第5話 恩師の教え(改0507)
故郷の一本杉に、峰治郎は大きく真っ直ぐな大人物になると誓ったのでした。幼少期の峰治郎は故郷でしばしば隣村の少年たちとの石合戦に興じていました。この日も小鶴沢川を挟んで石合戦を繰り広げる峰治郎たちでしたが、多勢に無勢、やむなく退却を始めます。しかし、それは峰治郎の策でした。大寺勢の背後に回った別動隊が川中の大寺勢を峰治郎の本隊と挟み撃ちにして、最後は三倍以上の相手を見事に打ち負かしたのでした。
小鶴沢川の合戦の翌日、峰治郎は、同じ高楯村の石川尚伯医師の寺子屋『鳳鳴館』にいました。そこは、峰治郎の通う私塾であり、吉祥天宮の東側参道の麓にありました。
さして広くはない石川邸の建物でしたが、その寺子屋の上がり框に続く次の間の座敷で、峰治郎は二人だけで石川翁と対面していました。
峰治郎は、縞柄紺地の小袖の着物に茶色い細目の角帯を締め黒の股引きという野良着姿で端然と正座しています。対する石川翁は、茶色い着物に十徳を羽織ったいかにも医師らしい姿で、威儀をただして正座しています。
石川翁は、この幼い愛弟子に優しく問いかけます。
「峰治郎、昨日は大活躍だったそうだな。三倍の相手を散々に打ち負かしたそうじゃないか。みんな、神業じゃと言うとるが、そうなんか?」
「いやぁ、あだな、勝って当たり前だっす。」
峰治郎は少し照れながらも、師からの言葉に満更でもなく、胸を張って答えました。
「ほう、なんでじゃ。三倍もの相手と戦うのなら、少ない方が負けるのが当たり前じゃないのか?」
石川翁は、愛弟子の稚儀溢れる勇ましい言葉を楽しむかのように、更に問いかけを続けます。
「相手が三倍いでも、ほいでも行ぐべって言うなは、ほいだけ、みんな覚悟しったがら、ちぇっとぐらいなはあぎらめねっす。」
三倍の相手と知ってても合戦に挑もうという覚悟が既にできている村の仲間であれば、ちょっとやそっとのことで簡単にあきらめたり、逃げだしたりすることはないと、峰治郎は味方の心裡まで読んでいたのでした。
石川翁は嬉しそうに、フムフムとにこやかに頷いて話しを聞いています。
「……んでも、数ば、あづめだ大寺だは、ひとば、あでにすっさげ、腰も座ってねえべっす。」
大人数を揃えることで安心している大寺勢は、自分がなんとかしようと努力するのではなく、他人任せにする傾向があるため、合戦にあたっての覚悟もなく、ちょっとしたことで動揺する、と言うのでした。子供ながら相手の心理分析までするその考えに、石川翁はすっかり驚いてしまいます。
「んださげ、何が、たまげるごど(びっくりする事)が起ぎだら、浮き足立っで、すぐ逃げるべっす。……逃げだんです。」
相手が恩師であるだけに、語尾を精一杯に整えて言葉を改めた峰次郎でした。
リンゲルマンの実験では、綱引きにおいて1人で引く時は100%の力を出しますが、2人でやる時は93%、それが8人になると半分以下の49%にまで1人当たりの力が低下するとの実験結果が報告されています。
今でこそ、社会学者リンゲルマンの社会的手抜きの実験として学術的な紹介がされていることですが、峰治郎はそれを子供の身ながらも、直感的にそれを理解していたのでした。大敵を相手にする場合での中国の故事『背水の陣』に通じるものがあるのかもしれません。
「ほうか、それで自分を囮にして相手を誘い出して挟み撃ちにしたんか。」
「んだす。大寺は、勝っだ、勝っだ、と有頂天になってださげ、余計に薬がきいだんだべす。」
峰治郎は、恩師から認めてもらったような嬉しさで、瞳を輝かせながら、誇らしげに言葉を続けます。
一方の石川翁は、子供の身ながら、相手の心理までを見抜いて作戦を立てた峰治郎の炯眼に、内心、舌を巻いてしまいました。しかし、そんな峰治郎の能力の片鱗を目の当たりにして、師としては末頼もしい思いを感じながらも、その反面、危ういものも感じるのでした。
