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第52話  和田の逆撃(改1126)

郡役所講堂で郡役所首脳部と面会した住民たちは、まず、安達久右衛門が口火を切って負担金納付拒否を堂々と宣言し、続いて佐藤伊之吉が朗々と上申書本文を読み上げます。法律の盲点を突いた住民側主張に、郡役所側は呆然として成す術を知らず、愕然とする郡役所の面々を尻目に伊之吉が最後のだめ押しの結びを宣言しました。そして、最後は東村山郡住民の委任状の山を郡長の面前に突きつけたのでした。

 東村山郡住民による堂々とした申し立てに、郡役所側が呆然としていた、そんな状況でした。


「和田様……。」


 正にその時、下級書記のひとりが茫然とたたずむ和田に近づき、何事かを和田に耳打ちしました。その瞬間、和田はまるで息を吹き返したかのようにニヤリとします。


 そして、冒頭の堂々とした威厳を再びまとい、住民側に対して身体を向き直し、つとめて落ち着き払った声波で話しを始めます。


「その方らの申し状、相わかった。……なれど、その議について、郡長閣下には、お聞き届け相ならず!」


 明らかに利は住民にあります。しかし、和田としては、今更、住民の上申を認めて負担金割合を一から再検討するつもりなぞ、更々ありません。


 いえ、郡役所の全員が同じ思いでした。一時の衝撃から立ち直りさえすれば、役所の人間には住民の言う通りにしようと言う者は誰一人おりません。それが実情です。


 伊之吉と久右衛門は、叩頭していた頭をゆっくりと上げて、五條郡長に向き直ります。


「条理を尽くして申し上げた我ら住民の願い、郡長閣下には、お聞き届けいただかれなさいませぬか……。」


 久右衛門は、和田を無視して、郡長の目をひたと見つめながら語ります。


 これに対して、五條郡長は挙動不審のように視線に落ち着きをなくし、キョロキョロとあらぬ方向に眼を動かしています。


「くどい!その儀、上申に及ばず!」


 和田が久右衛門を睨み付けて叫びます。


 久右衛門は、和田の言には耳を貸さず、しばらく郡長を見つめ続けました。……が、相変わらず挙動の定まらぬ郡長の姿に見切りをつけるかのように、ため息ともつかぬ呼吸をして話しを改めます。


「郡長閣下にお聞き届けなきは、いかにも残念なる仕儀、……されば、致し方ござりませぬ。これより、我ら、改めて山形県庁に出向き、県令閣下に上申つかまつるべし!」


 久右衛門の言葉に伊之吉も頷き、後ろに控えていた3人も、テーブルの上の委任状の束を回収すべく前に出て手を伸ばします。


 その時でした。


「あいや、待たれよ!」


 上申を却下すると宣言した和田が、なぜか3人を制止します。3人は怪訝な表情を隠そうともせず、和田の顔を不審気に見つめ返します。


「その方らを、このまま帰すわけには参らぬ。まして、県庁に向かうなぞ、もっての他!」


「な、なにい!」


 突然の和田の物言いに、石川理右衛門が敏感に反応します。それに対して、左手で理右衛門を制しながら、久右衛門が静かに和田へ問いかけました。


「和田様、我らを帰すわけに参らぬとは、いかなる存念か?条理を尽くす我らに対する無道の仕打ち、いかなお上の言とて、聞き捨てするには参りませぬ。」


 重みのある久右衛門の言葉でした。


 しかし、意を決した和田は、もはやそれに動じることはありません。既にこの時、和田は条理を尽くす話し合いを放棄していたのですから。


「ふふっ、条理を尽くす、だと。……いや、その方らの言、郡長閣下に対してのみならず、今上陛下に対し奉り、不敬の言、あまたこれあり。我ら、地方末端に連なるとはいえ、臣としてそれを看過する能わず!皆々、神妙にそこへなおれ!」


