第48話 彼らは来た(改1126)
郡役所と県庁が善後策に腐心する中、峰一郎は怪しげな人物と接触し、現在の住民が直面する不条理と世の中を変えなければならぬ事を教えられます。郡役所には天童地区の主だった戸長が負担金納付の猶予を嘆願に訪れました。その対応を巡り、郡長と決定的に対立した留守でしたが、その動きに住民たちの狙いを的確に見抜きます。
明治13年10月2日、この日の早朝、秋晴れのすみきった空の下、それぞれの異なる思惑のもとに、事態が少しずつ動き始めます。
安達久右衛門の家には、峰一郎だけでなく、石川確治・三浦定之助らの少年たちも集まり、久右衛門の出立を見送りに来ていました。
久右衛門は、丸に二つ巴の家紋を五つ紋にした正装の黒紋付姿に、縞の駒上袴を履き、更にその上に黒の紋付き羽織をはおった正装の出で立ちです。
二つ巴の紋意匠は、大石蔵之助で知られる忠臣蔵の大石良雄の家紋として広く知られていますが、宝暦2年に安達家十代目久右衛門・喜四郎が書き記した『諸色留書帳』には、先祖代々二つ巴紋を使用している旨が書き残されています。鎌倉幕府御家人の安達家の家紋は知恵の輪のように丸を横に重ね並べた『連銭』でしたが、一方の高楯村の安達家は足利一門からの別れであり、家紋からも系譜の違いが読み取れます。
彼らが勢揃いしていたのは、安達家の屋敷のほぼ中央に位置する仏間でした。代々家名を受け継ぐ地主の家にとって先祖の祭祀は一族のもっとも重要な儀式であり慣例でありました。多くの先人達の苦労と努力があってこそ、現在の自分達がいる。その想いは何も武士階級だけのものではありません。それこそが日本民族のメンタリティでした。
だからこそ、仏間は屋敷の中央に配置され、朝な夕な、当主以下の家族が勢揃いして累代の位牌に香を手向けて礼拝し、常に先祖への感謝の思いを欠かすことはありません。そして、何か事を成す場合においても、その節目において朝夕のお勤めとは別に先祖の位牌に手を合わせるのです。この日もまたそうでした。
静謐に静まりかえった仏間の中、、先祖代々の御位牌をお祀りしている仏壇に対して深々と一礼した久右衛門は、ゆっくりと上体を起き上がらせます。そして、静かな動作で、体を斜め後ろに向き直らせました。その先には3人の少年たちが正座しています。
「峰一郎、確治、定之助、おめだのお陰で、俺も、やっと、こごまで来らっだ。今回の事がどうなっべども、おめだが頑張てけだ事は一生忘れね。ありがどな。」
そう言うと、正装の姿で床の間を背にして座っていた久右衛門は、敷物から座をずらし、3人の少年に対して手をついて頭を下げました。
少年たちはびっくりして、一瞬、固まりましたが、すぐ手を付いて自分たちも頭を下げます。その後ろでは、それぞれの父親たちが笑顔で微笑んでいました。
「よし、んだば、行ぐが。」
久右衛門がすっくと立ち上がり、今回、同行する石川理右衛門・三浦浅吉のふたりを促し、屋敷の外に出ました。子供たちも久右衛門に続いて外に出て、三人の後を慕い付いて行きます。
久右衛門の家の道向かいにある分家・久左衛門の家からは、年老いた久左衛門と、峰一郎の母親のしうが、道端に並び、久右衛門に頭を下げて一行の門出を見送りました。
それと気付いた久右衛門は立ち止まり、久左衛門に対して返礼すると、了広寺に続く細道を先頭に立ち歩いて行きます。
「もう、こごでしぇえ。」
戸長宅から北に20~30間も歩いた了広寺の前で、久右衛門は少年たちに言いました。そして、久右衛門たち一行は了広寺の前を右に曲がり、門前通りを真っ直ぐ東に向かって歩いて行きます。
峰一郎の父、安達久は少年たちと共に残り、親友の理右衛門と浅吉に、叔父・久右衛門の身を託し、信頼する友の背中を見送ります。
本当なら、連合会代表委員としての責任を感じている久こそが、久右衛門の供を願いでたいところでした。
しかし、それは叶いませんでした。言わず語らずとも、久右衛門の思いは痛いほど理解できる久でした。久右衛門は、万一の場合を考えて、久に後事を託したのです。
そんな久の気持ちを汲んでかどうか、少年たちも素直に了広寺門前にとどまりました。しかし、溢れる思いは言葉となって、久右衛門に付き従う彼らの父親たちに投げ掛けられます。
「親父、総代さんば、頼むぞ!」
「役所のやづらがら、総代さんば守てけろな!」
子供たちの激励に対して、理右衛門と浅吉も手を振って笑顔で応えます。
「任せどけ!久右衛門さんさは、指一本、触れさせね!」
「無事に帰てくっさげ、心配すねで待ってろ!」
少年たちは、自分たちが見届けられない、もどかしい思いを胸に、一行の姿が見えなくなるまで、了広寺の門前でずっと手を振り続けていました。
(理右衛門、浅吉、俺の分まで、頼んだぞ……。)
安達久もまた、峰一郎たちと共に、友の背中を見えなくなるまで見送るのでした。
彼らの後ろでは、久右衛門一行の壮途の無事を祈るかのように、寺門に屹立する住職・武田智蔵翁が合掌して念仏を読経していました。
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同じ頃、天童村の佐藤家でも、久右衛門と同じように、佐藤伊之吉が佐藤家累代の御先祖の位牌をお祀りしている仏壇に手を合わせていました。伊之吉の出で立ちもまた、久右衛門と同じく、紋付に羽織・袴姿でした。
