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第57話 住民の反駁・再上申(改1129)

 上申書で旗幟鮮明にした住民側に対し、郡役所は住民弾圧の準備に入ります。一方、天童村へ使いした峰一郎に、伊之吉は法整備の重要性と国会構想を語ります。その話しに興奮した峰一郎と梅でしたが、帰路、二人を狙う黒い影が近づき、梅は機転をきかせて愛し合う許嫁を演じたのでした。

 どれほど時間が経過したでしょう。峰一郎は梅を抱きかかえる腕を硬直させ、手のひらにはびっしょりと汗をにじませていました。


 間もなく、庚申塚の脇で煙管をくゆらせていた謎の男は、一服を終えると、天童村の方角へと去って行きました。峰一郎の方に向かってくるでもなく、また、こちらに顔を向けるでもなく……。


(はぁぁぁ~~~)


 峰一郎の安堵のため息に気付いた梅が顔を上げます。すると、梅の実一粒分ほどの間隔もない目の前に、峰一郎の顔を間近に見て、梅は飛び上がるようにびっくりしてしまいました。


「きゃっ!」


 梅は顔を真っ赤にして、峰一郎の胸板から顔を上げました。


「お梅ちゃん、ごめん。びっくりさせだっけが?」


「ううん」


 梅はかぶりをふって、頬を真っ赤にしたまま、峰一郎にニッコリ微笑みました。


 峰一郎は梅の笑顔を見て安堵しましたが、すぐに表情を引き締めて梅に語りかけます。


「うん、あの男、いねぐなたみでだ(居なくなったみたいだ)。んだげど、まだ、安心さんね」


 そう言うと、峰一郎は梅の手を握ります。


「あ!」


 梅は、生まれて初めて家族以外の男性から手を握られました。


「お梅ちゃんは俺のいいなずげだ、俺の嫁こだ。堂々ど行ぐべ!」


 そう言うと、峰一郎は梅の小さな柔らかい手のひらを、ギュッと強く握りました。


「はい!」


 梅は喜びもあらわに、大きな声で峰一郎に返事をしました。


 その高鳴る小さき胸に喜びを溢れさせ、峰一郎に手を引かれながら、梅はいそいそと峰一郎の後を付いていくのでした。


 梅は、今、とても幸せを感じていました。


 **********


 明治13年10月11日、峰一郎と梅の二人の裏方の働きもあって、総代人である佐藤伊之吉と安達久右衛門が、郡の公式回答である郡達に対して、更に反駁する再上申書を提出するために、それぞれの村を出発しました。


 郡役所へ向かった顔触れは前と同じでしたが、前回の郡役所の仕打ちを知っている面々は、不測の事態を危惧して、供の増員を申し出ました。しかし、久右衛門も伊之吉もそれには笑って取り合いませんでした。


 恐らくは一行に同道している記者の働きでしょう、既に地元の山形新聞は、この住民たちの上申運動を「民費撤回運動」として紙面に報じていました。


 そのためか、東村山郡の住民たちも、いよいよ郡役所との談判が既に始められたことを知っていました。


 それで、久右衛門一行が郡役所に到着した時には、天童村や隣接する近在の村人20人以上が、一行の談判を激励するために、役所の門前に蝟集して出迎えていたのでした。


 久右衛門も伊之吉も、この日の上申を郡内に告知はしておりませんから、恐らくは、その一行の姿を見かけた住民たちが、取るものもとりあえず、押っ取り刀で参集してきたものと思われます。


 中には涙ながらに膝まづき、手を合わせて拝む者までいます。皆、ボロをまとい、髪も延び放題の者たちです。一行もその姿には胸が詰まりました。


 しかし、この予定外の住民たちの激励は、一行に有形無形の力を分け与えてくれたのでした。


「伊之吉さん、頑張てけろっす!」


「みなさま、ご苦労様っす!お頼み申します!」


「俺だの暮らしば、……よろすぐ、……何とぞ、よろすぐ」


「なまんだぶ、なまんだぶ、なまんだぶ……」


 その歓声や言葉を聞きながら、三浦浅吉が石川理右衛門に声を掛けます。


「理右衛門よ、これならさすがの役所の奴らも俺ださ、手ぇ出さんねべずな。」


 当然、この歓声は郡役所の中まで届いていることでしょう。さすがに数人の巡査では抑えきれないと考えたのか、役所に常駐している筈の巡査の姿も見えません。


 浅吉の呼び掛けに、理右衛門も嬉しそうに相槌を打ちます。


「間違いねべな。んだども、まだまだ安心はさんね。この皆のためにも、俺だも気合い入れでぐべ」


「おうよ!」


 一行は村人の声援を背に、緊張感も新たに、郡役所の中へと入っていきました。


 しかし、今回はせっかくの二人の気合いも幸いに無駄骨に終わり、淡々と上申書の奉呈は何のトラブルもなく進み、すべてはつつがなく終了したのでした。


 **********


 今回の住民側の再上申書の内容は、おおよそ、次のようなものでした。


「……名望者と言い、代議者と言うも、又、他の人民とは、無論、関渉の離れたる者」であり、戸長による当選者届は「私共人民が代議者に立てざりし者を、主庁に於いて一般人民の代議者」と認めたにすぎず、一般村民の代議権を持つ者ではない……と、述べたのでした。