 和田の号令一下、講堂の前後の扉から大勢の巡査がわらわらと講堂内に飛び込んで来ました。


 先刻、和田にもたらされた知らせはこれでした。天童分署からの緊急増援の巡査5名が郡役所に到着したのです。


 元から配置されていた2名に加え、7名の巡査たちが久右衛門らを取り囲みます。


「なっ!」


 突然の巡査隊の登場に理右衛門や浅吉はすぐに身構えました。しかし、久右衛門はまったく動じることなく、和田に答えます。


「我らが言のいずくに、陛下への不敬の語句の存するや!」


 和田は不敵な笑みを浮かべて答えます。


「それは、我らが吟味すること。その方らの知ったことではない。」


 どうやら、郡役所側は、理非の曲直には関係なく、不都合な申し立ては力でねじ伏せて、すべてを闇に葬るつもりのようです。


 もっとも、今までずっと、役所はそうやってきたのです。そして、それを承知しながら、久右衛門たちは敢えてこうして正しい手順を踏んでこの場にやってきたのです。官の不正義に対して、どこまでも法律にのっとり筋を通していく、それが久右衛門と伊之吉が選んだ道なのでした。


 それがたとえ、どんなに厳しく辛い道であっても、将来を担う子供たちに恥じない大人の責任として、久右衛門たちが決めたことでした。それこそが、少年たちが小鶴沢川で決起した騒動の幕引きで、村の大人たちが決意して選択した道なのです。


**********


 当時、明治政府の新たな刑法として明治3年に制定された新律綱領は、飽くまでも江戸幕府の公事方御定書の焼き直しであって、刑罰について旧幕府・藩の刑法を適用する旨を堂々とうたっていました。更には、中国の明王朝や清王朝の律を加味した復古的色彩の強いものでした。


 それに替えて明治13年7月17日に太政官布告第36号として新たに刑法が発布されました。従来のものが復古的であったのに対して、この新たな刑法はフランス法学者ボアソナードを招聘して研究を重ねて編纂されたもので、フランス刑法の影響が色濃く反映されたものでした。先に説明しましたように、これは罪刑法定主義、法の不遡及という近代的な内容を含むものでした。


 これに加えて、官の横暴を助長したものに、明治6年に制定された『違式註違条例いしきかいいじょうれい』というものがありました。これは意外に知られてはいませんが、現行の軽犯罪法にあたります。違式とは「他人を妨げ、あるいは欺く行為」のことです。具体的には、入れ墨や異様な頭髪をなす者、夜間灯火を用いないで諸車を挽き、また乗車する者、居宅前の掃除を怠ったり下水を浚わない者の取り締まり等、日常生活の細部にまでわたる取り締まり規定が列挙されていました。


 明治13年の刑法制定に伴い『違警罪』として統一規定されるに至りますが、正式な裁判によらない即決処分で拘留や科料を課することが出来るなど、統治側の論理で民衆取り締まりに濫用される傾向が非常に強かった法律です。


 令和5年に中華人民共和国当局が治安管理処罰法を数十年ぶりに改正する案を公表しました。これが成立すれば、服装などに関する規制に違反して有罪とされた人は罰金を科されたり、刑務所に収容されたりする可能性があります。これは服装規定の違反基準が明確でなく、統治者の恣意的な判断でどのようにも適用される危険性を含み、国際的にも物議を醸していますが、それと同じような事と理解しても良いでしょう。


 つまり、この違式註違条例とは、戸口調査から、芸娼妓、料理屋、飲食店など風俗営業の取り締まり、舟運、人力車、馬車などの交通取締、健全な風紀を害する弊風ありとしての盆踊り取り締まり等、公共安寧秩序維持のためとはいえ、伝統的慣行になじんできた民衆には強権的な取り締まりに見られ、むしろ統治側の都合の良いようにどんな些細な理由でも検挙拘引する正当性を主張できる根拠となっていました。


 なお、取り調べにあたっては自白第一主義ということもあって、当初は拷問が制度的に認められていました。証拠主義が導入された明治9年には拷問廃止の達しが一応全国に発出されたものの、実際には過酷な拷問が行われることがまだまだ一般的でした。


 以上のような法律的な背景を考えれば、郡役所内部の閉鎖された空間内で、官側がどんな行動を行おうと『公共安寧秩序維持』の名目で、いかようにも正当化できるのです。たとえ、それが陳情に来た人民であっても、役所の中で暴力を振るい秩序を乱したとの官吏の証言があれば、その人民を検挙拘禁することは法的に認められるのです。


