第61話 隧道開通に賭ける思い(改1201)
住民が上申書を出し、郡役所はそれに対する回答書布告で納付を進めようとします。遡る事2年前、内務省東北7大事業を受けて決定した関山計画でしたが、三島県令は苦心惨憺して栗子隧道貫通まであとひと息に迫ります。その三島に高木課長が新聞対策報告をします。それは峰一郎たち東村山郡住民にも大いに関係する事でした。
高木秀明課長の報告は新聞対策のみにとどまりませんでした。この日、明治13年10月18日の早朝、高木課長は栗子に来る前に、自ら東村山郡役所を訪れ、これまでの住民側との経緯を確認してきたのでした。
高木課長が東村山郡役所を訪れた時、そこでは住民の再上申に対する再回答についてひと悶着を起こしているところでした。強硬な対応を主張する留守永秀書記に対して、住民の暴発を恐れる五條為栄郡長が、再回答書への郡長署名を渋っていたのです。
「この期に及んで、今更、何を言うのですか。住民との論争など無益です。今、住民に必要なのは我々の訓導です」
ひとしきり、役所内の様子を確認した高木課長は、五條郡長の言い分を一蹴します。
「し、しかし、……万が一、住民の暴動一揆が起きでもしたら、県令閣下の御威光に傷がつくのでは……」
住民蜂起への懸念をする時期は、既に終わっています。それを理解出来ていない郡長の様子を確認した高木課長は、しかし、それを目の当たりに出来て良かったのかもしれません。そして、郡長を慰撫するかのように穏やかに署名を促しました。
「御心配には及びません。留守書記の文案に問題はありません。郡長殿におかれましては、速やかに署名を願います」
その後、郡長署名をした回答書布告文を用意した郡役所では、その日の内に大急ぎで郡役所掲示板に回答書を掲示し、別途、山野辺会所にも書記を派遣して回答書を掲示しました。
明治13年10月18日、郡役所の再回答は、郡長布達「坤第99号」として公表されました。
内容は、住民上申書却下の前回内容を弁護し「再度上申の趣き甚だ不都合」であると断定し、各町村戸長は賦課金を「来る廿五日限り、聊かも相違なく上納方取計うべし」と厳達、賦課金の即時上納を命じたのです。
以上を見届けた高木課長は、寺津の船着き場から最上川をさかのぼり、山形県の南側、福島県境に位置する栗子山に向かったのでした。
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「閣下は本当に現場がお好きなようですね。県庁の県令執務室にいるときよりも生き生きとしておいでです」
栗子の隧道工事現場の山形県側入口にある現場事務所にて、高木課長が中村章重測量技師に話しかけます。
「まことに。元々、大層工事が好きなんでしょうな。何でも人より先に自分からやり始め、人夫の班編成まで自分の見込みで人選をし、棟梁らを差し置いて大体の指揮までします。だからと言って、決して細かい事にまで干渉はしないから、却って我々も手が抜けません」
中村技師も笑ってこたえます。気を使ってしまうことはありますが、基本的に工事に理解のある三島県令の言動は、工事現場の実務者たちにとってもありがたいことではありました。
「アジアでも初めてとなる山岳隧道工事ですからね。閣下も絶対に成功させなければならないと意気込んでいるのでしょう」
実際にはヨーロッパでも本格的な山岳隧道はその端緒についたばかりであり、日本のこの隧道工事は、専門家の中では世界的に注目を浴びている壮挙だったのです。
「それにしても、閣下は人夫たちを盛り上げる名人ですね。閣下は酒も煙草もしないが、飯時には人夫を集めて酒を振る舞い、いつも飽きたような顔はしないで、人夫たちと大声で談笑しています。おかげで人夫たちも仕事への気合いが、俄然、違ってきました」
確かに三島県令は、生来の薩摩っぽで、南国育ちらしい快活さがあり、庶民の中に溶け込むのが上手かったようです。
「関山での事故がありましたから。閣下も心配なのでしょう。それに、早くこちらの目処が立てば、こちらの機材をそれだけ早く関山に回せますからね」
関山の事故とは、7月22日と28日に続けて起きた爆発事故のことでした。特に22日の事故は妊婦を含む23人が死亡し、重傷者8人、他にも怪我人多数を出した大参事となりました。しかも、その事故後まもなくの28日、今度は運搬中の火薬を拾って遊び半分に火をつけた子供5名が大怪我を負い、内1名が重症という事故が発生しました。
どちらも杜撰な火薬管理が原因でしたが、その遠因には短期完成を性急にするあまりに、管理体制に不備が生じていたことが根底にあり、それがまた労働意欲の低下を招いて、更なる杜撰な環境が生まれるという悪循環となっていたのでした。