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峰治郎の家は、曾祖父の初代、安達久左衛門の時に安達家本家から分家しましたが、峰治郎は幼少の頃から、祖父の二代目久左衛門から読み書きの手ほどきを受け、その後、石川翁の私塾で漢文の素読を教わっています。
しかし、今更ながらに石川翁は果たしてそれで良かったのかどうか、悩んでしまいました。峰治郎は、教えを施す石川翁自身が驚くほどに吸収力が素晴らしく、教える身が嬉しくなるほどの上達ぶりで、最初、『論語』から始めた素読でしたが、今では『史記』までに及んでいました。
『史記』は司馬遷が筆を取った漢王朝の歴史書で、その中には、秦の滅亡の過程や劉邦が王朝を建てるまでの戦いも多々記録されており、翁自身も様々な中国の故事を教え説いた覚えがありました。
また、甲斐武田家の支流とはいえ武田一族の家老職を勤めてきたという安達家の出自を考えても、川中島合戦を始めとする様々な合戦の話を、祖父や父から教え聞いていたかもしれません。川中島を戦った武田信玄といえば、孫子の兵法を旗印にしたことでも知られています。
(まるで、伝え聞く信玄公の川中島の合戦のようじゃ。小せがれの身で、川を挟んで上杉勢ならぬ大寺衆を挟み撃ちにするとは……。いやはや、軍人になれば、とんでもない大将になるやもしれん。しかし、……。)
「従弟の清十郎が、怪我したそうじゃの?」
それまで、意気揚々と胸を張って答えていた峰治郎は、清十郎のことを言われた途端に、それまでの威勢はどこへやら、急にシュンとなってしまいました。
「おやづがら、ごしゃがっだっす(父に叱られました)。まだ、ちゃこい清十郎やおなごの妹だば石合戦さ、ちぇでぐとは何事だど、おやづがらしこたま、ぶ殴らっだっけっす。」
(「ごしゃぐ」=叱る。怒る。「ちぇでぐ」=連れて行く。)
殴られるほどに、よほど父の安達久からこっぴどく叱られたと見えて、峰治郎はがっくりと肩を落として、うつむいてしまいました。
清十郎は小さい体に大きい青痣をふたつも付けた上に、身体中のあちこちに擦過痕を作って血をにじませていました。その大きい青痣は、ふたつとも北垣村の武田泰助から受けた怪我でした。
「峰治郎は清十郎をよく可愛がって、塾にも何度か連れて来たっけものな。合戦中に清十郎が怪我した時、峰治郎は清十郎のそばに居たんじゃろう?どんな気持ちだったかの?」
うつむいていた峰治郎でしたが、そこでは顔を上げて、興奮さめやらぬ体で言い放ちました。
「あん時は、すっげえ頭さ来たっけっす。清十郎の仇ば絶対に討だんなねって……思だっけす。」
「そうかそうか、峰治郎は兄貴だものな。仇を討ちたいじゃろう。大寺村の30人全員を張り倒して土下座させたら、さぞ気持ち良かろうの?」
「そうじゃ!」
つい、釣られて答えてしまった峰治郎でしたが、そんな峰治郎に対して、師は変わらぬ穏やかな笑顔で続けます。
「そうか。大寺の者をみんな土下座させたら、峰治郎は気持ちいいか。」
そう言って、石川翁は笑みを絶やさぬ表情のまま、瞳は峰治郎をじっと見つめ続けました。その視線は、峰治郎にもすぐに感じとられました。
最初は、師の柔らかな笑みの視線を不思議に思いましたが、その笑みを表している顔の皺ほどには、中の瞳そのものがじっと動かずに笑っていないように感じる雰囲気に、峰治郎は妙な違和感を覚えてきました。
そんな恩師の更なる視線を感じて、峰治郎は急に考えこんでしまいました。本当にそうなのか?それをしたら本当に気持ち良いのか?気持ちが晴れるのか?……何かは分からないながら、段々と何となくそうではないような気がしてきました。
峰治郎が素直に悩み始めた様子を石川翁は微笑ましく眺めると共に、心から安堵しました。非凡な軍略の才能を見せながら、単なる匹夫の勇を誇る乱暴者ではないことに、翁は安心したのです。