 郡役所の回答では、法律上に依らずとも連合会委員は実質的な郡の代表であると強弁していました。


 しかし、これに対する住民側の主張を要約すれば……。


「役所の言うところの『名望者』『代議者』と見なされている者は、大部分の住民にとってはまったく見知らぬ者であり、そのような住民が知りもしない、選んでもいない者を、法律的な手順も踏まず、法律上の規程もないままに郡役所が勝手に認定し決めたものであり、これは住民の選んだ住民代表とは認められない」


 ……というものでした。


 根底には住民の中にある経済格差の問題があります。この日、一行を出迎えた住民の身なりからも分かるように、住民の3割以上は、まともに米も食べられない極貧層でした。


 貧しくとも地主の庇護を期待できる小作人であればまだ良い方で、その日暮らしの日雇い稼業の極貧者も少なくないのが現状です。彼らからすれば、住民代表とされた地主たちは、まさに顔も知らない雲の上の存在でありました。


 このような住民の大多数の意向も踏まえず、一握りの富裕層を以って代表と見做すか、この時期の日本社会にあっては、非常に微妙な問題の示唆を含んでいました。当然、この時点で村民による選挙など、あろう筈もありません。


 久右衛門や伊之吉は、自分たち地主のそういう立場を理解しつつも、極貧層をも含む地域住民の庇護者として、身内家族同然である小作人たちの親として、その使命感に殉じる行動を選んだのでした。


 ……明治初期の地主とは、そういうものでした。


 ともあれ、このような法律的な裏付けのない行政行為については、どうひいき目に見ても、理は住民側にあります。郡役所は、今回も住民側の上申書を受け取るしかありませんでした。


 **********


 住民総代の一行が帰ったあと、自分たちの職員室に戻った郡書記たちは、ここぞとばかりに憤りをぶちまけます。


「小癪な奴等め!我らが手出し出来ぬと踏んで悠々と引き揚げくさったわ!」


「全くいまいましい奴ばらだ!往生際が悪いにも程があるわ!」


「我々を舐めくさっているんじゃ!はらわたが煮えくり返る!」


 郡役所の書記たちは、分が悪い自覚があるだけに、尚更、憤懣の持って行き場のないイライラが募るばかりのようです。


「それにしても、あ奴らはどうやって連絡を取り合っているのか!」


「まだ、尻尾は掴めんのか!これ以上、愚民どもの好き勝手にさせてなるものか!」


 机に拳を当てる者、椅子に腰を掛けて腕組み瞑目する者、激昂して唾を飛ばす者、……反応は様々ですが、皆、思いは同じでした。


 他の郡役所に出張に行った者は、今や出張先で揶揄されることもしばしばでした。いわく、東村山郡の役人は住民に甘い顔をするから舐められておると……。


 そして、郡役所のトップである五條為栄郡長も、今更ながらに自分がうまく住民から踊らされ、時間稼ぎに利用されたことに気付き、忸怩たる思いで郡長執務室に引きこもっているのでした。


 そのような殺伐とした書記職員室を後にして、和田徹書記は従僕らの詰所に向かいます。


 **********


 当時の東村山郡の一般的な農村社会の状況はどのようなものであったか、山辺町の状況が資料から読み取れます。「安達久右衛門家文書」の中に、明治8年、西高楯村戸長安達久右衛門による届出書として西高楯村の概要が記載されています。


 西高楯村は戸数44軒、人口234人(男119・女115)の小さな村です。戸長以下、副戸長・議員・伍長の役職は入札公選で選出して給料も支給されました。役人の任務は、県郡通達の周知徹底、犯罪取締り、税金割当て、用水路・堤防・道路・橋の管理、その他の村内保全でした。


 村民の職業内訳は、農業養蚕業23戸・日雇手間取9戸・壁塗3戸、他、医者・大工・屋根葺・木挽・傘屋・飴屋・鍋売が各1戸で、半数近くは貧窮状態にあるとうかがわれ、お世辞にも裕福な村とは言えません。これが、明治初期の山麓部の平均的な村の様子であると思われます。

 住民総代は郡役所の回答を受けて、その回答に反駁する再上申をしました。こうして東村山郡住民による民費撤回運動の始まりは次第に住民の中にも広がっていきます。一方、郡役所ではようよう手詰まり感に焦燥が募ってきます。

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