の中へ声をかけて戸を閉めた男の言葉には、高楯村のある東村山郡の山形弁ではなく、村山郡でも北側方面の訛りが色濃く現れていました。
そして、一行は少し北へ歩いた了広寺門前を右へ折れ、須川の渡し場のある方向へと向かっていきました。
その一行は、西村山郡谷地郷選出の県会議員たちであり、先の四郡連合会の代表委員をも兼任していた堀米実と西川耕作、そしてその関係者たちでした。西川は四郡連合会の議長を務め、堀米も四郡連合会議員で4月から山形県会副議長をも務めていました。
彼らは関山工事の工事費問題が暗礁に乗り上げている現状を憂えて、利害対立を調整し、東村山郡の民費撤回運動の仲裁を自ら買って出て、この日、高楯村の久右衛門宅を訪問したのでした。
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本家の門を見慣れぬ年配の男たちが出ていくのを、真向かいにある久左衛門の分家の庭から見ていた峰一郎は、何事か事態の変化を感じ取り、急いで本家に向かいました。
峰一郎が本家の玄関引き戸を開けると、土間の先の囲炉裏端に、本家の久右衛門と、峰一郎の父親の久が囲炉裏を挟んで何やら深刻な顔で向かいあっています。
「おんつぁま、ごめんしてけらっしゃい。」
峰一郎が引き戸を引いて屋内に足を踏み入れつつ屋内に声を掛けると、父親の久の荒げた声が聞こえてきました。
「何しった!お前はあっち、行ってろ!」
その声波から、なぜか、父親の久が、かなり不機嫌な様子であるように峰一郎には感じられたのでした。峰一郎は何事か好ましくない事態の出来を感じました。
「まあまあ、久、峰一郎達は俺だど一緒に働いでけっだ仲間だ。峰一郎、お前も入いてしぇえ。ほさ、座てろ。」
峰一郎はこくんと頷いて、土間からの上がり框に腰をかけました。
「久、とにかく、この西郡からの話し、どだごど思う?」
「しぇえ話しだど思うっス。ありがでえ話しだべ。んだげんと……」
良い話しであると言いながら、久の言葉は非常に歯切れの悪いように峰一郎には聞こえました。実際、久はどう対処して良いか悩んでいるのでした。
どうやら、突然に降って湧いたような都合の良い調停案が、西村山郡の議員たちよりもたらされたようです。その調停案の真意とは?そして、これからの東村山郡の住民たちの運動はどうなってしまうのか?まだまだ関山新道問題の行く先は混沌としたままです。
栗子の貫通を、三島は高木と二人で歌を詠み祝い、夜明けを待って、直ちに県庁に復帰しました。その頃、高楯村の安達久右衛門の家を訪問する一団がありました。それは、関山工事負担金問題で対立を深める住民と郡役所の仲裁を買って出た西村山郡の議員団でした。これこそが、三島が栗子に出かける前に打った布石のひとつでした。