最初の事故は、明治13年7月22日、宮城県側隧道入口である坂ノ下において発生しました。火薬運搬人夫が同所での休憩中、人夫のタバコの火が運搬中の火薬40箱に引火爆発したものでした。この事故を受けて山形県から見舞い金330円が被害者遺族に下賜されました。23人もの死者を出した大事故で、工事監督責任のある県からは現在の価値で約700万円にも満たぬ見舞金しか出ないことに当時の時代を感じます。1人当たり、僅か30万円にも届きません。
一方、7月28日の事故は『陸羽日日新聞』の記事によると、宮城県原ノ町村の子供たちが、こぼれおちた運搬中の火薬を拾い集め、それを持って川岸へ行き、掘った穴の中に埋めて火をつけて爆発したものです。これもまた杜撰な火薬管理が原因となった痛ましい事故でした。
三島県令の頭の中には、このふたつの事故のことがこびりついていたのかもしれません。故に、高木課長もまた、強いて栗子から県庁に戻るよう、三島県令には言いにくかった面もありました。
「しかし、県令閣下にはそろそろ県庁にお戻りいただきたいのですが……」
高木課長はため息をつくように言葉をこぼします。しかし、それに対し中村技師はにっこり微笑みながら答えました。
「ならば、そう心配することもありますまい。私の測量ですと、恐らく、この一両日中には、こちら側からの坑道と福島県側からの坑道が繋がると思われます」
「では!」
目を輝かせる高木に、中村は笑顔でゆっくりと頷いたのでした。
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明治13年10月18日の午後6時過ぎ、栗子の工事現場は、日が短くなって早くも真っ暗となり、人夫小屋から隧道入口に続くあちこちにかがり火が灯されました。
遠く西の飯豊連峰の山稜には残照の赤い空が山影を鮮やかに写し出していましたが、真上は既に満天の星空になっていました。その暗がりの中、今しも、深夜番で隧道に向かう人夫たちが、小屋を出てかがり火の明かりを頼りに隧道に向かって行きます。
「おう、貞吉!今日は遅番か、おやっとさぁじゃの!」
「県令さんよ、そろそろ今日あだり、福島と繋がっかもすんねべ。繋がたら、いの一番に教っさげ、待ってでけろ!」
「はっはっはっは!頼もしかぁ!夜中でも待っとるで、気張ってくいやんせ!」
人夫たちは三島に笑って手を振り、坑道の中へと入っていきます。皆、手には蝋燭を灯した個人用のカンテラを持って、真っ暗な坑道へと入っていくのでした。
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連日、現場で人夫たちと混じりあい、時にもっこを担いで土砂運びまでやって子供のようにはしゃいでいた三島も、さすがに昼夜兼行の突貫工事への付き合い疲れが出たようです。
三島は、工事現場からの吉報を今か今かと待つ内に、いつしか、人夫小屋の中でトロトロとまどろんでしまいました。
(三島くん……三島くん……)
どこからか、三島県令を呼ぶ声が聞こえてきます。しかし、三島にはそれがどこから聞こえてくるのか、皆目、見当が付きませんでした。しかし、それはどこか懐かしい声であり、三島にはすぐにそれが誰の声かが分かりました。
(三島くん、よお、ここまで来てくいやった。おいに堂々と楯突いち、そいでん立派に成し遂げたんは、おはんぐらいなもんじゃ……)
(閣下ぁ……)
夢うつつにまどろむ三島の目からは、一筋の涙がツーッと流れ落ちていきます。
(ほんなこつ、おはんに任せてほんに良かじゃったど。こいからも日本のこつ、よろしく、よろしく頼み申すで……)
その声は、静かに静かに遠ざかるように小さくなっていきます。
「お、大久保さぁ!」
三島は大声を上げて跳ねるように飛び起きました。
しかし、その小屋の中には誰もおりません。この小屋に寝泊まりしている「い組」の人夫たちは、今、全員が隧道の中に入り、夜を徹して坑道を掘り進めているのです。
湿り気のある冷えた空気がシンと静まり、時折、囲炉裏の薪や炭がはぜるパチパチという微かな音だけが、閑かに時の流れを感じさせていました。
三島が額の寝汗を拭い、おもむろに懐中時計を開いてみると、時計の針は深夜零時半を幾らか過ぎた所を指して、日付が既に19日に変わったことを教えていました。
懐中時計の秒針が閑かにカチカチと時を刻んでいます。
栗子山の隧道工事現場に寝泊まりして工事を見守る三島県令のもとに高木課長が現れます。坑夫たちを見送り、吉報を待ち望む三島県令でした。