 **********


 郡役所講堂内での安達久右衛門たちと巡査たちの睨み合いは続いたままです。 


 巡査たちは全部で7人、……久右衛門と伊之吉たちは、テーブルを挟んで郡長たちと向かい合い、その右手と左手からのふたてに別れた巡査たちから、両脇を挟み込まれています。背後はもはや壁で八方塞がりでした。


「何をしている!君たちも巡査隊に協力したまえ!」


 和田の命令を受けて、立ち控えしていた下級書記たちも、パタパタとふたてに別れます。


 両脇から迫る巡査たちの後ろから、より完全に逃げ道を塞ぎ固めるかのように、下級書記たちが続いていきます。


「浅吉よ、なんだが、まずい案配になってきやがった。役所の奴ら、どのみち俺だば捕まえる腹だべ」


「ガキ共の手前、久右衛門さんと伊之きっつぁんだげは助けねぇどな。」


「んだな、朝の約束もあっからて、こごで踏ん張らねど、確治から俺が勘当さっでしまう。」


 理右衛門が横目で浅吉を見ながらニヤリと笑います。


「んだ、……見でろよ、定之助。おめえだヒヨッコさは、まだまだ負げでねえがらな。」


 浅吉も微笑みながら言葉を返します。


 しかし、その言葉とは裏腹に、ふたりが握りしめた拳には、じっとりと脂汗がにじんでいたのでした。


 反対側で巡査たちに睨みをきかす宇左衛門も、伊之吉の前にズイッと身体を出して、伊之吉をかばいます。


「伊之吉、俺が死んでもお前だげは守っから!」


「馬鹿野郎、ほっだなごど、させっかよ!お前どは、どごまでも一緒だ!」


 伊之吉自身も、どこまでもやる気満々です。土台、巡査が怖くてこんな上申を出来るものではありません。久右衛門が安達久に万一の場合の後事を託したように、伊之吉もまた、万一の場合の手筈は整えてやって来ています。ここで捕らえられる覚悟もなしに、この場へは来ていません。


 しかし、宇左衛門の隣席にいたもうひとりの介添人は、大勢の巡査の登場に驚き腰を抜かしたものか、椅子から立ち上がることも出来ないようです。


「ほほう、どこまでも手向かい致すか……。」


 余裕を取り戻した和田が、まるで獲物を前にした獣が狩りを楽しむかのように、嬉しそうにほくそ笑みました。


「よい、手に余れば詮なきこと、骨の1本や2本、構うことはない。お上を畏れぬ不埒な者共を捕らえるのだ!」


 巡査たちはじりじりと間合いを詰めて近づいてきます。


 理右衛門は浅吉にだけ聞こえるように呟きます。


(俺だが押さえでっから、テーブルばひっくり返しで、あの窓ガラスばぶちやぷれ。)


 理右衛門と宇左衛門が左右両脇を防ぐ隙に、浅吉が正面突破で血路を開き、久右衛門と伊之吉を逃がすという算段です。うまく行くかどうかは五分五分よりも低そうな確率です。でも、それは官民の対立を決定的とし、官に対して抵抗した事実を後に残してしまう危険性を含んでいます。


 しかし、浅吉はもはやそれしか手はないと瞬時に理解しました。ガキの頃からの腐れ縁、打てば響くように理右衛門の考えはよく分かります。


(それしか、ねえべな……。)


 巡査を睨んだままの浅吉の返事に、理右衛門も巡査を睨んだままで、唇の端を少し上げて頷きました。


 椅子に座りっぱなしの一人は仕方ないとして、恐らく、もう一人の宇左衛門も反対側の巡査を押し留めて援護してくれるのは間違いないでしょう。されば、子供の頃から暴れまくった理右衛門と浅吉にとっては五分以上の勝算に自信を持っていました。


 あとは、理右衛門の合図とともに浅吉が動くだけです。


(よし、いぐぞ……。)


 理右衛門がごくりと唾を呑みこみます。

住民側の圧倒的な勝利宣言かと思われた次の瞬間、遂に和田書記の反撃が始まります。和田は待機させていた巡査隊を投入し住民全員を有無を言わせずに一斉検挙する構えを見せました。周囲を巡査隊に包囲されてしまった住民側は絶体絶命のピンチに陥ります。

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