そして、両手を太腿の上に置き、再び、深々と御先祖の位牌に対して頭を下げました。
どれくらい、そうしていたでしょう。ようやく頭を上げた伊之吉は、ゆっくりと体を左後ろにずらし、その正面に端然と座る父・佐藤直正に向き直ります。
「親父には、いっづも心配ばり、かげるっス。」
伊之吉は今度は目の前の父に対して深々と頭を下げました。
「なんでもねぇ。おめえの自儘でねぇ。村のみんな、郡の人だ、みんなのためさしった事だ。お前の好ぎにすっどしぇ、そいづが地主の務めだ。」
「ありがとさまっス。」
再び、伊之吉が頭をさげました。
「じゃが……。」
ふと、思い付いたように直正が話します。
「峰一郎……しぇえ、やろだな(良い奴だ)……。」
直正もまた、峰一郎のことが気に入っていたようでした。
「梅さ、添わせでやっだいげんど……あの坊主だば、こだな村の中さは収まらねべずな。……もっともっと、外の世界ば見せっだぐなる、……おがすげな坊主だべ。」
出来れば可愛い孫娘と一緒にさせてあげたい。しかし、峰一郎には地方の片田舎には収まりきれない非凡な才能があるように佐藤直正には感じられるのです。
そして、周りの大人たちがもっともっと教えてあげたくなるような不思議な魅力が、峰一郎には備わっているように感じるのです。
そして、それは父の直正と同じように、息子の伊之吉も感じていることでした。
「梅さ……むつこぐならねようにな(つらい思いをさせないですむようにな)」
梅につらい思いをさせないで済むように、と言った直正の表情は、一瞬だけ、地主の顔から、可愛い孫娘を愛おしむ祖父の表情になっていました。それまで峰一郎のことを語る時は、穏やかに笑みを浮かべて話していた直正でしたが、可愛い孫娘のことを思う時、その言葉にはやや翳りが含まれているのでした。
その父の言葉は伊之吉にも重く響きました。梅もまた峰一郎のことを好いているのは良く分かっている直正と伊之吉でした。また、峰一郎も梅のことを憎からず感じていることも、伊之吉には見ていれば分かります。
しかし、峰一郎のことが気に入ったとはいえ、また、隠れ蓑の方便とはいえ、幼い子供を大人の都合で許嫁にしてしまったことを、わずかながらも後悔している伊之吉でした。
「では、行ってまいります。」
伊之吉は、自分の気弱になりそうな思いを振り切るように、すっくと立ち上りました。そして、父に再び黙礼すると、そのまま、家の外に出ました。
佐藤家の玄関には、伊之吉の盟友である荒谷村の村形宇左衛門が待っていました。
宇左衛門は、伊之吉を迎えると、ニヤリと笑い、手を差し出します。伊之吉もまた、ニヤリと微笑み返しながら宇左衛門の手を握り返しました。
その時、宇左衛門は手の平を通して、伊之吉のかすかな震えを感じたのでした。常に堂々として、村の住民だけでなく、近隣の戸長たちを力強く引っ張ってくれている、あの伊之吉が震えている……。
(伊之吉……。)
それを感じた時、宇左衛門は伊之吉の手のひらを強く握り返してやりました。その手のひらの強さで、宇左衛門は伊之吉を勇気づけようとしたかったのかもしれません。
(宇左……。)
ふたりは互いに視線を交錯させます。伊之吉は、自分の決意を伝えるかのように、表情を固くして宇左衛門の瞳を凝視します。
宇左衛門は、目尻に皺を作って優しく伊之吉の視線を受け止めました。そして、伊之吉の思いを理解していることを示すかのように、軽く2回、頷きました。
ふたりは無言のままに目と手のひらで語り合いました。そして、言葉少なに宇左衛門が優しく呼び掛けます。
「んだば、行ぐべが。」
ふっと、伊之吉の瞳が緊張感から解き放たれました。
「んだな。」
伊之吉は、宇左衛門の言葉に応え、宇左衛門の前を歩き始めます。
(伊之吉、……お前にだけ、苦労はかけさせない。いつでも、俺がお前のすぐ後ろにいるからな、無理するなよ。)
宇左衛門は、伊之吉の後ろを歩きながら、伊之吉の後ろ姿をギッと強く見つめ続けました。
(大丈夫だ。俺はひとりじゃねえものな……宇左衛門、ありがとうよ。)
伊之吉は、数日前、峰一郎との仮の許嫁を命じた時に、娘の梅が言った言葉を思いだし、その時の梅の力強い瞳を、自分の瞼の裏に思い描きました。
(梅、お前との約束、おとうは忘れてはいないからな。梅に負けないように、おとうも頑張てくるから、爺様と一緒に待っていろよ。)
伊之吉は、これ以上、子供たちに悲しい思いをさせることのない世の中とするため、そして、子供たちの健やかな生活を守るため、決意を新たにして前に進んでいくのでした。
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「彼らが来ました。」
郡書記職員室の扉を開けて、和田徹書記が奥まった留守永秀筆頭書記の机に近づきながら報告をします。
いよいよ、東村山郡住民たちの戦いが、東村山郡役所講堂において始まろうとしていたのでした。
高楯村の安達久右衛門と天童村の佐藤伊之吉は、いよいよ郡役所へと向かいます。それぞれの家族・友人たちは複雑な思いで二人を見送ります。いよいよ、東村山郡の住民たちが動きだしました。