「戦さは、どんなに強くとも、目の前の敵を倒すことしかできない。しかも、戦さは相手の恨みを残す。今度は相手から仕返しをされ、また、仇を討たなければならない。これじゃキリがないのう。」
「は?……は、はい……。」
その師の言葉を聞いて、峰治郎はまたまた考え込んでしまいました。峰治郎は『史記』の『臥薪嘗胆』の話を石川翁から教えてもらい、その故事はとても印象的に残り、苦労しながら成功した良い話だと素直に思っていました。
単純に相手に勝つことが良いと、素朴な正義感を感じていた峰治郎でしたが、でも、今の恩師の問いかけで、それが分からなくなってしまいました。
「峰治郎、世の中にはもっともっと大きな力がある。しかも、敵も味方も誰も傷つけることなく、恨みも残さず、みんなが納得して従うことのできるものがある。それに目の前の者だけじゃなく、そこにおらん者までのみんなが、争いもせずに納得してしまうすごい力があるんじゃ。」
峰治郎は思いもかけない恩師の言葉に驚きながらも、その回転の速い思考能力で、すぐに答えに相当するものに見当をつけることができました。
「それは神様どが、阿弥陀様のことだべが?」
神仏という形而上の大きな存在に思い至った峰治郎の賢さを感じ、また、感心した石川翁でした。しかし、師が思うものはそれでもありません。
「峰治郎の言う通り、それは確かに一番大事なことじゃ。人としてその心は忘れるまいぞ。……しかし、わたしが言うのは、そういう目に見えんものじゃない。ちゃんと目に見えるものじゃ」
峰治郎は、その師の言葉に驚きました。そして、ただ驚く以上に激しく興味をそそられたのです。
「先生、ほいづはなんだべっす!ほっだな強いもんが世の中さあるんだがっす!教えでけろっす!」
その素直な峰治郎の心情に石川翁はにんまりと微笑みながら答えます。
「それを自分で探すんじゃ。今の峰治郎ならば、きっとそれができる。それが分かれば、峰治郎は今よりずっとずっと大きくなれる」
峰治郎はそんな師の言葉に飛び付きました。
「先生、ほんてんだがっす(本当ですか)!おれ、おれ、そいづば見づげで、おっきい人になっだい!絶対に見づげで見せるっす!」
その峰治郎の若い言葉に石川翁は満足そうに頷きました。
「今、世の中は御一新となり、武士も百姓もみんな平等な世の中になった。しかし、今のところ、それはまだまだ建前だ。実際は徳川の世が、薩摩・長州の世になっただけだ。奥州の大名の多くは天朝様に盾突いた逆賊の者とされた。だから、その逆賊の諸侯の土地に住まう我々もまた、逆賊の人民と思われている。」
子供にはまだ薩摩だ長州だと言っても、また、逆賊の人民と言っても、本当のところはよく分からなかったでしょう。それでも少年は必死に恩師の言葉の一語一語を聞いていました。
「だから、我々が世の中に出て大望を遂げるには、峰治郎のお爺様・父上様の言われる通り、学問をして自分の能力を高めるしかないのだ。賢いお前なら、もうその道理は理解できるはずだな、どうだ?」
「薩摩どが、長州どが、よぐ、分がらねげんと、もっと勉強さんなねっていうのは、分がるっす。」
「うむ、今はそれで良い。しっかり勉強すれば、そのとんでもなく強いものというのが何か、自ずと分かるようになる。励め!」
「はい、ありがど、ごぜぇましだ!」
峰治郎は、畳に両手をついて額を深々と落とし、恩師の愛情あふれる手厚い教授に感謝をしたのでした。
小鶴沢川での石合戦の翌日、安達峰治郎は恩師石川尚伯の邸で恩師と対面して教えを受けていました。石川翁は峰治郎との会話で、峰治郎が勇を誇る単なる乱暴者ではないことに安堵をおぼえますが、一方で、少年でありながら、その見事な智謀の冴えに舌を巻くのでした。そこで石川翁は峰治郎にひとつの宿題を与えます。それは少年にとりその後の人生に大きな影響を及ぼす教えとなっていくのでした。